「ただい……」

「なぁ、俺ってナツに避けられてない? 同じ学校に通ってるのに、一緒に登校もしないんだ。家を出る時間も大して変わらないのに」

 学校から帰宅し玄関を開けて、帰ったことを報せようとした時、リビングから話し声が聞こえて来た。

「確かに、ナツはカイのことが苦手かもね」

「あなたの口調が強すぎるのよ」

「強い? どこが?」

「ほら、強いじゃない。もっと優しく柔らかく話せばいいだけよ。私たちは特に気にならないけれど、ナツはそれが怖いのかもしれないわ」

「怖い? なんで?」

 カイの声に続いて、ヒルダとマークの声がする。私のことを話しているようだ。帰宅したことを伝えて、会話を終了させよう。一度ひっこめた言葉を出すために、すぅっと息を吸う。

「ただいま!」

「おかえり、ナツ。今日はどうだった? 宿題は?」

「今日の授業はかなり良くできた。宿題、たくさんある」

 カイの方は見ないようにしながら、ヒルダたちに向かって返事をする。宿題が大量にあることをなぜか誇らしげに言う私に向かって、ヒルダが優しく微笑んだ。
 ヒルダたちとの会話が増えたこと。これも、大きく変わったことのうちの一つだ。

「じゃあ、私が宿題を手伝ってあげる。紅茶を淹れて部屋に行くね」

「やった! ありがとう」

 リビングから出るときに、カイと目があった。が、特に何も話しかけられていないし、私から話したいこともない。そのまま通過する。

「やっぱり、避けられてる気がする……」

「今のは避けたわけじゃないんじゃない?」

 ポツリと呟くカイに向かって、マークが苦笑しながらフォローしているのを背中で聞きつつ部屋へと向かう。

 窓際にある勉強机に宿題を広げてヒルダが来るのを待った。窓の外には、私が来た時と変わらない風景が広がっている。つい最近まで古いモノクロ映画のようにくすんで見えていた世界が、今は鮮やかに色を取り戻していた。腐っていた私を毎日のように嘲笑っていた道端の看板も、ただの素敵な看板に戻った。
 自分の気持ちが変わるだけで、見える世界がこんなに変わることを私は今まで知らなかった。くるくる回るパラソル型の物干しを見ながら、ぼんやりと思う。

「お待たせ。パパッと片付けちゃおう」

 両手にマグカップを持ったヒルダが部屋に入ってくる。私が大量の宿題を抱えていると、彼女は両手に蜂蜜入りのミルクティーを持って部屋に来てくれる。それから、家庭教師のように隣に立って、私の辞書を机の上に置くのだ。

「これは、ナツと話ができるようになる魔法の本だわ」

 初めて宿題を手伝ってもらったとき、彼女はそう言って優しく笑った。相変わらず流暢に話をすることは出来ないが、伝えようとする努力をするようになった。少し変わった私を、ヒルダはとても喜んだ。もちろん、マークも。

「どこがわからない?」

「全部」

「あはは、全部ね。仕方ないなぁ」

 私の救いようのない返事にも、ヒルダは嫌な顔ひとつしないで答えてくれる。ゆっくり一つずつ答えを教えてもらいながら、宿題を終わらせていく。窓から西日が差しこんで、ヒルダの少し癖っ毛な金髪がキラキラと光った。長いまつ毛がヒルダの顔に影を作っている。

「……ツ。ナツ。聞いてる?」

「あ。ごめんなさい」

 思わず見惚れてしまった。同性の私が目を奪われてしまうことがあるぐらい、ヒルダは綺麗だった。優しくて、面倒見がよくて、しかも美人。天は二物を与えずと聞いたことがあるけれど、そんなことないと思う。私から見たヒルダは、完璧な人間に見える。

「宿題、終わったね。頑張ったじゃない」

 言われたとおりに書いただけなのに、宿題を終わらせるとヒルダは必ず褒めてくれた。優しく頭を撫でられるのは少し気恥ずかしいが、悪い気はしない。まるで本当にお姉ちゃんができたようで嬉しかった。

