『ありがとうございました』
『うん。次の予約はいれておく?』
パソコンの画面に映る女の子を見ながら、スケジュール帖を開く。
『じゃあ、来週も同じ時間に話に来ていいですか?』
『もちろん。それよりも早く何か話したいことが出来たら、メッセージで知らせてくれれば時間取るからね。遠慮せず連絡しておいで』
『ありがとうございます』
ぷつりと切れたテレビ通話の画面を閉じる。次の予定を確認した後、パソコンから視線を外す。傍にあるカレンダーの日付は、二〇二二年だ。一人暮らしをしている私の部屋に置かれた、あまり大きくないテレビのリモコンのスイッチをいれる。
〈二年前から世界的に猛威を振るっていた新型ウイルスも、徐々に減少傾向にあり……〉
テレビから流れるニュースを聞きながら、視線を窓の外に移した。
私は今、スクールカウンセラーという職業についている。
イギリスから帰ってきたとき、私も過去の自分のように動けずにいる人の手を引いてあげたいと思った。自分がなりたいと思うもののために初めて死ぬほど勉強し、資格をとり、行きついた職業がこれだ。
私が想像していたよりもたくさんの人間が、壁にぶつかり虐げられ悲鳴をあげていることに気が付いた。私はそんな人たちが『本当はこうしたい』と言えるようになる手伝いをしている。
近頃は対面で話すことがなかなか難しくなってしまったが、インターネットの急速な普及と発展によってカウンセリングへの支障は少ない。
ポコポコンッ
パソコンがたてた通話申し込みの知らせに、画面を見る。
画面に出た名前に、思わず口元が緩んだ。マイクのスイッチをオンにして、通話を開始する。
『ナッちゃん! 久し振り。今、大丈夫? オンラインになってたから、ついかけちゃった』
画面の中でエリが笑う。その背中にまとわりつくように子供がくっついている。
『久し振り、元気だった? 子育てはどう?』
『毎日が本当に大変だよ! あっと言う間に一日が終わっちゃうの! ……そろそろ会いたいよね。この前、ルイとも話したんだ』
エリはマイクを子供に取られそうになるのを必死に死守している。
『へぇ、そうなんだ。今、ルイは何してるの?』
『なんか、アメリカにあるラボにいるみたいだよ。人の心の動き方を調べてるって言ってた気がする。臨床心理……なんとか? ナッちゃんと同じような仕事かな』
『あぁ、ルイは研究してるんだね。学者にでもなるのかな? 私の仕事とは全然違うよ』
好きだという気持ちがよくわからなかったと話していたルイを思い出す。
『カイはどうなの? 最近、連絡とった? あぁ、ちょっとダメだって!』
ガサガサという音が耳に響く。子供にマイクを奪われたエリが慌てて取り戻そうとしているのを見ながら、机の上に置かれた写真立てに目を向けた。
写真の中で、イギリスにいたころの私が笑っている。
四人で写っているのは、サッカーユニフォームを着てスタジアムの外で撮ったこの写真だけだ。今はもう、このスタジアムもなくなってしまったらしい。まるでつい最近のことのように思い出せるのに、時間が経つのは早いなと身に沁みて感じる。
『ごめん、ナッちゃん! またゆっくり話しできるときに連絡する!』
髪の毛を引っ張られるエリが画面に一瞬見えた後、通話がプツリと終わった。
〈ごめんね〉
すぐに机の上に置いてあったスマートフォンが震えて、エリからのメッセージが届いたことを画面で知らせた。
『大丈夫、気にしないで……と』
たぷたぷと画面を操作して返事を返す。本当に便利な世の中になった。
少し考えたあと、付け足すように文字を打った。
〈カイは今、日本にいるよ〉
「これでいいのかわからないけれど、とりあえず父親の仕事を手伝うよ。俺が世界で見て来たものを、父親に話したいし」
そう言ってカイは貿易商をしている父親と一緒に、世界中を飛び回っている。インターネットでなんでも買える世の中になっても、直接品物を見に行くことがやっぱり大切なんだそうだ。今、自分がどこにいるのか写真と一緒に伝えてくれる彼のメッセージが、なんだか私も一緒に飛び回っているようで嬉しかった。
やり取りを続ける中で、会いたいと思うことは何度もあった。でも、電話をする時間もないほど忙しそうなカイとは、なかなか会うことができない。
そんな彼から日本に立ち寄ると連絡が来たのは二週間前のこと。
