それからしばらく、完全に腐った日々を過ごしていた。短期留学に来ているのに出来る限り英語を使わない生活をしている。休日にエリと町のカフェに行く時の注文ですら、私は日本語で貫き通した。

『カプチーノ、ひとつ』

「なんですか?」

『カプチーノ』

「……かしこまりました。二ポンドです」

 頑なに日本語しか言わない私を、店員が面倒くさそうに見る。そんな態度を示されても、日本語で注文が通じたことに満足していた。が、私の前に届いたのは一杯の紅茶だった。店員はカプチーノを、カップ オブ ティーだと思ったのだ。

『あれ? ナッちゃん、カプチーノって言ってなかった?』

『別にいいよ。紅茶も飲みたかったし』

 本当は紅茶の気分じゃなかったけれど、注文したものではないことを店員に伝えるだけの語力がない。やってやったと思っていたのに、結果は惨敗だ。目の前で注文した通り出てきたカフェラテを飲むエリを見ながら、敗者の紅茶を啜る。

『ねぇ、ここに来るバスの中で、ナッちゃんに参加した理由を聞かれたじゃん?』

『うん』

『あの時、なんとなくって言ったけど、本当は毎日退屈だったから参加したの。別に日本での生活に不満はないんだけど、良くも悪くも普通なんだよね』

『なんとなくわかるよ』

『でしょ? だから、わくわくするようなことが起きるかなって思って参加したんだ』

 私も、何か変わるかもしれないと思ってここに来た。今のところ、その気配は微塵もないけれど。
 エリはどうなのだろう。何か心弾むような出来事は起きたのだろうか。もしそうなら是非聞きたい。そしてそのわくわくドキドキを、私にも少し分けてほしい。

『……まぁ、これといって今のところ何もないけど』

 私が聞く前に、エリはそう言ってカフェラテが入ったカップをカタリと置いた。

 そうだよな。ドラマや映画なら何か始まるかもしれないが、現実ではそう簡単に起こらない。少し冷めた紅茶を一気に飲んで、小さく湧いた期待を胃の中にぽちゃりと沈めた。



 カフェから出てエリと別れると、私の足取りは急に重くなる。家に帰れば英語地獄が待っている。
 留学前にホームステイ先での環境を選択できた。日本人二人でステイするか、一人でステイするか選べたのだ。あの時の私は「せっかくイギリスに行くのに、日本人といても意味ないよね」なんて考えて、一人でステイすることを選択した。
 その時の選択を、猛烈に後悔している。

 英語が話せないことだけが、帰宅が憂鬱になる原因じゃない。
 ヒルダとマークは私が貝の如く喋らなくなっても、気にかけることをやめなかった。私が勝手に腐っていじけても、二人の態度は変わらない。特にヒルダはもともと面倒見がいい性格なのか、何かと理由をつけて私とコミュニケーションを取ろうとした。
 そんな優しいステイメイトと一緒にいると、自分の中の醜い部分が凝縮されていく気がして嫌になる。タールのようにねっとりと心に張り付いて、憂鬱な気持ちが蓄積されていくのだ。それなら少しは会話すればいいのに、私は二人のことを避け続けている。

 やっぱり海外留学をしても、私は何も変わらないのだ。そんなこと当たり前なのに、気づくのが遅すぎた。日本で無能な私は、外国でも無能だ。むしろ言葉すらまともに扱えなくなったせいで無能レベルが増した。脇役は永遠に脇役で、村人Aは一生村人Aだ。

 帰国までほんの数か月。それだけ耐えればいい。日本に帰って、また大人しく生きよう。
 そう思いながら生活する日々は、単調で平凡だった。そんな私の日々は、ある日を境に目まぐるしく変わってしまう。


 その日もいつも通り、腐った私と優しい二人は一緒に朝食を取っていた。

「ナツ。今日からこの家に新しい仲間が増えるんだって」

 何を話しかけたって私は何も言わないのに、ヒルダはどうしてこうも話しかけてくるのだろう。大した反応も見せず、黙々とパンを齧る。
 
「香港から来る男の子。ナツと同い年だってリースが言ってたよ」

 隣に座るヒルダを横目で盗み見た。ヒルダは苺が刺さったフォークを手でクルクルと回している。

「きっと、もっと楽しくなるわね」

 苺を頬張るヒルダを、私はまた無視する。
 ステイメイトが一人増えたところで、私には何も関係ないし影響もない。英語がわからないのだ。新しく増える人と仲良くなれることもない。

