三人で海沿いを目指して歩く。少し先を、カイがポケットに手を入れながら歩いている。口笛を吹いて、機嫌が良さそうだ。夕焼けに照らされて、カイの影が長く伸びている。
 九時を過ぎるまで暗くならないことに、未だに慣れない。なんとなくまだ五時ぐらいのような気がしてしまう。実際は、もう七時半を過ぎたころだ。

 少し薄着すぎたかもしれない。昼間がとても暑いせいで、つい薄着で出てきてしまう。今は息が白くなるほど寒い。

 パーカーのポケットに両手を入れて縮こまる私の肩を、隣を歩くヒルダがギュッと抱いた。

「寒い? 私のマフラーいる?」

「大丈夫。ありがとう」

「大丈夫そうに見えないわ。はい。はんぶんこ」

 ヒルダは私の首に自分のマフラーを半分巻いた。

「ナツは、この国が好き?」

「うん。最初は嫌だったけど、最近は好き」

 私の返事を聞いたヒルダは、安心したように笑った。


 今日の目的地は海沿いにある、この町で一番大きなパブだ。深緑色に塗られた木の柱と白い壁。少しだけ外に飛び出た屋根に下げられたオイルランプが潮風に揺れる。両開きの扉の上に掲げられた黒い看板には金色の文字で、『チェリオット』と書かれていた。
 カイが扉に続く短い階段を軽やかに駆け上って扉を開けた。

 パブの中は物凄い喧噪だ。静かな海沿いに音が降る。

「ほら、早く入って」

 カイに急かされて前に進む。そのままぐわんとした雑踏とアルコールの匂いに飲み込まれると、パブの扉が閉められた。




 日が完全に沈んで暗くなった頃、パブの扉は再び開いた。
 大きな笑い声をあげながら、三人の人間がその扉から転がり出る。私とヒルダとカイだ。


 パブの中に入ってからは、どこまでもくだらない楽しい時間を過ごした。突然踊りだすヒルダに笑い、誰のだかわからない物まねをやり続けるカイに笑った。多分、この国に来て一番笑った夜が今日だ。
 もう帰り道なのに、さっきから思い出しては笑っている。酔っぱらっているからかもしれないが、すべての出来事が可笑しくて仕方がない。

 何が面白いのかわからなくなっても笑いながら、肩を組み合って千鳥足で家に続く道を歩いた。

 いつまでも、いつまでも、こんな時間が続くと思っていた。

 日本に帰るまでずっとこんな毎日が続くのだと信じて疑わなかった。来るときは寒かったが、今は寒くなんかない。
 夜空はキンと晴れていて、プラネタリウムのような星空が私たちを見下ろしている。

「帰国するのが嫌になるぐらい楽しかったわね! もっと期間を取ってここに来ればよかったわ」

「えっ?」

 ちょっと待ってくれ。ヒルダは今、なんて言ったのだろう。私が聞き間違えていなければ、帰国といった気がする。夢心地だった頭を、殴られたような衝撃に思わず立ち止まってしまう。

「あれ、もう帰国なの?」

「そうよ。私は来週、ドイツに帰るわ」

 目を点にして立ち止まる私を挟んで、カイとヒルダが会話する。聞き間違いであればいいと願っていた。それは残念ながら一瞬で否定されてしまった。

「……ヒルダ、帰っちゃうの?」

 ヒリついた喉からどうにか声を出す。まるでみぞおちが殴られた時のように声が出ない。

「やだ。そんな顔しないで、ナツ」

「だって……」

 そこから先の言葉が出ない。だってなんだというのだろう。あの家は私たちの本当の家じゃない。私に帰るべき場所があるように、ヒルダたちにもあるのだ。当たり前で当然で現実だ。

 それでもなぜかさっきまで私は信じていた。
 いつも優しく笑ってくれるヒルダが、ずっと傍にいてくれると思っていた。
 ずっと続くのだと、疑うことなく信じていたのだ。

