プーの故郷から帰ってきてから、信じられないぐらい穏やかな日々が私を待っていた。学校と家を往復しながら、休日は近隣の街で過ごしたり、海沿いのパブに行ったりと、浮き沈みのない平和な毎日だ。

『ナッちゃん! ルイとプロムに行くことになった!』

 私に飛びつくように抱き着いてきたエリが、そう報告してきたのはプロムの二週間前。感極まって泣きだしたエリにつられて、私も一緒に泣いてしまった。

 嬉しいことがあれば、抱き合って喜ぶ。
 悲しいことがあれば、分け合って悲しむ。

 そんなことができるような友達が出来たことが、未だに信じられない。

『生まれて初めて自分から男の子を誘ったよ。いつも誘われてばかりだったのに』

『今までが、恵まれすぎているんだよ。エリは』

『それが普通だと思って、もっと! って欲張ったから、この国でツイてないのかな』

 真面目な顔でエリはそう呟く。

『でも、最終的に願いが叶ったんだからいいじゃん』

 ポケットからティッシュを差し出す私に向かって、エリは涙を拭きながら花が咲いたように笑った。


 エリの相手も決まって、ますますプロムに向けて気分が盛り上がっていく。どこかふわふわと地に足をつけずに私は過ごしていた。

 そんな私は、簡単に足元をすくわれてしまう。

「次の週末はプロムです。だから、今週末の宿題は出しません」

 先生の言葉に、教室の中が歓喜の声で騒がしくなった。

「本番に向けて思う存分、準備をしてちょうだい。でも、平日は通常通り宿題を出すから、それはしっかりとやるようにしてね。じゃあ、今日の授業は終わり。いい週末を」

 教室を出ようとする私の耳に、ドレスについて相談する声や、当日の予定について話す声が聞こえてくる。本当にプロムが近づいてきていることに、なんだか胸がそわそわする。

 ただ、プロムが近づくということは、私の帰国も近づいているということだ。プロムが終わって数日後、私は日本に帰る。
 胸の中にぽこんと浮いた寂しさのようなものは見ない振りだ。私の特技だったはず。気が付かない振り、見ない振り。そうしていれば、そのうちそれはなくなって、最初からなかったことになる。

『ナッちゃん、ごめん。今日は、ルイと一緒に町に行く予定があって一緒に帰れないの』

 申し訳なさそうに両手を合わせたエリが、私に向かって謝った。

『全然気にしないでいいよ。楽しんできて』

 プロムが近づくにつれて、周りはバタバタと忙しそうだ。カイも一人で町に行っては何やら準備をしている。私のドレスの準備をしているリースも、大詰めを迎えて大変そうだ。
 私だけぼんやりと過ごしていた。

 今日も少しだけ、図書館に寄って帰ろう。

 ハートフィールドで買った絵本には、素敵な言葉がたくさん書いてあった。もっと見たくなった私が試しに図書館に行ってみると、買えなかった本が全部揃っていた。それを見つけてから、暇を見つけては読みに行くのが私の小さな楽しみになっていた。

 校舎とは別の建物の図書館に一人で向かう。
 静かで人も多くないこの場所は、私がこの国でほっとできる場所のうちのひとつだ。

 小さな森に囲まれたように建つ図書館の、ツタが這った扉に手をかけた。

「ねぇ、あなた」

 声に振り返ると、エルザが立っていた。初めて会った時と同じ、ブルーグレーの強い瞳が私を射抜く。

『ナッちゃん、気を付けてね』

 少し前に心配そうにエリが言っていたのが蘇る。

「カイと、プロムに行くのよね? あなた」

「そう、だけど」

 おずおずと私の耳に、小さく舌打ちが聞こえた気がする。気のせいだと思いたい。

「どうしてあなたなの? 私の方が何もかもあなたより優れているわ」

 彼女の言う通り、私はエルザよりも優れているところがないかもしれない。見た目も、運動神経も、勉強もずっと劣っているのかもしれない。だけど、そんな私を誘ってくれたのは、誰でもないカイ本人だ。「ナツがいいんだ」と言って、笑った顔を私は一生忘れないと思う。

