過去を想い馳せ、振り返る吒枳(たき)……。

 あの時見せた生命の癒しもそうだが、何もかもがおかしいと思っていた。その事にようやく理解を示し、自分の成長が遅かったんじゃない。楼夷亘羅(るいこうら)が優れていたのだと、少し安堵の表情を浮かべる。ところが、処世(しょせ)は喜びの表情など見せず、何故か悲しそうな顔で遠くを見つめる。

「『ですが、大僧正様。先ほど左手に救世の梵字が浮かぶ者。そう言っていましたが? 楼夷亘羅の手には、そんな梵字なんて浮かんではいなかったですけど……』」
「『そうなのじゃ、普段その梵字は消えていて浮かんではおらん。何かの拍子に、気持ちが高揚した時にだけ現れるのじゃよ!』」

「『気持ちが高揚……。もしかして、あれは泥じゃなくて、梵字……?』」
「『じゃから、お告げを受けてから見つけるまでに、10年もかかってしまった……。もっと、儂が早く見つけてさえいれば……』」

 楼夷亘羅と過ごした懐かしの情景を思い浮かべる伊舎那(いざな)。すると、処世は悲しそうな表情で過去を語る…………。



 

 処世の枕元に三世の諸仏が現れてから、楼夷亘羅を発見したのは、それから10年後のこと。その間、決して遊んでいたのではなく、直ぐに行動へ移していた。そうでなくても、極楽の荘厳(果てしなき大地)は広大な大陸であるというのに、気持ちが高揚した時だけ現れる梵字。そんな左手を探すなんて至難の業であった。

 それでも諦める事なく、同じ年代の子を1人1人触れながら探していた。そんなある日、偶然にも文字の浮かぶ少年を発見する。手の甲には明るく光る梵字が、遠くからでもよく分かるぐらいに、くっきりと現れていた。



 その梵字は、心の声に反応しているのか? 強い光で輝きを放ち、周辺を温かく照らす。すると少年は、何かを抱きかかえるように、大きな声で泣き叫び酷く痙攣する。処世は少しずつ近寄りながら、遠くからその光景を見つめていた。

「『うわっぁぁぁぁぁぁぁ――ん!!』」
「『…………?』」

 それからゆっくりと歩み寄り、そっと近づく処世。次第に事柄の様子も明瞭として、明らかなものとなる。その状況は酷く痛々しい有様で、少年の口と手からはおびただしい血が流れ出ていた。

 一体、どうしたのか? 処世が声を掛けようとした瞬間、少年は何かの詠唱を叫ぶ。すると、身体へ雷撃が落ちたかの如く、何度も体中から放電を放つ。

 痛みに堪えながら幾度となく白目を見せ、意識を失いかける少年。その都度、歯を食いしばり自我を保つ。そんな異常なまでの光景に、止めさせようと目の前に移動した時だった。

 抱きかかえる手には、天鬼(彷徨える亡者)に切り裂かれたであろう2体の横たわる亡骸が存在した。遺体の傍では、発狂した少年が何度も詠唱を行い電撃を浴びる。その状況をすぐに察した処世は、大きな声で言葉を放つ。

「『――もういい、やめるんだ!! お父さん、お母さんは既に息を引き取っている』」

 そう言葉をかけ優しく抱きかかえた。だが少年は暴れ狂い、生き返らせるんだと何度も泣き叫ぶ。処世の背中は少年の爪で掻きむしられ、皮膚は縦に伸びる線のようにえぐれていた。しかし、痛がる素振りなど微塵も見せる事なく、抱きしめた状態が半刻(1時間)ほど続く……。

 暫くその泣き声は、周辺一帯へ響き渡るように聞こえていた。けれど、涙が涸れるまで泣きつくすと、ようやく現実を理解した少年は我に返り、悲しそうな表情で処世の背中へそっと触れる。そして、囁くような小さな声で言葉を掛けた。

「『――お爺さんごめんなさい。こんなになるまで、抱きしめてくれていたたなんて……。凄く痛かったよね……』」

 その優しい言葉とは裏腹に、瞳は光を失って虚ろな状態をしており、何もかもが絶望に満ちた目をしていた。そんな少年の言葉を受け止めた処世は、目に溢れんばかりの涙を溜めると、再び体を優しく抱きしめ、唇を震わせながら呟く。

