暫く歩き、三皇のいる部屋へ辿り着く楼夷亘羅(るいこうら)は、ゆっくりと扉を開け声を掛ける。

王・楼夷亘羅(わん・るいこうら)、ただいま参りました!」
「よく来てくれました、楼夷亘羅よ」

 大広間へ足を踏み入れた楼夷亘羅は、三皇の前まで歩き片足をつけ跪く。その様子に、数段上がった場所へ腰を据え、玉座の上から悠々と見下ろす張・女媧(ちょう・じょか)。玉座の横には、李・伏羲(り・ふくぎ)炎帝・神農(えんてい・しんのう)が両脇へ構え、同じように見つめる。

「張・女媧様! 早速ですが、話しというのは何でしょうか?」
「まぁ、そう慌てないで下さい楼夷亘羅よ。要件というのは2つあります。1つは、あなたに大魔縁の討伐任務を与えるという事」

 急ぎの任務は何なのか? そんな面持ちで、玉座の前へ跪く楼夷亘羅は、すぐさま張・女媧へ問い掛ける。

「大魔縁の討伐? それは、天部達が今……」

 任務の意味がよく分からず、不安な面持ちで問い掛ける楼夷亘羅。

「その事なら、心配しなくてもいいですよ。天部達は今、婆羅門へ向けて撤退しています。今回は私どもの援軍も、完膚なきまで惨敗です。そして悲しきお知らせですが、十二天の内、数名の者が命を落としました……」

「――惨敗……。でしたら、その任務は最初から、私に任せて貰えれば! そうすれば、天部の者達が命を失うような事には……」
「そうですね。今回の采配は私の落度、本当に申し訳ありません」

 悲しそうな表情を浮かべ、自らの胸に掌を当てる楼夷亘羅。その言葉を受けた張・女媧は、思い悩む顔で深く頭を下げる。

「一体、どうされたのですか? この程度の状況なら、難なく予見できたはず! らしくない采配です」
「えぇ。最初は全てをお任せしようと思っていました。しかし、危険が伴う任務を楼夷亘羅へばかり与えていては、いつかその身を失ってしまいそうで……。ですから、今回は天部の方達にも試練を乗り越えてもらうために。そう思いましたが、結果、それは私の見当違い……」

 重々理解していたが、1人へ与える負担を軽減するために、やむを得ないと語る張・女媧。

「そっ、そんな……。危険な任務で試練など与えずとも、他に方法は幾らでもあったはず! それは余りにも、天部達が可哀想でございます。そのせいで誰かは存じませんが、命を落としたのですよ」
「……楼夷亘羅の気持ちは良く分かります。ですが、貴方にばかり負担はかけれません。致し方なかったのです……」

 跪き両手を広げ、その想いを伝えようとする楼夷亘羅。そうした状況を理解したうえで、指示を出したと伝える張・女媧。

「――とりあえず、2つ目の要件を伝えます。それは何処の誰かは、敢えて言わないですが? 修行を怠り、天部の女性と頻繁に会っていると聞く。そればかりか、あるまじき行為をしているのでは? そのような、噂話も耳にしました。もし、心当たりがあるのなら、今すぐにでもやめて欲しいという事です」

 要件を淡々とした口調で話す張・女媧。聖者ともあろう者が、不謹慎な行為は止めるべきと語る。

「――そんな! あるまじき行為だなんて……。私はただ、顔を見に行っていただけです。一体、何が言いたいのですか? ハッキリとお答え下さい、張・女媧様!」
「なるほど……。ハッキリと申しますか? なら言わしてもらいます。菩薩である楼夷亘羅が、天部の女性と会うような事は、今後一切、許しません!」

 跪く片足を少し上げ、身体を前に問い掛ける楼夷亘羅。しかし、そんな言い分など、張・女媧へは通用しない。

「――何故、その様な事をおっしゃるのですか? 私は誰にも迷惑などかけていません! もし、どうしてもと言うのであれば、私は菩薩の地位などいりはしない」
「なんと愚かなことを……。そんな身勝手なことが、許さると思っているのですか?」

 必死になって、言葉の撤回を訴える楼夷亘羅。だが、女帝の言葉は絶対的だ。張・女媧は呆れた表情で、申し出を却下する。

「それと、1つ言い忘れましたが! 楼夷亘羅の気にしている伊舎那(いざな)ですが……。つい先ほど、伝令役から入った情報によりますと、仲間をかばい亡くなったそうです」
「そっ、そんな事などあり得ません……。伊舎那は俺に……。俺に、無事戻って来ると約束してくれた」

 その目で亡骸を見たわけではないが、報告された内容を伝える張・女媧。その状況に、驚愕する楼夷亘羅は、両足の膝を地面に付け、ゆっくりと掌も地へあてる。

「あなた達のやり取りは知りませんが、婆羅門へ住む上位の聖者なら心配ないでしょう。死んだといっても、善い行いをしていたなら天人として再び転生します。それが100年? はたまた200年なのかまでは、私にもはっきり分かりませんが……」

 余程のことが無い限りは、地獄や下界には転生しないと語る張・女媧。

「そういうわけで、私からの要件は以上です。――こうしている間にも、民が危険な目に遭っているかも知れません。ですから、早く大魔縁の討伐へ向かって貰えませんか?」
「――何だと! 要件は以上? 大魔縁の討伐へ向かえ? それしか言うことはないのか! そもそも、お前の身勝手な采配のせいで、伊舎那は……。伊舎那は死んだんだぞ!!」

 ゆっくり語りながら立ち上がる楼夷亘羅。鬼のような形相で張・女媧へ声を荒げる。

「楼夷亘羅よ! あなたは誰に向かって口をきいているのです。もう少し、冷静になりなさい!」
「誰にだと? よくも抜け抜けと――! 俺は……。俺はただ、伊舎那の顔を見ているだけで、毎日が幸せだった……。それをお前が、奪いやがった」

 玉座から少しだけ腰を上げ、憤る姿を宥める張・女媧。けれど、その言葉は耳へ届くことなく、悲しみに暮れる楼夷亘羅。伊舎那のことを思い浮かべ、心の想いを噛み締める。

「「楼夷亘羅! 先ほどから口が過ぎるぞ」」
「あぁ、そうだ……。お前達3人が殺したようなものだ。早く返してくれ、俺の伊舎那を!」

 2人のやり取りを聞いていた李・伏羲と炎帝・神農。少し言い過ぎだと忠告する。

 ところが、かえって込みあげる怒りを露わにする楼夷亘羅。悲しみの表情を浮かべ、指先を一人ずつ李・伏羲、炎帝・神農、――最後に、張・女媧を指示して声を張り上げる。

「楼夷亘羅、落ち着きなさいと言っているではないですか? 伊舎那は死んだのですよ! いい加減、受け入れなさい」
「いいや死んでなんかいない! 俺の心で今も生きている……」

 何度言えば分かってる貰えるのか? 困った様子で再び宥めようとする張・女媧。着物の地衿(胸元)部分を強く掴む楼夷亘羅は、共に過ごした思い出を懐かしみ、過去を想い馳せる。その瞬間、眼当ての帯紐からは、染み出た滴が頬を伝い零れ落ちた。