「……カイが、私に決めたの。私も、彼と行きたい」

 からからになった喉から、ひりだすように出した私の声に、エルザの目に浮かんでいた苛立ちが強くなるのがわかった。

 エルザがゆっくりと近づいてくる。体が動かない。蛇に睨まれた蛙の気持ちがよくわかる。できることなら一生知りたくなかった。

「どうしてそんなに構うの。何が気に入らないの」

「全部よ」

 そう言って、エルザが目の前に立った。

「……」

「私が選ばれるべきだったのにそうならなかったことも、あなたが選ばれて幸せそうにしてることも。全部気に入らないわ。そのネックレス、カイからもらったんでしょ」

 鎖骨の中心で揺れているネックレスを、白い綺麗な指がつつく。赤い石がぐっと押さえつけられて、ちくりと痛んだ。

「見せびらかすようにつけてるのも、ムカつくわ」

 そう言ってエルザは私のネックレスを引きちぎった。その辺のごみを捨てるかのように投げ捨てられたネックレスは、傍の森に消えていく。

「あなたの存在が不快なの」

 最後に強く私を睨んでそう言うと、エルザは校舎の方に歩いて行った。

 エルザのことを苦手だと思っていたのは事実だが、私には彼女を憎む理由がなかった。そう思えるほど、彼女のことを知らない。 今、その理由は出来たけれど……。
 彼女は、私にここまでの悪意を向けることができるほど、私のことを知っているのだろうか。

 キンと冷えた頭で、ポツリと思う。

「ネックレス、探さなくちゃ」

 うわごとのように呟いて、捨てられたネックレスを探す。小枝と枯葉の絨毯に膝をついてかき分ける。

 存在が不快。

 エルザは最後にそう言っていた。
 今まで、両親に何度もそれを言われてきた。

 両親が私を殴るのも、認めずに否定するのも、不快だからなのだろう。

 自由に生きてもいいとか、自分のやりたいようにとか、やっぱり私はしてはいけないのかもしれない。自分もこの国で出会った人たちと同じように生きてみようなんて、調子に乗るからこんなことになる。

 どんなに探しても、ネックレスは出てこない。


「何しているの? そろそろ門を閉めるから帰りなさい」

 図書館から出て来た司書が、薄暗い森の中でごそごそと動く私に声をかける。

「やだ、手が真っ黒よ。探し物? 大丈夫? よかったらこれ、使って」

 ゆらりと立ち上がった私に、ハンドバッグからウエットティッシュを出して差し出す。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 手で膝を叩きながら、森から出る。汚れた手で叩いたせいで、洋服は更に汚れた。
 置いてあったリュックを背負って、家に向かって帰る。

 私の中に黒い塊が鎮座している。

 それは胃の奥からせり上がる様に込み上げて吐き気になった。
 少し前までイメージできていた、広い水槽を自由気ままに泳ぎ回る自分は粉々に砕け散った。もうどんな風に笑っていたのか思い出せない。

 思う通りに生きるべきじゃない。
 自由に、好きなようにだなんてとんでもない。
 脇役が自分の人生を見つけてどうするというのだ。

 出来損ないで無能な人間に、そんな権利はどこにもない。


 あぁ、そうか。『私なんか』死んだように生きていけばいいんだ。


 その結論に辿り着いた時、自宅の玄関に辿り着いた。

 静かに玄関をあけた私を、リースが迎え入れる。

「おかえり……やだ、あなたどうしたの?」

 泥まみれになった私を見て、リースは目を丸くした。

「転んだの」

「どこで転んだの? 怪我は?」

 口角を無理やりギギギ、と上げて笑う。

「大丈夫。どこも怪我してない。洗濯物を増やしてごめんなさい」

「そんなのいいのよ。気にしないで。部屋で着替えてらっしゃい」

 ロボットのように部屋に向かって着替える。汚れた洋服をカゴにいれて、窓際の勉強机に座った。マネキンのように座ったまま、心を平らにしてただ時間が過ぎるのを待つ。

 今日に限って宿題がない。あれば少しは気が紛れるのに。

「おい、夕飯出来てるよ」

 扉の外から聞こえるカイの声に、声のトーンを明るく保って返事をした。

 どんよりとした部屋から、明るいダイニングに移動して夕食を食べる。

 皿の上のフライドポテトにフォークを突き刺して、口に運ぶ。砂を食べているようだ。
 美味しくない。
 無味無臭のコンソメスープで流し込む。美味しそうに見えるチキンはまるで粘土だ。