「『――君の心の痛みに比べたらこんな傷、痛くも痒くもない。それよりも、もっと早く……。もっと早く、儂がこの場所にたどり着いていたなら、このような事にはなっていなかった。本当に……。本当に、すまない事をした。あぁ……。どうしてこの世とは、こんなにも無常でやるせないのじゃ、これは私とこの子に与えた試練なのでしょうか? 十方の諸仏様、どうかお答え下さい……』」

 処世は少年を抱きかかえたまま、天を仰ぎ訴えかけるように暫くの間、言葉を呟く……。


 ――それから半刻(1時間)の時が過ぎ去り、まるで周囲は闇夜のような静けさとなる。その状況に、泣き疲れた少年も、ゆっくりと眠りについた。

 すると暫くして、処世の前へ1人の天人が現れた。その人物は、少年の知り合いだろうか? 息をきられながら遺体の前へ佇むと、突然、力を失い頽れる。そして、すぐさま亡骸を抱きかかえると、目には溢れんばかりの涙を浮かべ、哀愁を漂わせる。

「『どうして……。どうして、こんな事に……』」

 その表情からは、悲しみや切なさといった、やるせない気持ちがひしひしと伝わってきた。声や掌は震え、泣き崩れそうになるが、少年の眠りを妨げまいと、必死に声をひそめる。そんな悲観した状況を、暫く見守る処世。

「『…………』」

 それから……。ようやく落ち着きを取り戻した天人は、傍にいた処世の存在に気付き、そっと声を掛ける。しかし、その言葉には覇気がなく、空虚な面持ちだった。

「『あなたは……?』」

 そんな状況ではあったが、どうして少年を抱きかかえていたのか? 処世は事情を説明すると、その天人は理解を示し納得する。とりあえず2人は、眠る幼子を自宅へ連れ帰り、布団へと寝かせた。

 その後2人は、すぐさま亡骸の元へ向かい、父親、母親の遺体を街へ連れて帰る。そうして、一角にある墓地へ埋葬すると、再び自宅へ戻る。

 そこで更に詳しい状況を説明する処世。自らの名と婆羅門での地位を話すと、少年を引き取らせてくれとお願いする。同じように天人も自らの名を語り、関係は本当の家族ではないが、叔父のような存在だと話す。

 ――少年の名は、王・楼夷亘羅(わん・るいこうら)。天人の名は、月色(がっしき)という。

 処世から伝えられた身柄の話に、最初の内は難色を示していた月色(がっしき)。しかし、暫く考えた後、呟くように話す。

「『この場所で守るのは、周りへも迷惑を掛ける。それに1人では不可能かぁ……? そういう事なら、婆羅門の方が楼夷亘羅にとって安全で、何不自由ない暮らしが待っているかもしれんな……』」

 そう判断する月色(がっしき)は、快く承諾してくれた。

 そんな言葉の意味など、あまりよく理解出来なかった処世。しかし、何か事情があるのだろう? そう思い、それ以上は詮索などしなかった。

 そうして、眠りにつく楼夷亘羅を抱きしめ、街を去ろうとする処世。その時、月色(がっしき)から3つの法具を渡される。それは父親、母親の形見、もう1つは偶然手に入れた物だという。その法具を旅立ちの日が来たら、身を守るために渡してやってくれとお願いされた。

 3つの法具を大事に受け取る処世。すると月色(がっしき)が、最後の贈り物だと眠りにつく楼夷亘羅へ、首飾りを掛けてやる。その首飾りは、法具のような力はないが、母親が大事にしていた石だという。



 会えなくなる辛い想いをグッと堪え、月色(がっしき)は最後に別れの言葉をいう。

「『離れていても、私はいつも楼夷亘羅の事を想っていますからね。そして、これは等曜様が大切にしていた首飾り。将来の妻へ渡してあげるといいでしょう』」

 笑みを浮かべる月色(がっしき)は、そっと楼夷亘羅の耳元で囁いた……。

「『では、元気でね。さよなら……楼夷亘羅』」