太陽が少し傾いた時、一日の終わりを報せるベルが校内に響いた。大きく溜め息をひとつついて、シャープペンを机の上に転がす。机に開かれているテキストは間違いだらけだ。大変だということを多少は覚悟していたが、ここまでとは思っていなかった。
多分、授業の内容は日本の中学生が受ける英語の授業と同じぐらいの難易度だ。それなのに、説明が英語になると何も理解ができない。思わず口から出てしまう日本語に、先生は即座に「日本語禁止」とぴしゃりと言う。その度に、何かがぐぅっと胸に押し込まれていく。
『私、先生のところに少し質問しに行くけど、ナッちゃんも来る?』
『ううん。私はいいや』
そもそも理解ができていないのだから、質問なんてあるわけがない。何がわからないのかわからないのだ。強いて言うなら全部だ。
『そっか。でも、一緒に帰ろうよ。すぐに終わらせるから待ってて』
『うん。ロビーにいるね』
初めての授業は散々だった。それに、期待していたような金髪のイケメンも、クラスメイトにはいなかった。残念ながら、私のクラスメイトはアラビア系のおじさんばかりだ。クラスメイトから漂うスパイスのような独特な香りを感じながら、何一つわからない授業を受けて一日が終わった。
唯一良かったことといえば、エリと同じクラスになれたことぐらい。
視界の端に見えたスナック菓子の自販機で、ポテトチップスを買う。
本当にやっていけるのだろうか。
不安も、思うことも、全部ポテトチップスと一緒に呑み込む。別にお腹なんか空いていない。でも、何かしていないと落ち着かなかった。
ロビーには明らかに人種が違う人達が、英語で滞りなくコミュニケーションを取っているのが見える。私だけポッカリと世界から消えてしまったみたいだ。
小さなポテトチップスはすぐになくなって、ただのゴミになった。
袋をくしゃくしゃに丸めて、傍にあったゴミ箱に捨てた。
キュッと小さくなったはずの袋は、ゴミ箱の中でパリパリと元の形に戻ろうとしている。まるで私の気持ちを現しているようだ。思わずゴミをじっと見つめてしまう。
言いたいことや不安な気持ちを必死に丸めて潰そうとしているのに、気がつくとそれは元通りに私の胸にあるのだ。
『お待たせ! ……何見てるの?』
『ゴミ』
『ゴミ? どうして?』
いつの間にかエリが傍で一緒にゴミ箱を覗いている。ゴミ箱をじっと見ていた私を不思議そうな顔で見ていた。
『なんとなく。深い意味はない』
『そうなの? じゃあ、帰ろうよ』
噴水がある広場を抜けて、家を目指して歩く。校舎の雰囲気も町並みもとても素敵なのに、言葉がわからないというだけでこんなにも気持ちが沈むものなのか。家まで続く坂道を歩きながら、遠くに見える海を見つめる。太陽でキラキラと輝いている海面が、モノクロ映画のようにくすんで見えた。朝は素敵だと思った看板が、授業で撃沈した私を嘲笑っている。
隣を歩くエリと、私に見えている世界はきっと違う。
『ねぇ、ナッちゃんのステイ先はどんな感じ?』
『思っていたより自由で楽だよ。バスタブもあるし、部屋も広くて専用の洗面所もついてる』
私が住むことになった家はかなり大きかった。部屋は全部で六部屋。それに、ダイニングと独立したリビング。どんなステイ先になるかは運だけが頼りだ。確実に私は当たりだ。
『何それ! いいなぁ』
口を尖らせて、エリが嘆いた。背の小さいエリがやると、まるで小さい子が拗ねているようで愛らしい。
『エリの家にはない?』
『ないよ! 部屋は狭いし、シャワーしかないの。しかも、水しか出ない』
『それは嫌だね』
『しかも、他の留学生が最悪。到着してすぐ日本人であることをからかわれたよ。洗礼ってやつかなぁ……』
エリの声を聞きながら、ヒルダとマークのことを思い出す。あの二人は、私にとても優しい。私が何も話せない無能でも、だ。
『家主は若い夫婦なの。ビジネスで受け入れてるのかなって思うほど素っ気ないよ。そっちは、ナッちゃんが着いた時に出迎えてくれた人が家主?』
『うん。すごくいい人だよ。優しいし、色々と気にかけてくれてる』
『いいなぁ。……あっ! 私の家、こっちなの』
赤い電話ボックスがある三叉路まで来た時、エリが立ち止まった。指をさす方向にどうにか車が一台通れそうな狭い路地が見える。