 少し冷静に考えればそうではないことは簡単にわかることなのに、私はやっぱり馬鹿だ。

「大丈夫よ。ナツはもう、ここでやっていけるわ」

「だけど……」

 やっと話せるようになってきて、ヒルダに言いたいことがたくさんあった。もっと色んな話をして、もっと仲良くなりたかった。急に言葉が出なくなる。

 だって。だけど。でも。

 そんな言葉しか出てこない。

「この町が最近は好きだって言っていたじゃない。そうやって言えるようになったなら、絶対に大丈夫。一人じゃないわよ。マークもカイもいるわ」

「その二人じゃダメなの!」

「おい……」

「だって、ヒルダじゃないもん!」

 思わず飛び出した言葉に、カイがすかさず反応した。口をへの字にして押し黙る私の目じりに薄っすら滲んでしまった涙を拭いながら、ヒルダはいつものように穏やかに笑う。

「ナツは絶対に大丈夫。ほら、家に帰りましょう。体が冷えてるわ」

「……大丈夫じゃないもん」

 歩き出そうとしない私の背中をヒルダがそっと押した。楽しい雰囲気が、一瞬で吹き飛んでしまった。

 私よりも先に、ヒルダが帰ってしまう。

 酔っぱらってふわふわしていた頭の中が、今は小さな氷があるようにキンとしている。

「まだ帰るまで時間はあるわ。たくさん話をして遊びに行こうね」

 家についても黙ったままの私に、ヒルダが優しく話しかける。まるで不貞腐れた子供だ。理解していることを伝えるために何度か頷いた。

「おやすみなさい」

 二人にポツリとそれだけ告げて、自分の部屋に入る。

 なんだか疲れてしまった。英語が理解できるようになってから、まるでジェットコースターに乗っているみたいな毎日が続いている。靴を放り投げるように脱いでベッドに倒れた。

 考えていると涙が出てきそうだ。静かに目を閉じて、出来るだけ何も考えないようにしながら、私は意識を遠くへと投げた。




『ナッちゃん起きて! ついにわくわくドキドキなことが起きたの!』

『うーん……』

 次の日、学校が休みなことに甘えて睡眠を貪っていた私を、エリがたたき起こした。

『ほら、起きて! もうすぐお昼だよ!』

『わかったよ。起きる』

 のそりと体を起こしてベッドの上に胡坐をかく。ぐっと両手を上に伸ばすと、大きな欠伸も一緒に出た。

『ナッちゃんの部屋は本当に広いね。案内してくれたリースもすごく優しそう……』

『でしょ? ……それで、どうしたの? わざわざ家に来るなんて何かあった?』

 目をこすりながらエリを見る。なんとなく頭が重い気がするのは、昨日少し飲みすぎたせいだろう。

『だから、わくわくドキドキなことが起きたんだってば!』

『何?』

『私、好きな人ができました!』

 ふわふわと幸せそうに笑うエリが言った言葉が、じんわりと脳に染みていく。完全に理解した時、寝ぼけていた私の目は大きく見開いた。

『……えーーー! 誰!? 私も知ってる人?』

 驚く私の反応に満足したような顔をして、エリは小さく頷いた。

『あのね、相手はルイなの』

 恥ずかしそうに笑うエリを見ながら、ルイのことを思い出す。
 少し垂れ目で優しい顔をしているルイは、見た目通りの優しい声で話す。柔らかくてふわふわ。声色だけじゃなくて動作まで柔らかい。女の子に好感を与えそうなところがたくさん思いつく。水が買えずに絶望している人間に、買ったばかりの水をあげるような優しさも彼は兼ね備えている。

『きっかけは何? 昨日のボーリング?』

『なんだろう。昨日のボーリングで、知り合いがいない私とずっと一緒にいてくれたのは大きいかも。でも、噴水で初めて会ったときから、なぜかドキドキしてたの』

 もしかして、一目惚れってやつだろうか。そんなこと、本当に起こるんだ……。でも、好きになったきっかけなんて、よくわからないものなのかもしれない。恋とは、突然で不意で急なのだろう。だからきっと、英語でも日本語でも『恋に落ちる』だなんて言うのだ。

『これから楽しくなりそうだね』

『うんっ!』

 何はともあれ、つまらなそうに生活していたエリの世界に色がつくのは良いことだ。願わくば、薔薇色に色づいて欲しいと思う。

『それでね、色々と話したいこともあるし、一緒に出掛けない?』

 最近の私は、なんだか忙しい。退屈なルーティンを繰り返していた日々が少し懐かしく感じる。あの日々に戻りたいとは思わないけれど。

『わかった。準備するよ』

『そもそも、ナッちゃんは少し寝すぎなんだよ』

 ようやくベッドから下りて身支度を始める私を、エリが呆れたような顔をして見つめた。

『で、どこに行くの?』

『そうだなぁ。せっかくのお休みだからカンタベリーに行ってみようよ!』





 急かされるように支度をして、家を出てから六時間。私はエリの話をたっぷり聞いて帰宅した。エリとはもう別れたはずなのに、まだ耳の傍でエリの声が響いている気がする。
 ダイニングで夕食を食べながら、今日の出来事をぼんやりと頭の中に描く。

