そんなことがあった夜の後も、私の語力が魔法のように上がるなんてことは起こらない。だけど確実に変わったことがある。少しずつ言葉が出てくるようになってきたのだ。

「今日は未来について考えたことを、みんなの前でプレゼンテーションしてもらうわ。例えば、街にある物がどう進化したらどんな風に良くなるのか、などを自由に想像してクラスメイトに話してみましょう」

 学校で行われる授業はテキストと一緒に進めるものもあるが、今日のように話すことがメインになることも多かった。日本語でならいくらでも言えることも、英語のみという条件が付くと急に難易度が上がる。
 与えられた時間をすべて使って、思いついた単語をノートに書き出した。

「みんな出来た? じゃあ、ナツ。あなたから」

「はい」

 返事をして、前に出る。クラスメイトの視線が集まって、緊張してしまう。口だけを動かして、エリが『頑張って』と言っているのが見える。
 大丈夫。パブにいたおじいさんが言っていた。正しさよりも、伝えようとすることが大事なのだ。

「ナツは何を想像して、どう考えたの? 話してみて」

「えっと、私は電線が全部、土の中に入ると良いと思いました」

「電線が地面の中に? それはどうして?」

「そうすれば、見た目が綺麗です、町の。日本の空は、電線が多い。見た目があまりよくありません。それに、地震があると倒れて危ない。火事になる原因になります。土の中にあれば、安全だと思います」

「なるほど。よくわかったわ。ナツに何か質問がある人はいる?」

 先生の問いかけに、数人のクラスメイトが手を上げる。発言をするように促された人が席を立った。落ち着いていれば大丈夫。私は絶対にわかる。わからないと思っていることがいけないのだ。

「電線を地面に埋めても、地震が起きた時に壊れてしまうのでは?」

「私は、地震で壊れてしまうことを心配していません。その後の被害を心配しました。過去に大きな地震が起きた時、それが原因で起きた火事で怪我をしたり亡くなる人が多かったと知ったからです」

 私の脳裏にはまだ小さかったころに見た、阪神淡路大震災のニュース映像が浮かんでいた。地を這うように火が走っている映像は今でも鮮明に覚えている。

「確かに、日本は地震が多い国だと聞いたことがあります。よくわかりました」

 クラスメイトが納得した様子で頷いて席に着く。

 できた! 
 今まで胸の中にしまっていたものを声に出しただけなのに、しこりのような何かがスーッと消えていく。

「ナツ。よくできたわ。席に戻って良いわよ。じゃあ、次……」

 自分の席に戻って大きく息を吐く。相変わらず文法はめちゃくちゃだが、それでも言葉を話そうと思うようになったことは大きな変化だ。胸の中に新しく生まれたうずうずとした気持ちを感じながら、前に立ったクラスメイトの発表に耳を傾けていた。





 午前の授業が終わった私は、エリと学校の中庭でランチを取っている。エリと二人だけでする会話は、基本的には日本語のままだ。日本人で固まるのは良くないというのはわかっているが、学校にいる時はいいと思っている。これが終われば、私は嫌でも英語に揉まれながら生活をしなければならない。
 つい最近までは言葉の通り『嫌』だったのだが、今の気持ちは前向きだ。

 そんな言い訳をしながら芝生の上に大の字で寝転がって、空に浮かぶ雲を見上げていた。こんな風に学校で寝転がれるのも海外ならでは、な気がする。

『ナッちゃんって、意外と話せるよね。今日の授業はかなり良かったんじゃない?』

 エリが分厚いハムサンドを頬張りながら言う。少しずつ消えていくハムサンドを見ながら、小動物の食事風景を思い出す。

『うん。かなり頑張ったと思う』

『だよね! 急に話し出すからびっくりしたよ。でも意外とあることらしいよね。英語が突然わかるようになる瞬間があるって言うじゃん』

 言葉が私の口から飛び出すトリガーを引いたのは、偶然パブで出会ったおじいさんだ。そして、なかなか言葉が出ない私から飛び出す弾丸を、いつでも発射できるように根気よく詰め込み続けてくれていたのはヒルダたちだろう。

 それにしても、今日も暑い。木陰にいるのにさっきから汗が止まらない。こんなに暑いのに、夜にはアウターが必要になる程寒くなるのが未だに信じられない。脇に置いた水のペットボトルを手に取って、その軽さに中身が入っていないことに気がついた。

『水、買ってくるね』

『いってらっしゃい』

 体を起こして学生ロビーを目指す。昼休みの学生ロビーは人が多い。自動販売機の前では、男子生徒が集まって何やら騒いでいる。少し離れた場所から、それをじっと見つめる。
 ふと、聞き慣れた声がすることに気がついた。この声は、カイだ。友達と戯れあいながら飲み物を買っている。