「今日は学校で、何をしたの?」

「自分で未来を想像して、こうなったらいいと思うことを発表した。それから、新しい友達もできた。私の家の前に住んでるって言ってた」

「あなた、本当に喋れるようになったのね」

「うん。だけど、まだまだ全然ダメだと思う」

 ヒルダが言う通り私はかなり言葉が出るようになった。それでも人並みに話せているわけではない。やっとスタートラインに立てた程度だ。

「それでいいのよ。出来ないことよりも、出来るようになったことに注目した方がいいわ。そうすれば、ナツはもっともっと出来ることが増えていくと思う」

「そうかな」

 どうしてこんなことも出来ないのだ。
 だから、お前はだめなんだ。
 周りを見てみろ。みんな、お前よりもすべて上手にこなしている。

 小さなころから両親に言われていた言葉が、呪縛のように頭の中に響いている。小中学校の時の夏休みの宿題も、一人で完成させたものはほとんどなかった。すべてに両親の手が入って、私が作りたかったもの、書きたかったものは無くなった。それも、自分が人並みにできないからだ。
 ……できなくてもいいのだろうか。本当に? 今のままの私で、胸を張って生きていていいのだろうか。
 徐々に大きくなっていく頭の中の声に、思わず俯きかける。

「そうよ。周りと比べたりしなくていいの。大事なのはあなたがどう変わったかで、周りは関係ないのよ」

 それをヒルダがパンッと打ち消した。響いていた声が止んで、現実に引き戻される。ハッとしたように顔を上げた私の目を見ながら、ヒルダがゆっくりと言う。

「ナツはナツ。それ以上でもそれ以下でもないの」

「私は、私……」

「そう。ナツはナツ。勉強できなくても、話せなくても、私はあなたが大好き」

 真っすぐに私を見つめるヒルダの目を見つめたまま、視界が大きく滲んだ。溢れそうになるものを必死で我慢しようとするが、耐えきれなくなったものがぽたぽたと落ちた。

「大丈夫。自信を出して。頑張ったね」

「うん」

 急に泣き出した私をヒルダはふんわりと抱きしめる。ヒルダの腕の中はお日様の匂いだ。優しくて、暖かくて、いい匂い。私が落ち着くまでヒルダは背中をポンポンと叩き続けた。
 どれぐらいそうしてもらっていただろう。窓の外から夕食の香りがしている。もうそんな時間なのかと思っていると、ヒルダが思い出したように呟いた。

「そういえば、今日の夕食はカイと二人で食べてね」

「えっ」

 突然の通告に、涙が完全に止まった。

「これから、マークと少し出かけるのよ」

「……私、カイはあまり好きじゃない」

 拗ねたように口を尖らせる私を見て、ヒルダが困ったように笑う。

「どうして? 彼もナツと仲良くなりたいって思ってるかもよ」

 私に避けられている気がすると、さっき彼が言っていたことを思い出す。もしかしたら彼なりに、私とコミュニケーションをとってみたいのかもしれない。そうだとしても、苦手なものは苦手なのだ。私がゴーヤを食べたくないのと一緒。どうして食べたくないのか聞かれても困る。嫌だからだ。

「何かカイに意地悪されているの? 出かけるのをやめようか?」

「ううん。意地悪はされてない。大丈夫」

 心配そうな顔をするヒルダを安心させたかった。予定を変更してもらうのも申し訳ない。そもそも、個人的にカイが苦手だというだけで何かされているわけじゃないのだ。今日はカイと二人で夕食を食べよう。



「いってらっしゃい」

 出かけていく二人を見送る。玄関の扉が閉まった後も、しばらく手を振って立っていた。これからカイと二人だけでの夕食が始まると思うと、思わず溜め息が出てしまう。

「はぁ……」

「どうしたの? 溜め息なんかついて。何見てるの?」

 いつのまにか隣に来ていたカイが、私の視線を追って玄関の扉を不思議そうに見ている。

「……別に」

 素っ気なく顔をそらせてダイニングに向かう。できるだけ話をしたくない。席について、黙々と鶏肉をナイフで切って口へ運ぶ。

「今日は暑かったね」

「うん」

「学校はどう?」

「別に、特に変わったことはなかった」

「……ナツは恋人いる? 俺はここに来る前に別れちゃったんだけど……」

「……」

 大した反応をしなくても、カイはお構いなしだ。一人でずっと喋っている。恋人の有無を話すほど、彼と仲良くない。まぁ、恋人なんていたことないけれど……いたとしても教えない。

 カイをチラリと見た後、無言で食事を続ける。私に話す気がないことがようやくわかったのか、カイは小さく息をついて話しかけるのをやめた。
 静かになったダイニングに、ナイフとフォークが皿に当たる音が響く。チッチッと聞こえてくる壁時計の針の音を聞きながら、どうしてこんなにも彼のことが苦手なのか考える。