『ストライクが取れた時、ルイが私を持ち上げてグルグルって回ったの!』

 そう言いながらキャッキャと笑うエリは可愛かった。行先に決めたカンタベリーは電車に乗って三十分ほどかかる。自分の手で開けて乗らなければいけない電車も面白かったし、世界遺産になっているカンタベリー大聖堂も素晴らしかった。でも、少し疲れてしまった。
 皿の上に残っているじゃがいもを転がして小さく溜め息をついた私に、カイが声をかけた。

「ナツ、なんか疲れてない? 今日は何をしていたの?」

「友達とカンタベリーまで行ってきた」

「あ。だからそのネックレスをしているのね。大聖堂で買ったんでしょう?」

 私の首元には四葉のクローバーのような形をしたネックレスが垂れている。ヒルダの言う通り、大聖堂で記念に買ったものだ。寺や神社で買うお守りのような感覚で買った。

「そう。素敵だったよ。ステンドグラスも素晴らしかったし、回廊も薬草園も神聖な感じがした」

「それは良かったね。でも、本当に疲れてるように見えるから、今日は早めに寝た方がいいよ」

 マークの言葉に、カイとヒルダも同意するように頷いている。どうやら私は、かなり疲れているように見えるらしい。

 本当に心の底から良かったと思っているのだ。嬉しいし、応援したい。疲れてしまったのは、きっとエリと私のテンションに差があったからだ。
 ヒルダが帰国してしまうことを知った私のテンションは、簡単に最高潮まであがりきらない。

「うん。食べたら部屋に帰ってすぐに寝るよ」

 言いながら残っていたじゃがいもを食べて、食事を終わらせた。ヒルダと話をしたい気持ちもある。だけど今日はみんなが言う通り休んだ方が良さそうだ。

 部屋に戻って歯磨きをしながら、次の日の準備をする。

「あっ」

リュックにテキストを詰めながら時間割を確認した時、日付を見て思わず声が出る。

 明日は、私の誕生日だ。
 今まで友達に祝われた思い出もなければ、家族に大きなケーキを用意してもらったこともない。私にとって丸いホールケーキは、絵本に出てくる女の子がお祝いをしてもらうときに出てくるものだった。特別な感じがするケーキに憧れたこともあった。

『用意してもらえるだけありがたいと思え』

 そう言って両親が出す誕生日ケーキは小さなカットケーキに一本のロウソク。それが最高の贅沢で幸せだった。
 大学に入ってからできた友人たちが傍にいれば、もしかしたら祝ってもらえたかもしれない。でも、私は今イギリスにいる。特別なことは何も起きずに、普段通り過ぎていくのだろう。

 準備を終わらせて口をゆすぐ。それから身支度を整えてベッドに入る。久し振りに遠出をした疲れがドッと出たのか、何か考える間もなく眠りについた



 次の日の朝。

『お誕生日おめでとう。私』

 目が覚めて部屋のシンクで顔を洗った後、鏡の中の自分に言う。まさか十九歳の誕生日を、一人外国で迎えることになるなんて思ってもいなかった。身支度をしてダイニングへと向かうと、リースたちが待ち構えるように立っていた。

「みんなどうしたの?」

 いつもと違う雰囲気に戸惑ってダイニングに入れずにいた私に向かって、みんなが手に持っていたクラッカーを鳴らした。

「お誕生日おめでとう!」

 突然鳴り響いた音に目を白黒させている私を、みんなが囲む。

「お誕生日おめでとう。ナツ」

 リースが頬にキスをする。

「ナツの誕生日が素晴らしい日になりますように」

「誕生日おめでとう」

 続けてマークとカイが、ぎゅっと抱きしめて離れた。

「どうして秘密にしていたの? 何も準備ができなかったじゃない。とにかく、誕生日おめでとう!」

 最後にヒルダが、額にキスをした。

 秘密にしていたわけじゃない。誕生日を知らせて回るという概念が私の中に無かった。みんな自分から教えるのだろうか。思えば、他の人たちはどうやって人の誕生日を知るのだろう。
 みんなはなぜ、私の誕生日を知っているのだろうか。

「あなたを迎え入れるとき、事前にもらったプロフィールに書いてあったのよ」

 私が聞く前に、リースが答えた。さっきから驚いて固まるか、頷くことしか出来ないでいる私の目の前にチョコレートケーキが差し出された。

 丸くて大きいホールケーキ。大きな苺で飾られて、真ん中にあるホワイトチョコのプレートに『おめでとう。ナツ』と書かれている。ロウソクはしっかり十九本。私が憧れていたバースデーケーキだ。

