「完っ璧だわ……」

 プロム当日の私の部屋に、リースの声が響いた。

「お腹が苦しい。なんかきつい……」

「少し強く締めすぎたかしら? 緩める?」

 部屋の鏡に映る私は、普段とはまったく別人だ。
 リースが一生懸命縫い付けてくれた桜模様のストーンが、動くたびにキラキラと光る。髪型も化粧もヘアサロンで整えて、肌につけられた金のパウダーで全身が輝いていた。

「ううん、大丈夫」

「そう。じゃあ、私が呼ぶまであなたは部屋で待っていてちょうだい」

 鏡の前で何度も回る私を残して、リースは部屋から出て行った。

「自分じゃないみたい……」

 独り言をいいながら、思わずうっとりする。自分に見惚れるなんてこと、この先二度とないかもしれない。

「ナツ? 部屋から出ていいわよ」

 リースが扉をノックしている。

 急に緊張してきた。
 喉がカラカラなことに気がつくが、飲み物を飲む余裕すらない。ドッドッといつもより大きく音を鳴らして心臓が動いているのがわかる。
 鏡の前でもう一度、自分の姿をチェックする。用意してもらったパーティ用の小さなバッグに少しのお金と最低限の化粧品。それから、私の元に返ってきてからつけずにしまっていたネックレスをいれて持った。ドレッサーの上に置いてあったお気に入りの香水を、最後におまじないのように体に纏う。
 それから、汗ばんだ手でゆっくりと部屋の扉を開けた。

「カイがエントランスで待ってるわ。さぁ、行ってらっしゃい」

 満足そうに顔をほころばせるリースを見て、思わず胸が熱くなる。留学生である私に娘のように接してくれていた日々を思い出して、視界が滲んだ。

「いってきます。リース、本当にありがとう」

「楽しんで。素晴らしいプロムを」


 久し振りに履いたヒールが高くて歩きにくい。階段を踏み外さないように気を付けながら、階段をゆっくりと下りる。

 玄関ホールが見える小さな踊り場まで下りて、一度立ち止まる。視線を下に向けた私の目に、タキシードを着たカイが飛びこんだ。

 カイが一瞬目を大きく見開いた。それからすぐ、にっこりと笑う。今まで何度も彼が笑うところを見た。その中のどの笑顔よりも甘い。
 私の呼吸が一瞬止まった。胸が急に握り潰されたようになって、ヒュッと鳴る。

 一階に着くまで残りの階段が少なくなったとき、カイが手を差し出した。その手を取って最後まで階段を下りきる。

 正装したカイを、じっくりと眺めた。踊り場から見た時も立ち姿が素敵だと思った。近くで見ると更にかっこいい。シンプルな黒のタキシードが、背の高い彼にとても似合っている。普段は無頓着な髪の毛も、今日はばっちりセットされている。

 ホールに下りてすぐ、片手を握ったままカイが私に跪いた。そのまま、花の腕輪を私の手首につけた。

 黒に着色された薔薇と暗いワインレッドの薔薇がメインで作られている腕輪だ。花に細かいラメパウダーがかけられていて、雪が散ったように輝いていた。
 今日の黒いドレスにぴったりだ。

「ナツ、これを俺の胸につけて」

 手首につけられた腕輪を上に掲げながらまじまじと見ている私に、同じ花で作られたコサージュをカイが渡す。
 腕輪とコサージュの意味がよくわからないが、言われた通りに彼の左胸につける。

「このコサージュと腕輪は何?」

「これは、俺とナツがペアであることの印。ナツが俺につけたのは確かにコサージュだけど、男性がつけるときはブートニアって名前になるんだよ」

「ブートニア……。素敵な目印だね。ありがとう」

「……今日のナツは、本当に綺麗だ。綺麗すぎて驚いた」

 今、私の顔は絶対に真っ赤だ。恥ずかしくて、目が合わせられない。もじもじとする私の前で、カイが童話に出てくる王子様のようにお辞儀した。

「それでは参りましょう。お姫様」

「……王子様みたい」

 カイの腕に手を通しながら呟く私に向かって、カイが笑う。

「みたいじゃない。今日の俺はナツの王子様」

「……イギリスってすごい。言葉がいちいち甘いの」

 言われなれない言葉が続くことに、やっぱりもじもじする私を導くようにカイが玄関の扉を開ける。

 日は落ちかけて、空のてっぺんは紫。
 夕日に自分のドレスがキラキラと輝くのが嬉しくて、カイの腕を離して一人でクルリと回った。家の前の通りには、ドレスアップした女の子と男の子が何組も歩いている。
 普段はあまり車が通らない道に、リムジンや高そうな車が走る。

