ヒルダの帰国を知った日から、私はヒルダと過ごす時間を出来る限り多くした。多くしたといっても、ジェラートを食べに行ったり、私の宿題を片付けたり、お菓子を食べながらお喋りしたり、とたいしたことはしていない。

「今日は学校の図書館に行ったよ」

「そうなの? どうだった?」

「たくさん本があって大きかった。探せば魔法の本があるかもしれない」

「探してみる?」

 私の話をヒルダはいつも興味を持って聞いてくれる。内容がどんなにくだらなくてもだ。新しい言葉を覚えてそれを使うたびに、ヒルダはとても喜んだ。もっとヒルダに喜んで欲しくて、使える単語をいくつも並べて一生懸命喋った。もしかしたら私は、無能から半歩ぐらい抜け出せたのかもしれない。

 そんな日を過ごしていたのに帰国の日が近づくにつれて、ヒルダと一緒にいる時間が少なくなっていった。彼女との別れを惜しんでいるのは私だけじゃない。それは仕方がないこと。
 それでも私の日常はあくまで穏やかに流れていたのだ。

 ヒルダの帰国を次の日に控えた日。
 私は学校の自動販売機で水を買っていた。ガコンと音をたてて落ちて来たペットボトルを取るためにしゃがむ私に、カイが声をかける。

「あれ? ヒルダの見送り行かないの?」

「ヒルダが帰るのは明日でしょ?」

 何を言っているんだという態度を滲ませて答える私に、カイは真面目な顔で続けた。

「いや、今日だよ」

「えっ。明日だよ」

「ほら、カレンダー見てみろって。今日だよ」

 壁に貼られたカレンダーと指で日にちを数える。ゆっくり数えてみると、カイが言う通りヒルダが帰る日は今日だ。日にちを数え間違えていた。無能から少しは抜け出せたと思っていたのに、それは勘違いだったようだ。