日本に来たカイと久し振りの再会をしたのは一週間前。窓際にある花瓶代わりのグラスにいれられた赤い薔薇を見ながら、カイと会った日のことを思い返す。
「カイ! 久し振り!」
まだだいぶ距離があるのに思わず大きな声で呼んでしまった私を、呆れたような顔でカイは見ていた。
「ナツはいつまでもナツだな……」
「そうだよ。私は私だもの」
久し振りに直接聞く少し低い声に、耳がくすぐったい。私の顔はずっと緩みっぱなしだった。
学生時代の選択肢にはなかった少し大人びたレストランで食事をしたあと、別れ際にカイは一輪の赤い薔薇を差し出した。
思わず笑ってしまった私に、カイはあの頃と同じ目で私をまっすぐ見て言った。
「そろそろ俺、一人で世界を回ることになるんだ。ナツ、良かったら一緒に来ない? もちろん、今すぐじゃなくていい」
カイの言葉を聞いて私の目が大きく見開くのを、面白いものを見るような目でカイは見ていた。それから、驚く私の右手にそっと薔薇を握らせた。
『どうしようかなぁ……』
あれからずっと悩んでいた。
今日の夜、カイが日本から旅立つ。空港まで見送りに行くと約束をしていた。
カイと一緒に世界を回るのは、楽しそうだ。世界には私がまだ見たことがないものがたくさんあるのだろう。正直、行ってみたいと思う。
自分の気持ちを見つめるように、赤い薔薇を見つめる。
窓の外の景色がオレンジ色になっても、まだ悩んでいた私の頭の中に声が響いた。
――大事なのは、人生を楽しむこと。それだけです。
そうだ。これはプロムの時と同じだ。
私はもう、自分がどうしたいかわかっている。
「……うん。決めた」
キャスター付きの椅子をぐるりと回して立ち上がった。荷物を持って玄関から外へ出て、駅に続く道を踊るように歩く。
自由なのだ。
好きなこと、やりたいこと、全部自分で決めていい。もちろん、一緒にいたい人も。
どこにでも行けそうな気分だ。
私の返事を聞いたカイはどんな顔をするだろう。
笑うだろうか。驚くだろうか。
もしかしたら、泣いてしまうかも。
色々なカイの表情を想像しながら、空港に向かう電車にわくわくしながら飛び乗る。
祝福するかのように、午後五時を告げる鐘がなった。
(了)
『うん。次の予約はいれておく?』
パソコンの画面に映る女の子を見ながら、スケジュール帖を開く。
『じゃあ、来週も同じ時間に話に来ていいですか?』
『もちろん。それよりも早く何か話したいことが出来たら、メッセージで知らせてくれれば時間取るからね。遠慮せず連絡しておいで』
『ありがとうございます』
ぷつりと切れたテレビ通話の画面を閉じる。次の予定を確認した後、パソコンから視線を外す。傍にあるカレンダーの日付は、二〇二二年だ。一人暮らしをしている私の部屋に置かれた、あまり大きくないテレビのリモコンのスイッチをいれる。
〈二年前から世界的に猛威を振るっていた新型ウイルスも、徐々に減少傾向にあり……〉
テレビから流れるニュースを聞きながら、視線を窓の外に移した。
私は今、スクールカウンセラーという職業についている。
イギリスから帰ってきたとき、私も過去の自分のように動けずにいる人の手を引いてあげたいと思った。自分がなりたいと思うもののために初めて死ぬほど勉強し、資格をとり、行きついた職業がこれだ。
私が想像していたよりもたくさんの人間が、壁にぶつかり虐げられ悲鳴をあげていることに気が付いた。私はそんな人たちが『本当はこうしたい』と言えるようになる手伝いをしている。
近頃は対面で話すことがなかなか難しくなってしまったが、インターネットの急速な普及と発展によってカウンセリングへの支障は少ない。
ポコポコンッ
パソコンがたてた通話申し込みの知らせに、画面を見る。
画面に出た名前に、思わず口元が緩んだ。マイクのスイッチをオンにして、通話を開始する。
『ナッちゃん! 久し振り。今、大丈夫? オンラインになってたから、ついかけちゃった』
画面の中でエリが笑う。その背中にまとわりつくように子供がくっついている。
『久し振り、元気だった? 子育てはどう?』
『毎日が本当に大変だよ! あっと言う間に一日が終わっちゃうの! ……そろそろ会いたいよね。この前、ルイとも話したんだ』
エリはマイクを子供に取られそうになるのを必死に死守している。
『へぇ、そうなんだ。今、ルイは何してるの?』
