――ここは天空に浮かぶ天界の大地、名は極楽の荘厳という。そこには無数に連なる池が点在しており、周辺一帯へ蓮華が美しく咲き乱れる。そして浄化された水面には、鏡のように晴天の空が青々と映し出され、何処までも永遠に続く、果てしない大地が広がりを魅せる。

 そんな美しき大地の中心に、須弥山と呼ばれた大きく聳え立つ山がある。その虚空へと続く聖なる領域には、邪悪な穢れから守るように、4つの大陸も存在する。それらを含め、果てしなく広がりを見せる極楽の荘厳。そうした須弥山の中へは、婆羅門という場所が存在し、幾千もの天人が日々過酷な修練に明け暮れる。

 婆羅門とは、開祖である錠光という人物が、尊い教えを説き天界人を大僧正へと導く場である。その偉大なる聖人を目指す天人が、人徳をよりいっそう高める為に、この場所は存在している。

 ――その大地はそれぞれが、三界と呼ばれた大陸に区分されていた。

 1つ、須弥山の下へ、地底世界があるとされる灼熱の大地、地界。

 2つ、天空の大地と切り離された人間が住む大地、人界。

 3つ、空を舞うように、天高く浮かぶ大地、天界。

 この3つに区分され、これら三界に住む大地の人種は、お互いが干渉する事はなく、日々何事もなく生活していた。

 しかし、その1つである天界で、重大な問題が起きようとする。





 ここは高く高く聳える須弥山の頂点。三皇帝が住み、風情ある七堂伽藍(寺院)の建物が所狭しと建ち並ぶ。そこへ1人の天界人が突如として現れた!

 轟くような声で言葉を放つ天界人は、自らの掌を目の前でゆっくりと握りしめ、声高らかに襲い掛かる!!
 
「お前だけは、――お前だけは、絶対に許さない! 俺がこの手で、調伏してやる!!」
「――何を戯けたことを、お前に我が倒せるかな。のう、王・楼夷亘羅(わん・るいこうら)よ! では仕方ない、望み通り息の根を止めてやろうではないか!」

 両者は強く握る拳を大きく振りかぶり、――激突する!!




「――――――――――――――――――――――――――!!!!」

 お互いの拳は激しくぶつかり合うと、衝撃と共に大きな風圧、光と闇の波動が周辺へ伝播する。

 ――そうして2人は、眼前で睨みあう…………。



 
    
 ――ここは数十年前の天上界。

伊舎那(いざな)! 伊舎那――! 見てみて、君のために蓮華の花を沢山、摘んできたよ。凄いでしょ!」
「――もうっ、楼夷(るい)ったら! 植物も生きてるのよ。こんなにも摘んだら、お花が可哀想でしょ!」

 手に溢れんばかりの白蓮華、紅蓮華の花を嬉しそうに差し出す楼夷亘羅。手や顔は、あちこち泥で汚れてはいたが、気にする事なく服の袖で拭い去る。その光景に、伊舎那は笑みを浮かべ困った表情で語りかけた。

「だって、伊舎那に似合うかなって、せっかく……」
「ありがとう、楼夷(るい)! 気持ちは嬉しいのよ。でもね、何度でも生えてくるからといって、毎日のように摘んでしまえば、さすがにお花の仲間達も寂しいの。だから、ひと月に一回だけでいいわ。私は花よりも、あなたの顔が見れるだけで嬉しいから」 

 寂しそうな表情を浮かべ俯く楼夷亘羅。そんな項垂れた姿に、両手を軽く添え、掌を握りしめる伊舎那。そして、にっこり微笑み優しく語りかける。

「でも……。伊舎那はそんな事でいいの?」
「えぇ。私は楼夷(るい)と一緒にいるだけで、とっても幸せ。だから、何も要らないわ」

 不満げな表情で問いかける楼夷亘羅であったが、伊舎那は満面の笑みで答えた。

「分かった……。伊舎那がそれでいいなら?」
「ありがとう、楼夷(るい)。本当に、それだけで十分だからね」

 伊舎那は笑みを浮かべ、楼夷亘羅の頬にそっと触れる。

「――あら? 布が少し泥で汚れているわね。楼夷、ちょっとだけ動かないで!」

 目を覆っていた帯紐のような布へ、泥が付着している事に気付く伊舎那。その布を取るため、顔を近づけ結び目を緩める。

「少しぐらいの汚れなら大丈夫だよ」
「駄目よ。目にばい菌でも入ったら大変じゃない。――はぃ、取れたわ。じゃぁ、そこの泉で洗ってくるから、少し待っててね」

 布を手に持つ伊舎那は、近くの泉へ汚れを落としに向かう。



 ――暫くして、綺麗に布の汚れを落とした伊舎那。元の場所へ帰ってくると、辺りを見渡し濡れた布を乾かすための樹木を探す。そうして、丁度良さげな樹木を見つけ、その木へ垂れかけた。

「あら? 顔だけじゃなくて、左手も汚れているみたいだけど……」
「――てっ、手は自分で洗えるから!」

 泥で汚れた掌へ、軽く触れようとする伊舎那。問題ないとばかりに、慌てて両手を後ろへ隠す楼夷亘羅。

「そっ、そぉ? それにしても……。そろそろ、あの布も変えた方がいいんじゃない?」
「いいの。あの布じゃなきゃ、駄目なんだ……」

 木に垂れかけた布を見つめ、新しい帯紐に取り替えた方がいいのでは? そう語り掛ける伊舎那。しかし、それは想いが込められた布。それがいいのだと、楼夷亘羅は思い馳せるように微笑みを浮かべる。

「ところで、今度の遠征はとても危険だって聞いたけど。天部達だけで、本当に大丈夫かなぁ……?」
「――うふふ。楼夷は心配性ねぇ、そんな顔しなくても大丈夫よ。これでも私は十二天の1人、伊舎那天なのよ!」

 身を案じ、不安げな面持ちで問いかける楼夷亘羅。その想いを払拭するかのように、伊舎那は掌を胸に当て自信満々に話す。

「そうだけど……。でも、どうして? 大魔縁の討伐なんて危険な任務、天部達だけが命じられるんだろう……」
「そうねぇ……。私には、分からないけど。何か事情があるんじゃないの?」

 心配そうに楼夷亘羅は問い掛けるが、詳しい内容は聞いていないと、首を傾げる伊舎那。

「でも、急に別々の行動だなんて……。もし、本当に危なくなったら、すぐ逃げてよ。伊舎那は責任感が強いから、凄く心配なんだ!」
「はい、はい! 菩薩様の想い、深く痛み入ります」

 何度も問い掛け、憂惧する楼夷亘羅。そんな状況も、慣れた様子で受け流す伊舎那。

「伊舎那! また適当に、聞き流したでしょ」
「――えっ、そぉ……?」

「そうだよ。いつもそうやって、僕の言うこと受け流すんだから」
「だって、楼夷の真剣な顔おかしいんだもん。――うふふ」


 2人は和やかに、いつまでも想いを語り合う……。