「ナツは蛹だったんだ。ナツが桜の上で世界一綺麗な蝶々になった」

「恥ずかしい……」

 カイが言う通り、私は長いこと蛹だったのかもしれない。羽化して飛び立つのを夢見ながら、ずっと頑丈な膜の中で息をひそめていた。いつまでも蛹のままでいようとする私に飛び立てることを教えてくれたのは、この国で私が出会ったすべての人たちだ。

 通いなれた坂道を、いつもとは違う格好で歩く。

「本当に、リムジンじゃなくて良かったの?」

「うん」

 いつもは車通りが少ない坂道を走る高級車を見ながら頷く。
 プロム会場まで友達同士でお金を出し合って高級車で向かう人もたくさんいることを、カイは教えてくれていた。借りようか迷っていたカイに、私は歩いていきたいと答えた。
 私は、学校までの坂道が好きだ。
 リムジンもいいけれど、正装したカイと並んで坂道を歩いたらきっと素敵だと思った。

 私が思った通り、ドレスアップして歩く坂道はこの上なく特別なものになっている。

「タキシード、似合ってるね」

「だろ?」

 謙遜することなく私を見下ろすカイに、思わず笑いが零れる。


「ナッちゃん!」

 いつもエリと別れる三叉路に、エリとルイが立っている。
 ピンクのワンピースドレスをふわりとさせながら、エリが私に向かって駆けて来た。

「すごい似合ってる。素敵」

「エリもすごく可愛い。妖精さんみたい」

 笑い合う私たちの隣に、カイとルイが立つ。

「エリもとても素敵だね。似合ってる」

「ナツもすごく綺麗だ。びっくりしちゃった」

 いつもふんわりとしているルイが、かっちりとした恰好をしている。それもとてもかっこいいと思う。でも、カイはもっとかっこいい。胸の中でこっそり思いながら、四人で学校を目指す。

 プロムの会場は、学校のホールだ。
 門からホールまで続く石畳にひかれたレッドカーペットの上を、カイと腕を組みながら進む。周りを歩く生徒たちも思い思いにドレスアップしている。女の子は色とりどりのドレス。男の子はタキシード。ドレスの色にタキシードの色を合わせているペアもたくさんいてカラフルだ。

 ホールに入っていく他の生徒たちと一緒に、私もホールへと吸い込まれるように足を踏み入れた。その瞬間、ホール内にかかる音楽と人々の喧騒がぐわんと私を飲み込んだ。

 想像以上の騒がしさに、思わず立ち止まってしまう。

「大丈夫。ほら」

 立ち止まった私の手を引いて、カイが奥へと進む。少し人が少ない壁際まで進んで、手を離した。

「何か飲み物を取ってくるから、ここで待ってて」

「すぐに戻るからね」

 私とエリを置いて、二人は人をかき分けながら奥へと進んでいく。

『うぅ……、ルイがめちゃくちゃかっこいい……』

 胸の前でぎゅうっと手を握ったエリが、夢見るような表情で二人の背中が見えなくなった場所を見つめる。

『もしかしたら、私、生まれて初めて頑張ったかも』

 エリがぽつりと呟いた。

『私が今まで普通だと思ってたことって、やっぱり普通じゃなかった。今まで、運が良かっただけなんだ。本当は、こんなに頑張らないと手に入らないんだね』

『うん』

 エリもこの国に来て思うことが色々とあったようだった。初めて会った時よりもキラキラとした目で、会場を見渡している。

 会場のボルテージが上がるのを、全身で感じながら二人を待つ。
 待ちきれないように体を揺らし始める人を見ながら、この国に来てからのことを思い返していた。

 腐った私を見放すことを絶対にしなかったヒルダとマーク。いつも包み込むように抱きしめてくれたリース。おどおどする私に自分の感情を真っすぐぶつけてくれたエリとルイ。見ず知らずの私の話を静かに聞いて、導いてくれたパブにいたおじいさん。
 それから、いつも手を引いてくれたカイ。

 この国で出会ったすべての人たちのおかげで、私は今ここに立っている。



「お待たせ。さぁ、これを飲んだら踊ろう」

「えっ。私、踊れないよ」

 人ごみから押し出されるように出て来たカイが、私にグラスを差し出す。ダンスをするだんて考えていなかった。プロムの雰囲気だけ楽しめればいいかな、なんて気軽な気持ちで来たのだ。
 司会者の声が響いて、ペア同士向かい合って踊る人たちを見ながら慌てて両手を振る。

