朝に出ていた霧はすっかり晴れて、青い空に向かって噴水が水を噴き上げている。その噴水の淵に座って足をぶらぶらさせながら、私はエリと二人で、カイが来るのを待っていた。

『今日の授業も、ナッちゃんは頑張ってたね』

『負けちゃったけどね』

 今日の授業もなかなか楽しかった。クロスワードのようなゲームをしながら、チームを組んで競い合った。勝負には負けてしまったが、ズルをして勝とうとするクラスメイトに向かってしっかり抗議することができた。それが今日の私のハイライトだ。

「お待たせ!」

 校舎の中から小走りで駆けてくるカイの後ろに、ルイが見える。

「こいつも一緒に帰っていいだろ? 家、近所だし」

 頷きながら、エリに向かって二人を紹介する。エリと二人でいるときに使う言語は日本語なのに、他の国の人が混ざるとすぐに英語に切り替えられるようになった。人間の脳は不思議だ。
 名前を言い合いながら三人が握手するのを見守って噴水から飛び降りようとした時、目の前に手が差し出された。カイだ。

「……ありがとう」

「なんか、見てて危なっかしいんだよな」

 手を貸してもらいながら、噴水から飛び降りる。

「はい。エリも」

「ありがとう」

 エリはルイの手を取って、噴水から飛び降りた。四人並んで校門を抜ける。

「ねぇ、ルイはどこ出身なの?」

「僕は台湾だよ。行ったことある?」

「私は行ったことないや」

 外国に来たのは、この国が初めてだ。日本にいるときの私は、狭い世界の中で生きていた。家と学校がすべてだった。その狭い価値観の中で、息苦しいのを我慢しながら生活していた。

 水槽の中の酸素が足りなくて、水面で口をパクパクさせる金魚。狭い空間に生きていけるだけの設備が整っていても、環境が合わなければ息苦しくなってしまう。酸素不足の金魚のように苦しいのを我慢しながら、私はぎりぎりで生きてきた。
 今は終わりが見えないほどの大きな水槽に放たれている。初めは新しい出会いと環境に戸惑って動けずにいたが、最近はこの広い世界に少しずつ慣れてきてスイスイと泳ぎ始めたところだ。

「私はあるよ。良い国だよね。ご飯も美味しかったし、親切な人が多かった」

 エリが手を上げながら答える。栗毛色の長い髪がふわりと揺れて、場の雰囲気が柔らかくなった。甘い砂糖菓子のような雰囲気のエリと、マシュマロのような柔らかい話し方をするルイは少し似ているかもしれない。

「そうなんだ。台湾のどこに行ったの? 何が美味しかった?」

 二人が話し始めるのを聞きながら、視線を遠くする。この坂から見る景色が好きだ。レンガ造りの家が並ぶ奥に、青い海と白い雲。太陽がキラキラと輝いて、海面に宝石を散りばめる。世界は、私が想像していた以上に美しい。

「なぁ、ナツは今日のボーリング大会に行く?」

「行かない。好きじゃないんだ」

 カイが言っているのは、学校が行う校外レクリエーションのことだ。毎週一回から二回程度行われている。今回はボーリングだが、ビリヤードだったりバスケットボールだったり種目も変わる。時々、近隣の街に行くようなレクもあったから、学校の掲示板に張られる案内の確認はしていた。
 私はボーリングのスコアが一桁しか出ないほど下手で、面白さがまったくわからない。だから、今回は参加しない。

「そっか。エリは行く?」

「えっ。私? どうしようかな」

 エリが口元に手を当てながら悩んでいる。
 もしかしたらいい機会かもしれない。普段と違うことをすれば、エリが言っていた『わくわくするようなこと』が起こるきっかけになるかも。そうだ。絶対、行った方がいい。

「行ってみなよ! きっと楽しいよ」

「でも、ナッちゃんは来ないんでしょう?」

 ボーリングが好きじゃないと言いながら、行けば楽しいよ、と勧める私は矛盾している。

「そうだけど、大丈夫でしょ?」

 カイとルイに向かって、確認するように問いかける。

「もちろん僕は構わないよ」

「俺も。人数が多いほうが楽しいだろ」

「じゃあ、行こうかなぁ」

 エリが行くのを決めたことに、心の中で拍手をした。ほんの少し何かが変われば、見える世界は大きく変わる。身をもって私が経験しているのだから、きっとエリにも同じような変化が訪れるはずだ。なんだか楽しい気分になってくる。跳ねるように歩きながら、私は家に続く坂道を下りた。