 口調が少し強くて、ストレートな物言いが好きじゃない。これは、初めて会った時からずっとそうだ。それから、すべてを見透かすような目が得意じゃない。彼に真っすぐ見据えられると、なんだか心の裏側までまるっと見られている気分になる。いつも穏やかにニコニコとしているヒルダやマークと違って、カイはあまり表情も変わらない。それが怒っているようで、少し怖い。

 ……もう少しで無事に食べ終わりそうだ。この調子で食事を終わらせて、早く部屋に戻ろう。

 そう思ったとき、カイが急に声を発した。

『タバスコ、どこですか?』

「えっ」

 突然耳に飛び込んできた日本語に、思わず食事をしていた手が止まる。

「ははは、いい顔。びっくりした? ねぇ、タバスコ取って?」

 悪戯が成功した子供みたいに笑っているカイを見ながら、傍にあったタバスコを無言でカイに渡す。今、カイは日本語を喋った気がする。

「今、日本語を喋ったの? 日本語が話せるの?」

「ほんの少しだけね。……やっと俺と話をしてくれる気になった?」

 初めて見るカイの笑った顔に、少しだけ警戒心が解けた。もしかしたら、わからないと思うことでそのままになってしまうのは、人間に対しても有効な言葉なのかもしれない。

「最近、英語を話せるようになってきたよね」

「う、うん」

「すごいじゃん。まったく話せなかったのにさ。短期間でそこまで言葉が出るようになるのは、すごいことだと思うよ。きっと言葉を覚えるセンスがあるんだ」

「ありがとう……」

 思ってもいなかった人物に褒められて、戸惑いが増す。鶏肉にタバスコを振っているカイと目が合う。カイの少し鋭い目が優しく細まった。私は今まで、彼はあまり表情が豊かじゃないと思っていた。そんなことないのかもしれない。

「ねぇ、明日から一緒に学校行こうよ。同じ学校に同じような時間に行くんだからいいだろ? ずっと言おうと思ってたのに、話をしてくれないんだもん」

「……わかった。いいよ」

 頷きながら答えて食べ終わった皿をシンクに沈める。そのまま紅茶を淹れるためにポットのスイッチをいれた。いつもヒルダが淹れてくれるが、今日はいない。茶葉は食器棚の上だ。思い切り背伸びして手を伸ばす。指先がガラスの入れ物に触れた。

 さらにぐっとつま先に力を入れたとき、指先に触れていたものがなくなった。

「はい、どうぞ。おちびちゃん」

 目の前で茶葉が入ったガラスの瓶が揺れている。それを持っているのはカイだ。取ってくれるのはいいが、おちびちゃんは余計だ。そもそも私の身長は決して低くない。こう見えて高いほうなのだ。……日本では、の話だけれど。
 私よりも頭一つ分背が高いカイを見上げて、ポツリと呟く。

「私、カイのそういうところ嫌」

「え? どういうところ?」

「おちびちゃんって言ってくるところ」

 この国では、自己主張をはっきりしていかないと生きていけない。自己主張をあまりせず、周囲と合わせることが美徳とされることが多い日本との大きな違いだ。

「どうして? 可愛いじゃん。まぁ、嫌ならやめるよ」

 思ってもいなかった返事に、顔が赤くなるのがわかる。お湯が沸いたポットがピーッと高い音を鳴らしている。耳まで熱い。だから彼が苦手なのだ。彼の口からはいつもその瞬間に思ったことがそのまま出てくる。良いことも悪いこともだ。
 気恥ずかしさに負けた私は、ポットのスイッチを切って紅茶を淹れずに部屋へと戻る。

「ねぇ、紅茶飲まないの?」

「いらない!」

 一気に階段を駆け上がって部屋の扉を閉める。
 心臓がドキドキしている。もしかしたら本当に、この留学で何か変わるかもしれない。それがなんなのかは、まだわからないけれど。

 少し眠るには早い気がしたが、眠気はすぐに訪れた。そしてそれは、久し振りに深い眠りだった。





 何もない暗い部屋の中でテレビを見ている。画面に映っているのは、今日の授業の風景だ。思っていることを伝えようと一生懸命に話をしている私が映っていた。両手をぎゅっと握りしめて発表している姿に、思わずフフッと声が漏れてしまう。

