あてもなく家を飛び出して、繁華街へと続く道を歩いていた。繁華街といってもここは海沿いの田舎町。煌びやかなネオンが輝いているわけでもなければ、賑やかなわけでもない。道に立つガス灯の柔らかい明りが、静かな町を照らしながら暗くなるのを待っている。
ヒルダ達を悲しませる予定じゃなかった。なんてことをしてしまったのだろう。あんなに親切な人に悲しそうな顔をさせるなんて、私は馬鹿だ。
自分の吐く息が白くなっていることに気が付く。昼間は汗が噴き出るほど暑いのに、今はアウターが必要なぐらい寒い。小さなクシャミをしながら、腰に巻いていた薄いシャツを羽織った。
少し頭を冷やしてから、コンビニで買い物でもして帰ろう。そう思っていた私の目に、小さなパブが目に入る。周りに何もない道に、それはひっそりと建っていた。
大きなガラス張りの窓から中を覗き込む。小さなバーカウンターの中で、若い女性と初老の女性が接客しているのが見える。建物は砂壁のようなものでできていて、元は白かったのだろう。今は少しくすんでいる
入り口を見上げると、ブルードルフィンと書かれているのが見えた。潮の香りと波の音がする。立っている場所からは見えないが、ビーチに近いのかもしれない。
「お嬢さん、中に入るのかい?」
「ひゃっ!」
振り返ると人の良さそうな顔をしたおじいさんが立っていた。飛び跳ねるように驚いた私に向かって、おじいさんはチェック柄のハンチング帽を少し上げて微笑んだ。
「失礼、驚かせてしまったかな。中に入りたいのだが……」
「あっ、ごめんなさい」
入り口を塞ぐように立っていたことに気が付いて、慌てて体をどかす。私の前を通過しようとしたとき、またおじいさんが立ち止まった。
「あなたは入らないのかい?」
「えっと……」
「あぁ、もしかして未成年かな? それならもう暗くなるからおうちに帰りなさい」
「あっ。これ! 私は十八歳です」
言いながら学生証を見せる。この国では十八歳から成人として認められる。酒も煙草も解禁されるし、夜に出歩いて補導される心配もない。
「なら何も問題がないじゃないか。どうぞ、レディ」
「……」
おじいさんに促されるままパブに入店してしまった。そのまま空いていたカウンターに座る。壁に書かれているメニューは千円程度だ。持っていた小銭入れを覗く。大丈夫。どうにか足りそうだ。
「あら、今日は一人じゃないのね」
「いや、そこで出会ってね。彼女と私にビールを」
おじいさんは慣れた様子で注文を済ませてにっこりと笑う。すぐに私の前に栓が抜かれたビールが置かれた。
「お金払います! おいくらですか?」
「いいんだ。財布をしまいなさい。これも何かの縁だろう。出会いに乾杯」
慌ててお金を渡そうとする私を優しく制して、おじいさんはビールを軽く掲げた。
「……ありがとうございます」
おずおずとお礼を言いながらビールを握る。生まれて初めての酒だ。小さい頃、美味しそうに祖父が晩酌するのを見ていた。成人したら飲んでみたいと思っていたが、まさかこんなところで知らない人にご馳走してもらうことになるなんて思わなかった。
瓶を口につけて、中の液体を飲む。ビールの苦みが口の中に広がって、炭酸が喉を抜けていく。あまり美味しいものではない。
「あなたはどこの国から来たのかな?」
「日本です。私は英語が下手です。ごめんなさい」
「どうして謝るんだ。とても上手に話ができているじゃないか」
緊張して私が挙動不審になるのを、眩しいものでも見るかのようにおじいさんが目を細めた。
「この町は、どうだい?」
「とっても素敵。海が綺麗。空が綺麗。建物も綺麗。学校の扉が好き。食べ物は普通。だけど、紅茶が美味しい。朝が美しい。昼は賑やかで夜は静か」
見ず知らずの私に酒をご馳走してくれた親切なおじいさんと話がしたかった。知っている単語をすべて並べて必死に口を動かす。
そんな私をにこやかに見つめるおじいさんが、私には困っているように見えた。