 エリと三叉路で別れた後、自宅まで三人で帰る。ルイの家は本当に私たちの家の目の前だった。玄関から玄関まで、徒歩数秒だ。

 家の玄関に入ってリビングを覗く。ソファでリースが編み物をしているのが見えた。

「あら、おかえりなさい。学校はどうだった?」

「今日の授業はゲームみたいで面白かったよ。ズルをするクラスメイトもいたし、負けちゃったけど楽しかった」

「それは良かったわ。あなた、本当に話せるようになってきてるわね。すごいわ」

 学校から私が帰ると、リースは必ずどんな一日だったのかを聞いてくる。初めて聞かれた時は『良い』しか言えなかった。今の私はしっかりと答えることができる。その私の成長を、リースはちゃんと認めてくれた。

「私の娘があなたぐらいの頃、良く先生に叱られて帰ってきたわ」

「そうなの?」

「えぇ。体を動かすことが好きでお転婆な子だったから。つい時間を忘れて校庭を駆け回ってしまって、授業によく遅刻していたのよ」

 他の日本人留学生が滞在している家庭よりも、この家は留学生の面倒をよく見てくれている。基本的には、あまり構ってくれないというエリのような家庭が一般的だ。家主であるリースとその旦那さんの年齢が高いこともあると思うが、リースはまるで自分の子供のように私と接してくれる。留学生と学生だった頃の自分の子供たちを重ねているのかもしれない。両親に褒められた記憶がない私は、リースに褒めてもらうことがとてつもなく嬉しかった。

「あら、ナツ。もう帰ってたのね」

「ヒルダ!」

 学校から帰宅したヒルダに駆け寄った私を優しく抱きとめて、ヒルダはにっこり笑った。

「ねぇ、ナツ。今日の夜、何か予定ある? 一緒に飲みに行かない?」

 一瞬だけ考えて頷いた。今の私なら、きっと大丈夫。

「うん。行く」

「良かった。じゃあ、夕食のあとに出かけましょう」

 私の頭を撫でた後、ヒルダが階段を上っていくのを見送る。
 今夜の予定ができた。そうと決まれば、さっさと宿題を終わらせなければいけない。

「待って! 宿題がたくさんあるの!」

 床に置きっぱなしにしていたリュックを持つと、ヒルダを追いかけて階段を駆け上った。



 その日の夜、ルイがカイを迎えに来た。

 リビングでテレビを見ていた私に向かって挨拶をしたルイに、手を挙げて応じながらカイを呼ぶ。ダイニングから慌てて食事を終わらせるような音がした後、カイもリビングを覗いた。

「ねぇ、本当に来ないの?」

「残念でした。ナツは今日、私と飲みに行くのよ。わかったならほら、さっさと行った行った!」

 支度を終えたヒルダがエントランスに下りてきて、騒ぐ二人を蹴散らすように外へと追い出していく。それに抵抗しながら、カイが声を上げた。

「待って! 飲みに行くの? 俺も行く!」

「えっ、ボーリング行かないの?」

 急な予定変更に、ルイが驚いている。ほんの数秒前まで、彼はボーリングに行くと言っていたのだから当たり前だ。大騒ぎしながら団子のように外に出ると、エリがぽつんと立っていた。

「あの……」

「やぁ、エリ。キミはボーリングに行くだろ? 行かないなんて言わないよね?」

「行くよ。どうして?」

「あぁ、良かった。じゃあ、二人で行こう」

「二人で? カイは行かないの? なんで?」

 来たばかりで状況が飲み込めていないエリが、不思議そうな顔で首をかしげている。

「俺はナツたちと飲みに行くことにした」

「だから、僕と二人でボーリングに行こう」

「う、うん。わかった」

 戸惑いながら頷くエリを連れて、ルイが歩き出す。不安そうな顔をして、一瞬エリが私を見た。ステイメイトとも仲良くなくて、家主たちもドライ。学校ではほとんど私と一緒にいたエリにとって、これは大きな一歩だ。視線にエールを込めて、エリを見送る。

「私たちも行きましょう」

「そうだね」

 急に増えたカイを連れて、私たちも繁華街に向かって歩き出した。