『見て。今日の授業は頑張ったの』

 いつのまにか私の隣に、小さい頃の私が座っている。何もない空間に向かって、そう声をかけた。そこから出てくるものを想像して、体が強張る。
 真っ暗闇だった空間から、両親がぬっと現れた。

『ほら。頑張ったんだよ。出来るようになったの。先生にも褒められたんだよ』

ブチンッ

『どうして消すの?』

 父親が無言でテレビの電源を切った。不機嫌さを微塵も隠さない父親に、小さな私が戸惑っている。

『出来て当たり前のことが出来るようになったところで、なにも凄くなんかないだろ』

 冷たさしかない言葉の矢を、父親は躊躇いなく小さな私に突き刺した。母親がそれに続くように口を開く。

『自惚れてる暇があったら、もっと勉強でもしたらどうなの。本当に、嫌になるわ』

『ねぇ、そんなことないよねぇ? 頑張ったんだもん。出来るようになったんだもん』

 小さな私が泣きながら、私の腕を引っ張る。

『えっと……』

 声が喉に詰まって出てこない。じっと睨むように私を見据えている両親を、どうしても直視できない。何も言わない私に絶望した小さな私が、蹲って声を上げて泣き出した。私も一緒に泣きたい。それとも走って逃げてしまおうか。首が折れてしまうのではないかと思うぐらい俯いて、唾をゴクリと飲み込む。その時、小さくヒルダの声がした。

「大丈夫。ナツは頑張ってる」

 そうだ。言われたばかりじゃないか。
 誰かと比べる必要なんかない。私は私だ。出来ないことが、出来るようになった。それは褒められることで、すごいことだ。私が頑張ったことを否定する権利なんて、誰にもない。

 体を震わせながら顔を上げた。目の前に立つ両親を、真っすぐ見据える。それから大きく深呼吸をした。悩みながら、この数週間を過ごしてきたのだ。私が頑張ったから言葉が出るようになってきて、授業がわかるようになった。
 言ってやる。私は一生懸命に頑張ったんだと、目の前にいる両親に言ってやる。

『私は……!』



 ピピピピピピピピ……

 甲高いアラーム音に目を開ける。視線をキョロキョロと動かして、両親も小さな私もテレビもないことを確認した後、長く息を吐いた。少し震えている。汗で湿ったティーシャツが気持ち悪い。
 不快感をどうにかしたくて、すぐにバスルームに向かった。

 嫌な夢……。

 大丈夫。この場所には、私のことを罵ったり否定したりするような人はいない。自分に言い聞かせるように思う。

 夢の中ぐらい、両親に言いたいことを言えたらよかった。あと少しだった気がする。

 髪の毛を拭きながらバスルームから出ると、ちょうどカイが部屋から下りてきた。彼の部屋は三階の屋根裏のような部屋。寝癖だらけの頭をガシガシと掻いて、欠伸をしながら狭い階段を下りてくる。

「おう、ナツ。……大丈夫?」

「何が?」

「なんか、顔色があまり良くない気がする」

 カイは意外と人のことをよく見ている。大丈夫だと私が言う前に、カイが手のひらを私の額にあてた。

「熱はなさそうだけど……」

「大丈夫だよ。具合は悪くない。元気」

「それならいいけど、無理はするなよ」

 あてていた手を離して私の頭をポンポンと撫でた後、カイはバスルームへと入っていった。すぐにシャワーの音と、機嫌が良さそうな鼻歌が聞こえてくる。少し何かが変わると色々なことが変わっていく。カイと私の距離は、二人で食事をしたことで確実に変化した。今回変わったことは、主に彼に対する私の態度と印象だ。

 身支度を整えてダイニングに行くと、ヒルダとマークがすでに朝食を取っていた。

「今日は少し霧が出てるわ。湿気があると髪の毛がまとまらなくて嫌ね」

 言われてみれば、ヒルダの髪の毛がいつもよりもクルクルしている気がする。

「俺の髪の毛も癖が出るんだよ。ナスのヘタみたいじゃない? 嫌だなぁ」

 マークの黒い髪の毛先だけがクルンと丸まっている。確かに、一度そう言われてしまうともうナスのヘタにしか見えない。普段通りの二人の様子に、夢のせいで緊張していた肩の力が抜けていく。

「二人とも今日はいつもより髪型が可愛いね」

「もう……ナツったら」

「七個も年下の子に可愛いって言われるのは、なんだか恥ずかしいね」

 使い慣れた手つきでトースターを動かしてパンを焼く。出来上がったトーストに、すっかりお気に入りになったチョコペーストを塗った。ヒルダたちと他愛のない話をしながら甘いパンをかじる。珍しいとか苦手だと思っていた物が、私の日常に組み込まれていく。