「ごめんなさい。英語が下手です」
「下手だなんてとんでもない! 私が生まれ育った町を、たくさん褒めてくれてどうもありがとう」
おじいさんは胸に手を当てて感激したように大きく息を吸った。この国で出会う人たちは、私が言葉を話せなくても決して馬鹿にしたりしない。なぜできないのかと罵られることもないし、失敗しても笑ったりしない。
思わず鼻の奥がツンとするのを誤魔化すために、慌ててビールを飲む。
「私は妻と二人で近所に住んでいるんだ。子供たちは都会に行ってしまって、家の中が静かで寂しいよ。妻と二人で過ごすのも、毎日とても楽しいけれどね。お嬢さんは、楽しい日々を過ごしているかい? お友達はできた?」
「あまり楽しくないし、人を悲しませてしまいました」
「それはどうして?」
「私が話をしないからです」
「相手はお友達かな?」
「えっと……」
「なんにせよ、早く仲直りをした方がいい。あなたは自分が思っているより、ずっと話ができるはずだよ。だって現に今、私と会話をしているじゃないか」
確かに私は今、会話をしている。最近この国に来たばかりの頃より英語が理解できているような気がしていた。気のせいだと思っていたが、そうではなかったようだ。
「わかるはずないと思い込んでいると、わかるものもわからなくなってしまう。あなたは大丈夫。ぜひこの国を思い切り楽しんでほしい」
ビール瓶を握りしめて迷っている私の背中を、おじいさんの言葉が後押しする。
「……私、帰らないと」
「そうだね。大切なのは言葉の正しさよりも、伝えようとする気持ち。あなたはもう、わかっているはず。気をつけて帰りなさい」
「それじゃあ、また! あの、本当にありがとう」
残っていたビールを一気に飲んで、パブを飛び出した。
暗くなってきた町を家に向かって駆ける。早く帰ってヒルダと話がしたい。自分から誰かと話がしたいと思うなんて久し振りだ。ひょっとして、アルコールのせいだろうか。それでもいい。とにかく謝りたかった。
ヒルダの部屋に明りが付いているのを外から確認する。
「……よし」
自分の気持ちを奮い立たせるために、両頬をぺちぺちと叩く。それから、玄関を開けてヒルダの部屋を目指して階段を上る。彼女の部屋は私の部屋の目の前だ。ノックすると中からヒルダの声が聞こえた。
扉が開くまでの数秒間がものすごく長く感じる。ヒルダがとても怒っていて話をしてくれなかったらどうしよう。酷い態度をとった私に呆れ果てて、顔も合わせてくれないのではないだろうか。もしかしたら、怒鳴られたり暴言を吐かれるかもしれない。
思いつく限りの最悪な状況が頭の中で何度も再生されていた。
「あら、ナツ。どうしたの?」
その予想はすべて外れて、きょとんとした顔をしたヒルダが扉から顔を出した。すかさず頭を下げる。
「さっきはごめんなさい」
「え? 何が?」
「さっき、大きな声を出してごめんなさい」
頭を下げたまま謝り続けた。短くて長い沈黙の後、ヒルダがプッと吹き出す。
「頭をあげて。大丈夫よ。私は何も気にしてない」
「でも、悪いことをした」
「私が良いと言っているから、もう良いのよ。そもそも怒ってなんかいないわ。そうね。強いて言うとすれば……」
一度上げかけた頭を再び下げる。何を言われても大丈夫なように、心と体を固くして言葉の続きを待つ。
「あなた、お酒を飲んで来たでしょう? ずるいわ。次は私のことを絶対に誘ってね」
頭を下げ続けている私の顔を覗き込むようにしてヒルダが笑った。それを見て安心したのか、涙が出そうになる。奥歯をぎゅっと噛みしめて堪えてから、今度こそ顔を上げた。
「どう? わかった?」
「うん」
もう一度確認されて頷く。ヒルダと目が合って自然と笑みがこぼれる。誰かとこんな風に笑い合うなんて、久し振りでなんだか気恥ずかしい。
静かに扉が閉められてから、細く長く息を吐いた。
なんだか、明日からいいことありそう!