「本当だ……」

「だから言っただろ?」

「ねぇ! まだ間に合う?」

 つい大きい声を出してしまった。学生ロビーに響き渡った私の声に、他の生徒が注目し始める。

「えーと、ギリギリ間に合うかなぁ? たしか一時くらいの電車だったと……」

 カイの言葉を最後まで聞かずに、学生ロビーを飛び出した。慌てて螺旋階段を駆け降りて、校舎の重い扉を押し開ける。

『あ! ナッちゃん』

 外に出ようとする私をエリが呼んでいる。でも、今は話をしている時間がない。
 後で説明しよう。きっとわかってくれるはずだ。

 運動神経皆無な私が全力で走ったところで、たかが知れている。だけど今は走らなくちゃいけない。急がなくちゃいけない。



 私はまだヒルダにありがとうも、さようならも、言ってないじゃないか。



 カイは一時ぐらいの電車だと言っていた。まだ間に合うかもしれない。

 私が今、目指すべき場所は駅だ。
 学校から駅までの距離は、決して近くない。

 だけど、どうしても行かなくちゃいけない。

 ヒルダと過ごした日々が楽しかった。
 大好きだった。
 最初の頃、無視してごめんなさい。
 それから、本当にありがとう。

 絶対に伝えなくちゃいけないんだ。

 雨がポツポツ降りだした。
 石畳の道が雨に濡れて滑る。何度転びそうになった。それでも走ることをやめなかった。

 駅に電車が止まっているのが見える。時間がわからない。だから、あの電車が何時のものなのかわからない。

 洋服も髪の毛も、雨に濡れてびちゃびちゃだ。

「中に入れてください! 友達が中にいます!」

「えっと、切符はないのかな? どこに行きたいの?」

 改札に立つ駅員に向かって懇願するが英語が拙いのと、慌てているのとでなかなか通じない。駅員が厄介な物を見るような目で私を見つめる。

「お願いします! お金ならあります!」

 半泣きでポケットからありったけの小銭とお札を出して駅員に突き出す。突然現れて喚いている私に、駅にいる人たちの好奇の目が刺さる。

 別に周りにどう思われてもいい。
 何を思われたって、ヒルダにありがとうが言えなくなるよりずっといい。

 駅員は急に渡されたお金に『意味がわからない』といったような顔をしている。

「大好きな友達が、ドイツに帰っちゃうんです! お願い……」

 ゆっくり区切るように話しながら、両手を合わせて祈るように頼んだ。

「あぁ。見送りたい人がいるのかな?」

 ようやく合点がいったような顔をして、駅員がゲートを開けた。

「行きなさい。お金はいらないから」

 お礼の言葉すら言わずに、ホームに駆ける。

 駅の時計は一時少し前を指していた。

 右にも左にも長い電車がホームに止まっているが、どっちに向かってヒルダを探せばいいのかわからない。足の遅い私が端から端まで探している時間なんてないのは一目瞭然だ。

「ヒルダー!」

 途方にくれて、大きな声で名前を叫んだ。

 目に溜まった涙が溢れそうだ。
 だけど、絶対泣くわけにはいかない。
 こんなところで私が泣いていたら。

 それをヒルダがもしも見ていたら、安心して帰れないじゃないか。

「ヒルダー!」


 もう一度叫ぶ。

 後ろのベンチに座ってたカップルが、クスクス笑っているのが聞こえた。

 間に合わなかったのかもしれない。この電車より前の電車だったのかもしれない。こんなに大切な日をどうして間違えたりしたのだろう。これだから、私はだめなのだ。

 がっくりと頭を垂れた時に声がした。

「ナツ! こっちこっち!」

 声の先には、マークがいた。マークは私の腕を掴むと、そのまま走り出す。それからひとつの窓で立ち止まった。

 窓の中に、ヒルダがいた。


「ヒルダに、さようならを、言いにきたよ。間に合って、良かった」

 息が整わなくて苦しい。それでも必死に声を出した。窓から精一杯腕を伸ばしてヒルダが私を抱きしめる。

「こんなに慌てて苦しいでしょう。大丈夫?」

「ヒルダが濡れちゃうよ」

「そんなの全然平気だわ」

 ヒルダの手が私の背中をさする。

 あぁ、ヒルダだ。お日様みたいな、あったかくていい匂い。

 本当はしばらくこのままでいたい。でも残された時間は少ない。整わない息で必死に喋る

「ヒルダ、ありがとう。本当に、ありがとう。がんばるから。もっと、英語、がんばる。最初、無視してごめんなさい。ヒルダが大好き。本当に、本当に大好き。寂しいよ。だけど、がんばる!」

 ずっと我慢していた涙が、ポロポロと流れた。ヒルダの肩に涙の雨が降る。
 どんなに伝えても伝えきれない。もっと言いたいことがたくさんある。そんな私の気も知らず、電車の発車を知らせるベルの音がホームに響いた。

「もー、泣き虫だなぁ」

 そうやって笑うヒルダも泣いている。私は腕で顔を拭いながら無理やり笑った。きっと変な顔だ。

 電車がゆっくりと走り出す。動き出してもなお、ヒルダに触れようとする私の肩をマークが抑えた。

「ナツ、いつも笑顔で! 約束よ!」

「うん、わかった! 約束!」

 出来る限り精一杯笑いながら手を振る。

 電車は徐々に小さくなって、最後は景色に溶けていった。


 いなくなってしまった。

 もう、家に帰ってもヒルダはいない。
 ミルクティも宿題を手伝ってくれることも、おかえりって抱きしめてくれることも、もうないのだ。

「うぅ……」

「ナツ、行こう。学校に戻らないと」

 いつまでも泣き止まない私を困ったように見ていたマークが、駅の出口に向かって背中を優しく押す。誰かに押してもらわなければ、私はずっと動けなかっただろう。

「ありがとうございました。迷惑かけて、ごめんなさい」

「気にしないで。間に合ったようで良かった」

 駅員に今度こそお礼を言って、改札を抜ける。

「俺の学校はナツと反対の方向だから、一緒にいてあげられないけれど一人で大丈夫?」

「大丈夫。一人で平気」

「本当に?」

「うん、大丈夫。ありがとう」

「じゃあ俺は行くよ」

 そうは言いうものの、心配そうに何度もマークは振り返る。大丈夫だと知らせたくて手を振る。それを見て今度こそ駆けて行った。

 私も学校に戻らなければいけない。
 昼休みはとっくに終わっているから、きっと先生に怒られる。

 雨はさらに強くなった。
 鼻をすすりながら、トボトボとさっき駆け抜けた道を歩く。

 すれ違う人が、私を避けるように歩く。

 当たり前だ。
 びしょ濡れで、鼻をすすって俯きながら歩く外国人がいたら、私だって近づきたくない。

 町の至る所にヒルダとの思い出がチラついて、顔を上げて歩きたくなかった。
 一緒に行ったジェラート屋さんも、休日の昼ご飯を買いに来たパン屋さんも、一緒に飲みに行ったパブもそこにあるのに、ヒルダはいなくなってしまった。

 ポタポタと足元に垂れる物が、雨なのか自分の涙なのかわからない。

 と、体にドンッと衝撃が走る。

 しまった。
 人にぶつかってしまった。

 今の自分には、避けられることしかないと思っていた。
 謝らなければと思い、顔を上げる。

「なんで……」

 ぶつかった相手がカイだったことに驚いた。どうしてこんなところにいるのだろう。何か言う前に、カイは私を抱き寄せた。周囲の人たちがむける視線と雨から守るように、カイの腕が私を丸ごと包んだ。

「よく頑張った。ヒルダには会えた?」

 聞こえてくるカイの声が優しい。雨で冷えた体に、腕の中が暖かい。せっかく止まりかけていた涙が、またぶり返す。

「ありがとうって、言えた」

「うん」

「だけど、でも」

 泣いているせいで、声が上手く出ない。

「ヒルダが、いなくなって、とても、とても寂しい」

「よく頑張った。落ち着くまで、こうしててあげる」

 声を上げて泣く私の背中を、カイはあやす様にポンポンと叩く。
 カイの腕の中は優しいヒルダと同じように暖かい。私が泣くと、ヒルダもよく抱きしめてくれたのを思い出す。でも、もういないのだ。しっかり現実を受け入れないといけない。

 私の呼吸が落ち着いてくると、カイは何も言わずに離れて歩き始めた。
 離れた途端に、風が体を通り抜ける。
 すぐに歩き出すことができなくて、しばらくそのまま立ち竦む。

「行こう。俺もナツも、びしょ濡れだ。風邪ひく」

 ぼんやりしている私に向かって、カイが手招きしている。
私は頷いた後、少しだけ駅の方向を振り返った。

 私、頑張ってみるよ。

 心の中でそう呟いて、少し先で待っているカイのもとへ走った。