「エリ、僕たちも踊ろう」

「うん!」

 ルイに手を引かれて、エリが一歩進む。

「エリ、踊れるの!?」

「ううん。踊れないよ。でも、こんなことできるの今日だけだし、ナッちゃんも行こうよ」

 そう言い残して、エリはホールに消えて行った。

「ほら、ナツも行こう」

「本当に踊れないけれど、いいの?」

「いいよ。恥をかかせるようなこと、絶対にしないから安心して」

 差し出された手を不安げに握り返した私に、カイはいつものように自信たっぷり笑った。

 ホールの中央まで進んでカイと向かい合う。左手で私の手を握って、右手で肩甲骨の下あたりを支えた。

「ナツの左手は俺の肩。うん、そう」

 体勢を言われたとおりに整える。それから、カイは曲に合わせてゆっくり体を揺らし始めた。おぼつかない足元が気になって、つい下を向いてしまう。

「……初めてナツを見たとき、変な子って思った」

 カイの声が聞こえて、視線を上に戻す。

「変な子?」

「うん。喋らないし、何考えてるかわからないし。最初は、珍しい動物にちょっかいだすような感じだった」

「うーん、そう言われると、とても複雑な気分」

 私の体をくるりと回して受け止めながら、カイは笑った。

「そういうナツも、俺のこと避けてただろ? どうして?」

 しばらく考える。私はカイのことが本当に苦手だった。絶対に仲良くなんてなれないと思っていたし、こんな風に踊ることになるなんて考えていなかった。それなのに今、カイは私の心に一番近い場所にいる。

「……カイって、あまり表情が変わらなくて怖いって思ってた。思ったことをそのまま言うし。苦手だったよ」

「今は?」

「今は……」

 胸の中に浮かんだ言葉を素直に言うことができない。これは詰まってでてこないわけじゃない。言っていいのかわからないわけでもない。リースやヒルダに好きだと言うのは簡単なのに、カイに言うのは難しい。

「……俺はナツが好きだよ。この国に来た時より、お前はよく笑うようになった。ナツが笑うと、周りが明るくなるようで素敵だ」

「……」

 目の前で優しく笑うカイから、目が離せなくなる。今まで何度も同じように見惚れてしまうことがあった。ずっと見ていたい。傍にいたい。帰りたくない。色々な感情が波のように押し寄せる。

「私……」

 詰まったものを声に出そうとした時、フロアに流れていた曲が静かに終わった。もう少しで言えそうだったのに、引っ込んでしまう。カイみたいに、私もサラリと言えたらいいのに。

「何?」

「ううん、なんでもない」

 吸い寄せられるようにカイを見ていた視線を下に向けて首を振る。
 くっつくようにしていた体を離して、壁際に戻る。寄りかかるようにして立つ私の視線の先に、ルイと踊るエリが見える。回るたびにふわりと舞うスカートと、幸せそうに笑うエリの顔が眩しい。

 騒がしいホールで、私はぼんやりと考えていた。

 日本に帰っても私は大丈夫だろうか。もう、何かあったときに手を差し伸べてくれる人はいない。助けてほしいときに、話を聞いてくれる人がいるような場所もない。もやもやと不安になる。

「ナツ、少し外の空気を吸いに行こう」

「うん」

 カイは私の手を取るとホールの外に連れ出した。
 いつもぼんやりとする私の手を、彼はいつもこうやって引っ張ってくれた。少し不器用で優しい彼も、私が帰るべき場所にはいないのだ。この時間が夢のようであればあるほど、帰国という現実が私に重くのしかかっていた。



「足元、気を付けて」

 高いヒールを履く私を気遣いながら、カイは噴水がある広場まで歩いた。いつもなら夜は止められている噴水も、今日は静かに水を噴き上げている。奥にある外灯がうっすらと広場を照らしていた。
 この場所は微かにホールの喧騒が聞こえるだけで静かだ。立ちっぱなしで疲れていた足を休ませたくて、噴水の淵に飛び乗った。