つい数時間前までこの世の終わりかのように淡々と生きていたくせに、今は胸が高鳴っていることに我ながら少し呆れた。ドキドキする胸を落ち着かせるように深呼吸をする。
ふと、パブで出会ったおじいさんが脳裏によぎる。名前ぐらい聞いておけばよかった。また、会えるだろうか……。ぼんやりと思いながら、次の日に備えてベッドへと入った。
ヒルダ達を悲しませる予定じゃなかった。なんてことをしてしまったのだろう。あんなに親切な人に悲しそうな顔をさせるなんて、私は馬鹿だ。
自分の吐く息が白くなっていることに気が付く。昼間は汗が噴き出るほど暑いのに、今はアウターが必要なぐらい寒い。小さなクシャミをしながら、腰に巻いていた薄いシャツを羽織った。
少し頭を冷やしてから、コンビニで買い物でもして帰ろう。そう思っていた私の目に、小さなパブが目に入る。周りに何もない道に、それはひっそりと建っていた。
大きなガラス張りの窓から中を覗き込む。小さなバーカウンターの中で、若い女性と初老の女性が接客しているのが見える。建物は砂壁のようなものでできていて、元は白かったのだろう。今は少しくすんでいる
入り口を見上げると、ブルードルフィンと書かれているのが見えた。潮の香りと波の音がする。立っている場所からは見えないが、ビーチに近いのかもしれない。
「お嬢さん、中に入るのかい?」
「ひゃっ!」
振り返ると人の良さそうな顔をしたおじいさんが立っていた。飛び跳ねるように驚いた私に向かって、おじいさんはチェック柄のハンチング帽を少し上げて微笑んだ。
「失礼、驚かせてしまったかな。中に入りたいのだが……」
「あっ、ごめんなさい」
入り口を塞ぐように立っていたことに気が付いて、慌てて体をどかす。私の前を通過しようとしたとき、またおじいさんが立ち止まった。
「あなたは入らないのかい?」
「えっと……」
「あぁ、もしかして未成年かな? それならもう暗くなるからおうちに帰りなさい」
「あっ。これ! 私は十八歳です」
言いながら学生証を見せる。この国では十八歳から成人として認められる。酒も煙草も解禁されるし、夜に出歩いて補導される心配もない。
「なら何も問題がないじゃないか。どうぞ、レディ」
「……」
おじいさんに促されるままパブに入店してしまった。そのまま空いていたカウンターに座る。壁に書かれているメニューは千円程度だ。持っていた小銭入れを覗く。大丈夫。どうにか足りそうだ。
「あら、今日は一人じゃないのね」
「いや、そこで出会ってね。彼女と私にビールを」
おじいさんは慣れた様子で注文を済ませてにっこりと笑う。すぐに私の前に栓が抜かれたビールが置かれた。
「お金払います! おいくらですか?」
「いいんだ。財布をしまいなさい。これも何かの縁だろう。出会いに乾杯」
慌ててお金を渡そうとする私を優しく制して、おじいさんはビールを軽く掲げた。
「……ありがとうございます」
おずおずとお礼を言いながらビールを握る。生まれて初めての酒だ。小さい頃、美味しそうに祖父が晩酌するのを見ていた。成人したら飲んでみたいと思っていたが、まさかこんなところで知らない人にご馳走してもらうことになるなんて思わなかった。
瓶を口につけて、中の液体を飲む。ビールの苦みが口の中に広がって、炭酸が喉を抜けていく。あまり美味しいものではない。
「あなたはどこの国から来たのかな?」
「日本です。私は英語が下手です。ごめんなさい」
「どうして謝るんだ。とても上手に話ができているじゃないか」
緊張して私が挙動不審になるのを、眩しいものでも見るかのようにおじいさんが目を細めた。
「この町は、どうだい?」
「とっても素敵。海が綺麗。空が綺麗。建物も綺麗。学校の扉が好き。食べ物は普通。だけど、紅茶が美味しい。朝が美しい。昼は賑やかで夜は静か」
見ず知らずの私に酒をご馳走してくれた親切なおじいさんと話がしたかった。知っている単語をすべて並べて必死に口を動かす。
そんな私をにこやかに見つめるおじいさんが、私には困っているように見えた。
「ごめんなさい。英語が下手です」
「下手だなんてとんでもない! 私が生まれ育った町を、たくさん褒めてくれてどうもありがとう」