『この先にあるホテルが私の家』
『おうち、ホテルなの?』
『うん。ご飯はまぁまぁ美味しいよ。今度、遊びに来なよ』
跳ねるように路地を歩くエリの背中を視線で見送る。部屋もステイメイトも最悪だというエリの足取りは軽いのに、不満が何もない私の足取りは鉛のように重い。
ずるずると足を引きずるように家まで歩いてそっと玄関を開ける。できるだけ物音を立てないように開けたのに、リースは私の帰宅にすぐ気が付いた。
「おかえり。学校はどうだった?」
「良い」
ただ一言を英語で返した。それだけしか答えられないことが情けない。私の中にはもっとたくさんの感情が渦巻いているのに、それを伝えるための語力がない。そんなお粗末な返答に意外にもリースは満足気に頷いた。
「それは良かったわ。おやつにクッキーと果物があるから、必要だったらダイニングから持っていってね」
小さく何度も頷きながら、逃げるように自分の部屋に戻る。そのまま真っすぐ勉強机に向かってテキストを開いた。おやつなんか食べている場合じゃない。宿題が山のように出ている。とりあえず開いてはみたものの、すべてが英語で書かれたテキストはちんぷんかんぷんだ。問題の意味が理解できないから、答えだってわからない。
シャープペンをクルクルと回しながら、窓の外をぼんやりと見ているうちにあっと言う間に夕飯の時間になってしまった。今日も三人で食事をするのだろうか。出来ることなら、一人で食べたい。宿題が忙しい振りをして、少し時間をずらしてしまおうか……。
そんなことを考えていると、部屋にノックの音が響いた。間を空けずに部屋の扉が開いて、夕食の時間を知らせに来たヒルダが顔を出す。
わざわざ声をかけてくれるなんて有り難い。有り難いが、今はそんなこと望んでいないのだ。……仕方がない。観念したようにシャープペンを置いて、ダイニングへと向かう。
そんな私の気を知らずに、ヒルダはにこやかに話しかけてくる。
「今日、学校どうだった?」
「良い」
リースにした返事と同じ返答をしながら席に着く。できるだけ目を合わせないようにしながら、黙々と食事を進める。
「そういえば、ナツはどうしてあの学校に通っているの?」
「あの学校はいろいろな学部があるよね。どれかに興味があるのかい?」
放っておいて欲しいのに、二人はそうしてくれない。いっそのこと、私のステイメイトもエリの家みたいに意地悪だったら良かった。それなら、いくらでも無視できるのに。
「えっと……少し時間をください」
食事の手を止めて辞書を引く。たっぷり時間をかけながら返答に相応しい言葉を調べる。その間、二人は別の会話を始める。
「今日の考古学の授業、難しかったわね」
「そうだね。レポートの書き甲斐があるよ」
どうやら二人は、自分の大学の話をしているようだ。
流暢な会話を聞きながら、ようやく返事に相応しい単語を見つけた。辞書に書いてある単語をそのまま読み上げる。
「……提携」
「あぁ、日本の大学と提携しているのね」
「なるほどね。ナツの専攻は何?」
「えっと……」
私が単語を呟くと、二人は会話を中断して頷いた。そんなことが何度か繰り返されて、いい加減嫌になってきた。必死に調べて答えても、二人の会話の速度についていけないことが心底情けない。本当に、私のことは放っておいてくれて構わない。
「ねぇ、ナツ」
それなのに、放っておいて欲しいという私の願いは届かない。また次の会話が始まりそうになったことで、何かがプツリと切れてしまった。カチャリと音を立てて、フォークとナイフを皿の上に置く。
「どうしたの? まだたくさん残っているけど」
「もういらないです」
「具合でも悪いのかい? もしそうならリースに……」
「大丈夫です。おやすみなさい」
まだ半分以上食べ物が残っている食器を片付けるのを、二人は心配そうに見ている。その視線から逃げるように私は部屋へと戻った。
自分の殻に閉じこもるかのように布団を被る。
あの二人はいい人だ。私がどんなにもたもたしても、決して馬鹿にしたりしない。でもそれも最初だけだと思う。私は変われない。だから、すぐに呆れられる日が来るのだ。鼻の奥がツンとする。わぁっと叫びたいのを奥歯を噛みしめてぐっと堪えて、ぎゅっと目をつぶった。そのまま私は無理やり眠りに落ちた。