「おはよ」

 私の目の前の席にカイが座る。彼の存在も今日からそうなるのかもしれない。

「今日からナツと一緒に学校に行くんだ」

「あら、そうなの? 良かったじゃない」

「カイはずっと、ナツに避けられてるって気にしてたんだよ」

 少し揶揄うような顔をしながらカイを指さすマークに向かって、パンを飲み込みながら返事をする。

「うん。苦手だったもん」

「うわぁ、はっきり言われたね」

「やっぱり……」

 苦笑するマークとカイを見ながら紅茶を飲む。

「何が苦手だったの?」

「本人の前で聞くなよ……」

「うーん……」

 興味津々なヒルダの目を見ながら考える。

 私は、カイのストレートな物言いと強い口調が苦手だった。怖いとも思っていた。でも、しっかり話をしてみれば、少しぶっきらぼうなだけで決してキツい口調なわけじゃない。意外と笑うし、体調を気遣ってくれるような優しいところもある。今では何があんなに嫌だったのか、よくわからない。

「わかんない。なんとなく」

「あはは、ナツっぽい理由ね」

「えぇ……俺、なんとなくで避けられてたの?」

 脱力したようにカイが呟くのを、ヒルダとマークが笑っている。
 目覚めは悪かったがいつもよりも少しだけ賑やかな朝の雰囲気で、私の気持ちはすっかり落ち着きを取り戻していた。


「いってきます!」

 元気に家を飛び出して、学校に続く坂道を歩く。誰かと一緒に登校するのは初めてだ。ヒルダが言っていた通り、今日は少し霧が濃い。手を伸ばすと指先が見えなくなった。

「霧の町ロンドン、切り裂きジャックとシャーロックホームズ。……カイはロンドンに行ったことある?」

 頭の中に浮かんだことをそのまま声に出した。こんなことができるようになったのも、大きく変わったことだ。

「あるよ。騒々しいぐらい賑やかなところだね」

「そうなんだ。行ってみたいな」

 この町からロンドンまでは、電車で二時間ぐらいかかる。頑張れば休日に行けるかもしれない。今は目の前のことに必死でそんな余裕はないが、もう少ししたら考えてみるのも良さそうだ。

「なぁ、ずっと謝りたかったことがあるんだけれど」

「私に?」

「そう。初めて夕食を食べてる時に、この子話せないの? ってお前に言ったじゃん」

「うん」

「あれ、悪かったよ。あの時のナツは、言いたいことがあるのに言えなかっただけだろ? そんな時にあんなこと言われたら嫌だよな」

「いいよ。平気」

 何でもないように返事をしているが、しゅんとしながら謝っているカイが意外だった。昨日から、カイの知らなかった部分をいくつも見つけている。

「やっと言えた。すっきりしたー」

 ニッと笑いながら伸びをするカイを見て一瞬、胸が跳ねた。

「ずっと気にしてたの?」

「そうだよ。見かけによらず、ナイーブなんだ」

 わざとらしく両手を胸にあてて、カイが目を閉じる。

「あはは。全然そんな風に見えないね」

 声を出して笑う私を、どことなく嬉しそうにカイが見ていた。



 二人で校門を抜けて噴水の前まで来た時、思いついたようにカイが言う。

「あ。帰りはここで待っててよ」

「えっ。帰り?」

「同じぐらいの時間に終わるだろ? いいじゃん」

「わかった。友達も一緒に帰ってもいい?」

「もちろん」

 いつもなら自分で開ける校舎の重たい扉を、今日はカイが開けてくれる。私が開けるよりも簡単に扉が開いた。

「カイ! サッカーやろうぜ!」

 校庭の方からカイを呼ぶ声がする。

「すごい霧だぞ。出来るのかよ」

「やってみなきゃわからないだろ!」

 やる気満々な声に、カイが小さく笑った。

「俺、サッカー行ってくる。またあとでな」

 扉の中にスルリと私が入るのを確認して、カイは校庭に駆けて行った。

 ……やっぱり、カイは思っていたよりもずっといい人だ。

「わからないと思い込むことは、良くないことだぞ。ナツ。何事もわかろうとしないとわからないものなのだ」

 自分に向かって言い聞かせるように独り言を言いながら、足取り軽く教室へと向かった。