おじいさんは胸に手を当てて感激したように大きく息を吸った。この国で出会う人たちは、私が言葉を話せなくても決して馬鹿にしたりしない。なぜできないのかと罵られることもないし、失敗しても笑ったりしない。
思わず鼻の奥がツンとするのを誤魔化すために、慌ててビールを飲む。
「私は妻と二人で近所に住んでいるんだ。子供たちは都会に行ってしまって、家の中が静かで寂しいよ。妻と二人で過ごすのも、毎日とても楽しいけれどね。お嬢さんは、楽しい日々を過ごしているかい? お友達はできた?」
「あまり楽しくないし、人を悲しませてしまいました」
「それはどうして?」
「私が話をしないからです」
「相手はお友達かな?」
「えっと……」
「なんにせよ、早く仲直りをした方がいい。あなたは自分が思っているより、ずっと話ができるはずだよ。だって現に今、私と会話をしているじゃないか」
確かに私は今、会話をしている。最近この国に来たばかりの頃より英語が理解できているような気がしていた。気のせいだと思っていたが、そうではなかったようだ。
「わかるはずないと思い込んでいると、わかるものもわからなくなってしまう。あなたは大丈夫。ぜひこの国を思い切り楽しんでほしい」
ビール瓶を握りしめて迷っている私の背中を、おじいさんの言葉が後押しする。
「……私、帰らないと」
「そうだね。大切なのは言葉の正しさよりも、伝えようとする気持ち。あなたはもう、わかっているはず。気をつけて帰りなさい」
「それじゃあ、また! あの、本当にありがとう」
残っていたビールを一気に飲んで、パブを飛び出した。
暗くなってきた町を家に向かって駆ける。早く帰ってヒルダと話がしたい。自分から誰かと話がしたいと思うなんて久し振りだ。ひょっとして、アルコールのせいだろうか。それでもいい。とにかく謝りたかった。
ヒルダの部屋に明りが付いているのを外から確認する。
「……よし」
自分の気持ちを奮い立たせるために、両頬をぺちぺちと叩く。それから、玄関を開けてヒルダの部屋を目指して階段を上る。彼女の部屋は私の部屋の目の前だ。ノックすると中からヒルダの声が聞こえた。
扉が開くまでの数秒間がものすごく長く感じる。ヒルダがとても怒っていて話をしてくれなかったらどうしよう。酷い態度をとった私に呆れ果てて、顔も合わせてくれないのではないだろうか。もしかしたら、怒鳴られたり暴言を吐かれるかもしれない。
思いつく限りの最悪な状況が頭の中で何度も再生されていた。
「あら、ナツ。どうしたの?」
その予想はすべて外れて、きょとんとした顔をしたヒルダが扉から顔を出した。すかさず頭を下げる。
「さっきはごめんなさい」
「え? 何が?」
「さっき、大きな声を出してごめんなさい」
頭を下げたまま謝り続けた。短くて長い沈黙の後、ヒルダがプッと吹き出す。
「頭をあげて。大丈夫よ。私は何も気にしてない」
「でも、悪いことをした」
「私が良いと言っているから、もう良いのよ。そもそも怒ってなんかいないわ。そうね。強いて言うとすれば……」
一度上げかけた頭を再び下げる。何を言われても大丈夫なように、心と体を固くして言葉の続きを待つ。
「あなた、お酒を飲んで来たでしょう? ずるいわ。次は私のことを絶対に誘ってね」
頭を下げ続けている私の顔を覗き込むようにしてヒルダが笑った。それを見て安心したのか、涙が出そうになる。奥歯をぎゅっと噛みしめて堪えてから、今度こそ顔を上げた。
「どう? わかった?」
「うん」
もう一度確認されて頷く。ヒルダと目が合って自然と笑みがこぼれる。誰かとこんな風に笑い合うなんて、久し振りでなんだか気恥ずかしい。
静かに扉が閉められてから、細く長く息を吐いた。
なんだか、明日からいいことありそう!
つい数時間前までこの世の終わりかのように淡々と生きていたくせに、今は胸が高鳴っていることに我ながら少し呆れた。ドキドキする胸を落ち着かせるように深呼吸をする。
ふと、パブで出会ったおじいさんが脳裏によぎる。名前ぐらい聞いておけばよかった。また、会えるだろうか……。ぼんやりと思いながら、次の日に備えてベッドへと入った。