多分、授業の内容は日本の中学生が受ける英語の授業と同じぐらいの難易度だ。それなのに、説明が英語になると何も理解ができない。思わず口から出てしまう日本語に、先生は即座に「日本語禁止」とぴしゃりと言う。その度に、何かがぐぅっと胸に押し込まれていく。
『私、先生のところに少し質問しに行くけど、ナッちゃんも来る?』
『ううん。私はいいや』
そもそも理解ができていないのだから、質問なんてあるわけがない。何がわからないのかわからないのだ。強いて言うなら全部だ。
『そっか。でも、一緒に帰ろうよ。すぐに終わらせるから待ってて』
『うん。ロビーにいるね』
初めての授業は散々だった。それに、期待していたような金髪のイケメンも、クラスメイトにはいなかった。残念ながら、私のクラスメイトはアラビア系のおじさんばかりだ。クラスメイトから漂うスパイスのような独特な香りを感じながら、何一つわからない授業を受けて一日が終わった。
唯一良かったことといえば、エリと同じクラスになれたことぐらい。
視界の端に見えたスナック菓子の自販機で、ポテトチップスを買う。
本当にやっていけるのだろうか。
不安も、思うことも、全部ポテトチップスと一緒に呑み込む。別にお腹なんか空いていない。でも、何かしていないと落ち着かなかった。
ロビーには明らかに人種が違う人達が、英語で滞りなくコミュニケーションを取っているのが見える。私だけポッカリと世界から消えてしまったみたいだ。
小さなポテトチップスはすぐになくなって、ただのゴミになった。
袋をくしゃくしゃに丸めて、傍にあったゴミ箱に捨てた。
キュッと小さくなったはずの袋は、ゴミ箱の中でパリパリと元の形に戻ろうとしている。まるで私の気持ちを現しているようだ。思わずゴミをじっと見つめてしまう。
言いたいことや不安な気持ちを必死に丸めて潰そうとしているのに、気がつくとそれは元通りに私の胸にあるのだ。
『お待たせ! ……何見てるの?』
『ゴミ』
『ゴミ? どうして?』
いつの間にかエリが傍で一緒にゴミ箱を覗いている。ゴミ箱をじっと見ていた私を不思議そうな顔で見ていた。
『なんとなく。深い意味はない』
『そうなの? じゃあ、帰ろうよ』
噴水がある広場を抜けて、家を目指して歩く。校舎の雰囲気も町並みもとても素敵なのに、言葉がわからないというだけでこんなにも気持ちが沈むものなのか。家まで続く坂道を歩きながら、遠くに見える海を見つめる。太陽でキラキラと輝いている海面が、モノクロ映画のようにくすんで見えた。朝は素敵だと思った看板が、授業で撃沈した私を嘲笑っている。
隣を歩くエリと、私に見えている世界はきっと違う。
『ねぇ、ナッちゃんのステイ先はどんな感じ?』
『思っていたより自由で楽だよ。バスタブもあるし、部屋も広くて専用の洗面所もついてる』
私が住むことになった家はかなり大きかった。部屋は全部で六部屋。それに、ダイニングと独立したリビング。どんなステイ先になるかは運だけが頼りだ。確実に私は当たりだ。
『何それ! いいなぁ』
口を尖らせて、エリが嘆いた。背の小さいエリがやると、まるで小さい子が拗ねているようで愛らしい。
『エリの家にはない?』
『ないよ! 部屋は狭いし、シャワーしかないの。しかも、水しか出ない』
『それは嫌だね』
『しかも、他の留学生が最悪。到着してすぐ日本人であることをからかわれたよ。洗礼ってやつかなぁ……』
エリの声を聞きながら、ヒルダとマークのことを思い出す。あの二人は、私にとても優しい。私が何も話せない無能でも、だ。
『家主は若い夫婦なの。ビジネスで受け入れてるのかなって思うほど素っ気ないよ。そっちは、ナッちゃんが着いた時に出迎えてくれた人が家主?』
『うん。すごくいい人だよ。優しいし、色々と気にかけてくれてる』
『いいなぁ。……あっ! 私の家、こっちなの』
赤い電話ボックスがある三叉路まで来た時、エリが立ち止まった。指をさす方向にどうにか車が一台通れそうな狭い路地が見える。
『この先にあるホテルが私の家』
『おうち、ホテルなの?』