『なんか、アメリカにあるラボにいるみたいだよ。人の心の動き方を調べてるって言ってた気がする。臨床心理……なんとか? ナッちゃんと同じような仕事かな』
『あぁ、ルイは研究してるんだね。学者にでもなるのかな? 私の仕事とは全然違うよ』
好きだという気持ちがよくわからなかったと話していたルイを思い出す。
『カイはどうなの? 最近、連絡とった? あぁ、ちょっとダメだって!』
ガサガサという音が耳に響く。子供にマイクを奪われたエリが慌てて取り戻そうとしているのを見ながら、机の上に置かれた写真立てに目を向けた。
写真の中で、イギリスにいたころの私が笑っている。
四人で写っているのは、サッカーユニフォームを着てスタジアムの外で撮ったこの写真だけだ。今はもう、このスタジアムもなくなってしまったらしい。まるでつい最近のことのように思い出せるのに、時間が経つのは早いなと身に沁みて感じる。
『ごめん、ナッちゃん! またゆっくり話しできるときに連絡する!』
髪の毛を引っ張られるエリが画面に一瞬見えた後、通話がプツリと終わった。
〈ごめんね〉
すぐに机の上に置いてあったスマートフォンが震えて、エリからのメッセージが届いたことを画面で知らせた。
『大丈夫、気にしないで……と』
たぷたぷと画面を操作して返事を返す。本当に便利な世の中になった。
少し考えたあと、付け足すように文字を打った。
〈カイは今、日本にいるよ〉
「これでいいのかわからないけれど、とりあえず父親の仕事を手伝うよ。俺が世界で見て来たものを、父親に話したいし」
そう言ってカイは貿易商をしている父親と一緒に、世界中を飛び回っている。インターネットでなんでも買える世の中になっても、直接品物を見に行くことがやっぱり大切なんだそうだ。今、自分がどこにいるのか写真と一緒に伝えてくれる彼のメッセージが、なんだか私も一緒に飛び回っているようで嬉しかった。
やり取りを続ける中で、会いたいと思うことは何度もあった。でも、電話をする時間もないほど忙しそうなカイとは、なかなか会うことができない。
そんな彼から日本に立ち寄ると連絡が来たのは二週間前のこと。
日本に来たカイと久し振りの再会をしたのは一週間前。窓際にある花瓶代わりのグラスにいれられた赤い薔薇を見ながら、カイと会った日のことを思い返す。
「カイ! 久し振り!」
まだだいぶ距離があるのに思わず大きな声で呼んでしまった私を、呆れたような顔でカイは見ていた。
「ナツはいつまでもナツだな……」
「そうだよ。私は私だもの」
久し振りに直接聞く少し低い声に、耳がくすぐったい。私の顔はずっと緩みっぱなしだった。
学生時代の選択肢にはなかった少し大人びたレストランで食事をしたあと、別れ際にカイは一輪の赤い薔薇を差し出した。
思わず笑ってしまった私に、カイはあの頃と同じ目で私をまっすぐ見て言った。
「そろそろ俺、一人で世界を回ることになるんだ。ナツ、良かったら一緒に来ない? もちろん、今すぐじゃなくていい」
カイの言葉を聞いて私の目が大きく見開くのを、面白いものを見るような目でカイは見ていた。それから、驚く私の右手にそっと薔薇を握らせた。
『どうしようかなぁ……』
あれからずっと悩んでいた。
今日の夜、カイが日本から旅立つ。空港まで見送りに行くと約束をしていた。
カイと一緒に世界を回るのは、楽しそうだ。世界には私がまだ見たことがないものがたくさんあるのだろう。正直、行ってみたいと思う。
自分の気持ちを見つめるように、赤い薔薇を見つめる。
窓の外の景色がオレンジ色になっても、まだ悩んでいた私の頭の中に声が響いた。
――大事なのは、人生を楽しむこと。それだけです。
そうだ。これはプロムの時と同じだ。
私はもう、自分がどうしたいかわかっている。
「……うん。決めた」
キャスター付きの椅子をぐるりと回して立ち上がった。荷物を持って玄関から外へ出て、駅に続く道を踊るように歩く。
自由なのだ。
好きなこと、やりたいこと、全部自分で決めていい。もちろん、一緒にいたい人も。
どこにでも行けそうな気分だ。
私の返事を聞いたカイはどんな顔をするだろう。
笑うだろうか。驚くだろうか。
もしかしたら、泣いてしまうかも。
色々なカイの表情を想像しながら、空港に向かう電車にわくわくしながら飛び乗る。
祝福するかのように、午後五時を告げる鐘がなった。
(了)