「ほら、ナツ。願い事をして!」

「一回で吹き消さないとだめだよ!」

 促されるまま椅子に座ると、ロウソクに火が灯った。プレートに書かれた名前を見ながら、ふっと息をかけて火を消した。その瞬間、涙が急に溢れた。慌てて両手で顔を隠して俯く。

「どうしたの!? 何か悲しいの? 驚かせすぎちゃった?」

 急に泣き出した私に、みんなが慌てふためく。
 悲しいわけじゃない。驚いたからじゃない。伝えたくて、顔を覆ったまま首を振る。

「違う。すごく嬉しい。こんな風に、誕生日を祝われたことがなかったの。大きなケーキも嬉しい。みんなの気持ちも嬉しい」

 無理やり涙を引っ込めて顔をあげた後、鼻をすすりながら笑う。

「ありがとう」

「焦った……」

「本当、びっくりした……」

 脱力したようにカイが椅子に倒れこむ。ヒルダもほっと息を吐きながら席に着いた。

「ナツは感情表現が豊かでいいね」

 マークは落ち着いた様子で笑っている。さすが一番年上なだけある。

「さぁ、早く食べて家を出ないと学校に遅れるわよ」

 切り分けたケーキをテーブルの上に並べながら、リースが声をかける。私の前にあるケーキにはプレートが乗っている。つまんで齧るとパキリと音をたてて砕けた後、口の中でとろりと溶けた。味はスーパーで売っているチョコレートと変わらないけれど、自分の名前が書かれている唯一無二のチョコレートだ。ゆっくりと甘さを堪能して飲み込む。

「私はショートケーキがいいって言ったんだけど、カイがナツはチョコレートケーキだって譲らなかったのよ」

 少し不満そうにヒルダがボヤく。正直、生クリームがあまり得意じゃない。だからチョコレートケーキなのは嬉しかった。でも、どうしてカイはそう思ったのだろう。

「どうして?」

「だって、ナツは毎日パンにチョコペースト塗ってるじゃん。だから、チョコレートが好きなんだろうなって思って。ショートケーキのほうが良かった?」

「ううん。チョコレートの方が好き」

「ほら! 言ったとおりだ!」

 やっぱりカイは、人のことをよく見ている。勝ち誇った顔でヒルダを見返すカイを見ながら、頭の中でそんなことをぽつりと思った。



「素敵な誕生日を過ごしてね」

「ありがとう」

 ヒルダとマークが私の額にキスをしてから家を出ていく。最初はこんな文化に驚いたが、少しずつ慣れてきた。

「俺たちも行かないと」

 みんなからの気持ちと大きなケーキで胸とお腹をいっぱいにして、学校に向かう。

「なぁ、どうして誕生日を内緒にしてたの?」

「そんなつもりはないよ。言わなくても良いものだと思ってた」

「あのさぁ、友達の誕生日は祝いたくなるだろ? リースが教えてくれなかったら何も言えないところだったよ」

 意味が解らないといった様子のカイを見ていると、やっぱり事前に伝えるものなのかもしれない。確かに私にも、エリやヒルダたちの誕生日を祝いたい気持ちがある。知らずに過ぎてしまったら教えてくれればいいのに、と思うかもしれない。

「ちゃんとエリ達にも言えよな。知らないまま過ぎたら、きっと残念がる」

「うん。わかった」



 学校についてさっそくエリとルイに今日が誕生日であることを伝えると、二人ともすごく驚いて慌てた。

「もう! なんでもっと早く言ってくれないの? 何も用意してないよ。ナッちゃん、何が欲しい?」

「そういう大事なことは、早めに教えてくれないと!」

 二人に詰め寄られる私を、『ほらね』とでも言いたそうな目でカイが見ている。思わず肩を竦めた私を見て、カイが我慢できなくなったようにふっと笑った。

「でも、せっかくの誕生日だよ? 一年に一回しかないんだよ? ……あ! 昼ごはん奢ってあげる!」

「僕もそれに乗った!」

 誰も知っている人がいない場所だったはずなのに、なんだか不思議だ。一人でひっそりと迎えると思っていた誕生日は、たくさんの祝福で溢れていた。私はなんて幸せ者なのだろう。
 ランチが賑やかになりそうな気配を漂わせながら、いつも通りの、だけど少し特別な学校が過ぎていった。