 いつも通り無言の朝食を終わらせて、つまらない学校をこなす。放課後をエリと過ごしてから帰宅して宿題だ。それから美味しそうな香りが外から漂ってくる頃になると、ヒルダが私を夕飯に誘いに来る。これが帰国まで繰り返す私のルーティン。

「ナツ、夕飯を食べましょう」

 いつものようにヒルダが誘いに来た。けれど、いつもと違うこともあった。

「今日から来た子にも声をかけたの。四人になって賑やかになるわね」

 それから、耳元で内緒話をするようにそっと囁く。

「とってもキュートな香港ボーイよ」

 全然興味が湧かない。どうせ新しく来た人も英語しか話せないのだ。
 いつも通り自分の席について食事を始める。空いているのは私の前の席だから、新しい人はそこに座るのだろう。

「おまたせ」

 低めの声がダイニングに響いた。背の高い男の子が私の前の席に着く。肌は日に焼けてブラウン。髪の毛は明るくブリーチされていて、寝癖がついている。良く言えば野生的。悪く言えば無頓着。スッとした目元が印象的な人だ。
 さっそくヒルダが話しかける。

「名前は?」

「カイ」

「どのくらいここにいるの? 学校はどこ?」

「二年いるよ。坂の上にある学校に行く」

「ナツと同じだわ!」

 それを聞いたカイが、私の方を見る。目が合った。

「よろしく」

 カイからの挨拶に頷くことで返事をする。

「……この子、話せないの?」

「そんなことないわ。少し英語が苦手なだけなの。とても良い子よ」

「彼女は毎日、頑張っているよ」

 ヒルダが私を庇った。マークまで一緒に庇ってくれている。胸がチクリと疼く。無視をして、酷い態度を取り続けているのにヒルダは私のことをいい子だと言う。私がここに来た時から、ずっと変わらず彼女は優しい。
 私が悪いのだ。そんなことわかっている。

 わかっていても私は無視して、誰よりも先に食事を終わらせて部屋に戻ろうとしている。

「ふぅん」

 幸運にもカイはそれ以上何か追及するようなことをしなかった。真っすぐに私を見据えた視線は動かさないまま、ナイフで硬いビーフカツを切っている。

「カイは何を専攻しているの? 留学は初めて?」

「俺は経済学。留学は初めてじゃないよ。小さい頃から色んな国に行ってる」

 ヒルダに話しかけられたことをきっかけに、カイの視線が私から逸れた。そのタイミングで席を立つ。

「ごちそうさま。おやすみなさい」

 いつものようにシンクに食器を沈めて部屋に戻る私の背中に、ダイニングから楽しそうな声が聞こえていた。

 ほら。やっぱり。

 人が増えたって私は何も変わらない。


 部屋に戻ってやり残した宿題をしながら窓の外を見ると、同い年ぐらいのグループが楽しそうに歩いているのが見えた。静かな町に笑い声が響いている。

 羨ましい。私もあんな風に過ごせたら、どれだけ楽しいだろう。……町に出てみたら、何か変わるだろうか。少しだけ、外に出てみてもいいかもしれない。まだ七時を過ぎたころだし、ちょっと散歩して帰ってくるぐらいなら明るいうちに戻ってこられる。



 身支度を整えてほんの少しのお金と学生証を持つ。物音を立てないように一階まで下りて、賑やかなダイニングをこっそり覗いた。時々ドッと笑い声が上がる明るいダイニングを、じめっとした視線で眺める。
 カイはあっと言う間にヒルダたちと仲良くなってしまった。なんだ。この感情は。もしかして、寂しいのだろうか。

 思わず楽しそうな三人をじっと見つめてしまう。その視線に気が付いたのか、カイと目が合った。その視線を追って、ヒルダとマークも私の方を見る。

「そんなところにいないでナツもおいで。紅茶を淹れよう」

「いい」

「どうして? みんなで話しましょうよ」

「わからないからいい」

 マークとヒルダが誘ってくれている。それなのに、どうしてもその輪の中に入りたくなかった。私の中のゴミ箱にくしゃくしゃにして捨てたはずの不安と不満が、パリパリと音を立てて膨らんでいく。

「大丈夫だよ。こっち来いって」

「嫌だってば!」

 カイにまで声をかけらたことで、それはパァンと破裂した。

 苛立ちに任せて大きな声を出してしまったせいで、賑やかだったダイニングがしんとする。いつもニコニコと笑っているヒルダの顔が悲しそうに歪んだ。その顔を見て、ひゅっと息が止まる。

 違う。こんなことがしたかったわけじゃない。

「……ごめんなさい」

 張り付いた喉の奥から何とかその一言だけ絞り出して、私は家を飛び出した。