 この場所で待ち合わせて、カイと帰っていたことを懐かしく思う。寂しさと不安を感じながら、プラプラと揺らしていたつま先をじっと見ていた。

「ナツ、上を見て」

「わぁ……」

 空を見上げた視線の先に、満点の星空が広がっていた。

「下を向いてばかりだと、綺麗なものを見逃すよ」

 隣に座りながら、カイが笑った。
 見上げながら吐いた息が、白くなって消えていく。思わずブルッと震えた私の肩に、カイがタキシードの上着をかけた。

 空が丸いドームのような形に見える。
 
 地球って本当に丸いんだ。

 馬鹿みたいだが、生まれて初めて実感した。地球が丸いことを知っていても、普段そんなことを意識して生きていない。不思議な気持ちだ。

 じっと見つめれば見つめるほど、目が夜に慣れて見える星が増えてくる。
 瞬きをするのも忘れて、ひたすら見とれていた。

「綺麗……すごく綺麗」

「星、好きなの?」

 私が頷くと、カイは空に向かって腕を伸ばした。

「あれがカシオペヤ」

 カイの指が示す方向を見ながら頷く。

「で、あれが天王星」

「うん。あの光ってるやつ?」

「そう。それで、あれがペルセウス」

 カイはまた違う方向を指しながら言う。

「……どれ?」

「あれ」

 カイはできる限り私の目線まで近づいて指で示してくれている。

 一生懸命カイの指の先を追うが、どれがペルセウスなのかわからない。見える星の量が多すぎる。

「わかった?」

「……わかんない」

「うーん、じゃああれならわかるよ。アンドロメダ」

 次にカイが示した先には、沢山の小さな星が集まって白くなっている場所があった。見れば見るほど、星の数が増えていく。

「すごい……」

「肉眼で見える銀河のうちのひとつだよ。綺麗だよね。天の川みたいじゃない?」

 綺麗だね、と言おうとしてカイの方に顔を向けた。私に星を教えるために出来るだけ目線をあわせていたカイの顔が、思っていたよりも近くにあった。私が横を向いたことに気が付いていないのか、「それからあれが」とカイは星を指し続ける。

 その横顔に見惚れた。

 私は、あとどれぐらい彼をこうやって見ることができるのだろう。もしかしたら、もう片手で数えらるほどしかないのかもしれない。

 そんなことがふと、思い浮かんだ。
 急に胸がいっぱいになって、視界が滲む。

 慌ててバッグからハンカチを取り出そうとした時、指が硬いものに触れる。

「あっ」

「どした?」

 声を上げた私をカイが見る。

「これ、カイにつけてもらおうと思ってたんだ」

 バッグの中から、赤い石のネックレスを取り出す。

「これ……。見つけたの?」

「うん。エルザが探してくれた。ちゃんと話してみたら、悪い子じゃなかったよ」

 手からネックレスを取って、カイがさらに近づく。
 カイの匂いが近くなって、手が首元に触れる。

 外が寒いせいで、カイの指が冷えている。初めてつけてもらった時よりも時間をかけて、カイは私の首にネックレスを付けた。

「ごめん。指が冷えてて……。よし、動いていいよ」

 離れようとしたカイと目が合う。その瞬間、感情が胸の奥底から決壊したように押し上げて来た。

 私が帰国した後、彼の隣は誰の場所になるのだろう。
 今、私がいる場所から、誰が彼を見るのだろう。
 目を優しく細めたその先には、誰がいるのだろう。


 自分の胸の中にある気持ちは、恋なのかもしれない。理解できるほどの経験値がない。それでも、私がカイに抱く気持ちが他の人に抱いている物と別のものだということはわかっている。
 言っていいのだろうか。伝えていいのだろうか。カイを困らせるようなことにならないだろうか。それでも、私は……。

『人が後悔するのは、言ったことよりも言わなかったことです』

 グラスから溢れそうになっていた水を震るわせるように、おじいさんの声が脳に響いた。


「私、カイが好き」


 ホールの喧騒が遠くなる。噴水が水を噴き上げる音が耳に響いた。
 いつもならすぐに爆発しそうなる私の心臓が、今は不思議と落ち着いていて静かだ。ぽっかりと私たちだけ世界からくり抜かれてしまったのではないか。
 そう錯覚してしまいそうになるほど、静かだった。

 カイの目が、驚いたように大きくなる。

「好きなの」

 もう一度、確認するように呟いた。

 私は一度も彼に伝えたことがない。

 優しく細まる目が好きだった。笑うとハスキー犬みたいになるところも好きだった。手を引いて歩く、彼の大きな背中が好きだった。私が笑うと、嬉しそうにする彼が好きだった。少しでも顔色が悪いとすぐに心配して、放っておけないと世話を焼くカイが好きだった。





「私、今、生まれてきて良かったって思ってる。カイと出会えて、良かった」

「ナツ……」

 胸にあった言葉を口にするたびに、不安や迷いが消えていく。

 私はもう大丈夫だ。きっと大丈夫。
 迷ったとき、立ち止まったとき、思い返せる思い出がたくさんある。
 これからも、きっと私は壁にぶつかる。砕けることも泣くこともたくさんあるかもしれない。それでも、絶対に大丈夫だ。

 だって、私はもう一人じゃない。



 カイの右手が、私の頬を包んだ。
 カイの目の中に、まっすぐ見つめ返す私が見える。おどおどしている私は、もうどこにもいなかった。



「今日は、蝶々が飛んでないから途中でやめたりしないよ」

 ハートフィールドに行ったときのことを、カイが呟く。

 返事をする代わりに、私は静かに目を閉じた。