 賑やかに騒ぐカイたちを見ながら、彼は少し珍しいタイプだ、と思う。
 学校内にいる生徒は、同じ系統の人種でまとまっていた。例えば、私はアジア系の人に話しかけられることが多い。欧州系は欧州系で固まっているのをよく見かける。本来の話す言語が違っても、自分と見た目が似ている人間に親近感を感じるものなのかもしれない。

 そんな中でカイは、どんな人たちからも人気があった。たくさんの人の中心には必ずカイがいる。今まで色々な国で生活してきたと言う彼には、人種や見た目で出来る壁がないようだ。
 常に自信満々で運動神経が良いことも、人気がある理由の一つだろう。授業中に窓から校庭を見た時、彼は華麗なシュートを決めていた。出る杭は打たれるなんて言葉がある日本とは、人を評価する指針がかなり違う。

 ともあれ、そんな場所にいられるのは邪魔だ。自動販売機の前から少しずれてほしい。早く水を買って、エリのところに戻りたい。


「おぉ、ナツ!」

 私の視線に気がついたのか、カイが私の名前を呼んだ。騒いでいた男の子たちの視線が一気に私に注がれる。

「ねぇ、水を買いたいんだけど、いい?」

 自動販売機を指差すと、男の子たちがそそくさと移動した。

「知ってる子?」

「俺と同じ家の子。日本人。タメ」

 カイが自分の友達に私について説明している。いい気分はしないが、まぁいい。早く水が欲しい。別に水じゃなくてお茶でもいいのだが、そんなもの売っていない。甘くない緑茶や烏龍茶が恋しい。ここでは甘くないものは水しかない。あとは、カラフルな炭酸水かコーラだ。

 自動販売機に硬貨をいれようとして、気がついた。すべての水に品切れのランプが点滅している。

「あぁ……」

「どうしたの?」

「水が売り切れてる。最悪。もう生きていけない」

「コーラがあるよ?」

「水が欲しい。甘くないやつがいい」

 諦めて自販機から目線を移すと、カイの後ろで水を持っている男の子が目に入った。私の視線に気がついたのか、男の子が私の顔と水を見比べて水を差し出す。

「いいの!?」

 カイを押しのけて、その子の前に立つ。
 少し垂れ目で可愛らしい顔の子だ。暗い焦げ茶色の髪から、石鹸のようないい匂いがする。私の勢いに若干引き気味に笑いながら、水を差し出してくれている。
 ペットボトルはまだ開けていなくて、とても冷たい。

「お金……」

「ううん。いらないよ。あげる」

「本当にありがとう」

 水を抱きしめながらお礼を言う私に、男の子の垂れ目が優しく細まった。そのまま男の子は右手をスッと差し出した。

「僕はルイ。キミはナツだよね?」

「うん。どうして私の名前を知っているの?」

 差し出された右手を握り返しながら、浮かんだ疑問を投げかける。

「どうしてって、カイがよくナツのことを……」

「おい、余計なこと言うなよ。こいつ、俺たちの家の前に住んでるんだ」

 ルイの言葉を遮るようにカイが割って入る。ルイと話をしていたのに、カイが終わらせてしまった。ルイが何を言おうとしたのか少し気になるが、エリが待っていることを考えると早く戻らなくてはいけない。

「そうなんだ。ご近所さんなんだね。じゃあ、友達を待たせてるから行くね。お水ありがとう」

「うん。またね」

 ふんわりとムースのように喋るルイに向かって声をかけて、学生ロビーを後にした。

 無事に水を手に入れた私は、エリが待つ中庭へと戻る。サンドイッチを食べ終わったエリが、芝生に寝転がってうとうとしていた。その隣に寝転がりながら、残っていたフライドポテトを口の中に詰め込んだ。

『お待たせ』

『お帰りー。遅かったね』

『少しカイと話してた』

『いいなー。うちのステイメイトたちと交換したい』

『……べつに何もないよ? あまりカイのこと好きじゃないし仲良くもないし』

 私は相変わらずカイのことが苦手だった。彼のことを無視するようなことはしていないが、なるべく会話をしたくなかった。さっきも必要最低限のことしか話さなかったつもりだ。

『そうじゃなくて、家のみんなが仲よさそうでいいなーって。ヒルダもマークも優しいんでしょ?』

『確かに、あの二人は超優しい』

 隣でエリが、大きな溜め息をつく。私もつい最近まですべてがつまらなかった。だからエリの気持ちがよくわかる。わかるからこそ、もったいないと思う。ほんの少し何かが変わると、見える世界は大きく変わるのだ。何か私にできることはないだろうか。

 始業のベルが鳴り響いて弾かれたように起き上がる。慌てて教室に戻ったが、少し遅刻してしまった。

「もう少し早く来ないとだめよ」

「はい。ごめんなさい」

 先生の小言を聞きながら席に着く。憂鬱そうな顔を引きずりながら授業を受けるエリを横目で見ながら、午後の授業は過ぎていった。