『うん。ご飯はまぁまぁ美味しいよ。今度、遊びに来なよ』
跳ねるように路地を歩くエリの背中を視線で見送る。部屋もステイメイトも最悪だというエリの足取りは軽いのに、不満が何もない私の足取りは鉛のように重い。
ずるずると足を引きずるように家まで歩いてそっと玄関を開ける。できるだけ物音を立てないように開けたのに、リースは私の帰宅にすぐ気が付いた。
「おかえり。学校はどうだった?」
「良い」
ただ一言を英語で返した。それだけしか答えられないことが情けない。私の中にはもっとたくさんの感情が渦巻いているのに、それを伝えるための語力がない。そんなお粗末な返答に意外にもリースは満足気に頷いた。
「それは良かったわ。おやつにクッキーと果物があるから、必要だったらダイニングから持っていってね」
小さく何度も頷きながら、逃げるように自分の部屋に戻る。そのまま真っすぐ勉強机に向かってテキストを開いた。おやつなんか食べている場合じゃない。宿題が山のように出ている。とりあえず開いてはみたものの、すべてが英語で書かれたテキストはちんぷんかんぷんだ。問題の意味が理解できないから、答えだってわからない。
シャープペンをクルクルと回しながら、窓の外をぼんやりと見ているうちにあっと言う間に夕飯の時間になってしまった。今日も三人で食事をするのだろうか。出来ることなら、一人で食べたい。宿題が忙しい振りをして、少し時間をずらしてしまおうか……。
そんなことを考えていると、部屋にノックの音が響いた。間を空けずに部屋の扉が開いて、夕食の時間を知らせに来たヒルダが顔を出す。
わざわざ声をかけてくれるなんて有り難い。有り難いが、今はそんなこと望んでいないのだ。……仕方がない。観念したようにシャープペンを置いて、ダイニングへと向かう。
そんな私の気を知らずに、ヒルダはにこやかに話しかけてくる。
「今日、学校どうだった?」
「良い」
リースにした返事と同じ返答をしながら席に着く。できるだけ目を合わせないようにしながら、黙々と食事を進める。
「そういえば、ナツはどうしてあの学校に通っているの?」
「あの学校はいろいろな学部があるよね。どれかに興味があるのかい?」
放っておいて欲しいのに、二人はそうしてくれない。いっそのこと、私のステイメイトもエリの家みたいに意地悪だったら良かった。それなら、いくらでも無視できるのに。
「えっと……少し時間をください」
食事の手を止めて辞書を引く。たっぷり時間をかけながら返答に相応しい言葉を調べる。その間、二人は別の会話を始める。
「今日の考古学の授業、難しかったわね」
「そうだね。レポートの書き甲斐があるよ」
どうやら二人は、自分の大学の話をしているようだ。
流暢な会話を聞きながら、ようやく返事に相応しい単語を見つけた。辞書に書いてある単語をそのまま読み上げる。
「……提携」
「あぁ、日本の大学と提携しているのね」
「なるほどね。ナツの専攻は何?」
「えっと……」
私が単語を呟くと、二人は会話を中断して頷いた。そんなことが何度か繰り返されて、いい加減嫌になってきた。必死に調べて答えても、二人の会話の速度についていけないことが心底情けない。本当に、私のことは放っておいてくれて構わない。
「ねぇ、ナツ」
それなのに、放っておいて欲しいという私の願いは届かない。また次の会話が始まりそうになったことで、何かがプツリと切れてしまった。カチャリと音を立てて、フォークとナイフを皿の上に置く。
「どうしたの? まだたくさん残っているけど」
「もういらないです」
「具合でも悪いのかい? もしそうならリースに……」
「大丈夫です。おやすみなさい」
まだ半分以上食べ物が残っている食器を片付けるのを、二人は心配そうに見ている。その視線から逃げるように私は部屋へと戻った。
自分の殻に閉じこもるかのように布団を被る。
あの二人はいい人だ。私がどんなにもたもたしても、決して馬鹿にしたりしない。でもそれも最初だけだと思う。私は変われない。だから、すぐに呆れられる日が来るのだ。鼻の奥がツンとする。わぁっと叫びたいのを奥歯を噛みしめてぐっと堪えて、ぎゅっと目をつぶった。そのまま私は無理やり眠りに落ちた。