「なんかあった?」

「え? 何もないよ」

 様子を伺うようなカイの目を見ながらギギギ、とまた口角をあげて笑う。

「なんだか顔色が良くない気がするけど、具合でも悪いのかい?」

「そんなことないよ。元気」

 笑顔を張り付けたまま、マークの方を向いた。

「無理しないで、具合が悪いならリースに言えよ」

「うん。わかってる」

 何度も逆流しそうになる胃の中の物を必死で抑えながら、食事を終わらせて部屋に戻る。

 それからまた、椅子に座って外を眺めていた。

 生き生きとしていた自分は死んだ。
 オレンジ色に染まる町を見ながら、そんなことを考えた。
 今までも、いろいろな感情を殺しながら生きて来たのだ。その頃のように戻るだけ。簡単だ。できていたのだから、今更できないわけがない。

 燃えるような夕焼けの後、重くて暗い夜が訪れる。

 手が自然と、何もない首元を触った。

 カイが、私のために選んでくれたネックレスが、なくなってしまった。
 石の色は赤だった。私が赤が好きだと言ったからだ。彼はそれを思い出しながら選んでくれたのだろう。
 あれは私にとって、世界にひとつしかないネックレスだった。


「やっぱり、探さなきゃ」


 ぽつりと呟いて、部屋を出る。

「こんな時間に一人でどこに行くの?」

 リビングの前を通り過ぎようとした時、リースに声をかけられた。手に持っているのは、私のために用意されたドレス。桜吹雪を作るために、リースは毎日こつこつとストーンを縫い付けている。

「学校に忘れ物しちゃって。宿題をするのにどうしても必要なの」

「そう。カイかマークを連れて行ったら?」

「近いし、大丈夫。取ってくるだけだし」

「気を付けるのよ」

「うん。行ってくる」

 外に出て後悔した。夜は冷えるのを忘れていた。
 昼間が暑いせいで、すっかり忘れてしまう。死んだように生きようと思っても、寒いものだな、と当たり前のことを思う。乾いた笑いを口から零しながら、腰に巻いてあったシャツを羽織って、学校を目指す。



「うーん。やっぱり開いてないや」

 閉まっている門をガタガタと揺らす。夜の学校の門は、硬く閉ざされていた。
 塀に沿うように歩いてみても、中に入れそうなところはどこにもない。

「どうにかして、入れないかなぁ」

 再び門に戻って揺らす私の背中に、声をかける人がいた。

「不良少女さん! 夜の学校へは入れませんよ」

 揺らしていた門を止めるように、カイが手を添える。

「……ついてきたの?」

「うん。リースが心配そうにしてたから。それで、どうしたの?」

「……」

「ないはずの宿題に必要な何かを、取りに来たんだっけ?」

 首を傾げながら、カイが私を覗き込む。一瞬で嘘がバレてしまった。リースがよりによってカイに言うなんて思っていなかった。マークだったら誤魔化せたのに。
 下唇をぎゅっと噛んで、俯く。

「中に入りたいの? どうして?」

 カイは優しく私に向かって問いかける。いつからだろう。彼がこんな風に私に話しかけてくれるようになったのは。

「なんでもない。平気」

「ううん。平気じゃない。明らかに様子が変だよ。無理やり笑うようなことしてさ」

 カイが自分の口角を指でぐぐっと上げる。

「バレないと思ってた? 言っておくけど、マークにもリースにもバレてるよ。今までどれだけ、みんながナツのこと見てきたと思ってるんだよ」

 パッと手を離して、カイがもう一度私を覗き込む。

「何があったの?」

 何か言おうと息を吸い込む。ひゅぅと音をたてるだけで詰まった音が出てこない。

「……あれ? ネックレス、どうした?」

 もらってから肌身離さずつけていたネックレスがないことに、カイが気が付いた。

「……いろいろあって、なくなっちゃった」

「なくなった? チェーンが切れて落としたとか?」

「……」

「……ここ、傷がある」

 いつも石があった場所に、小さい傷ができている。エルザに石を押し付けられたときか、ネックレスを千切られたときかわからないが、そのどっちかだろう。

「何があったか言って」

 ゆっくりとカイの声が低くなる。

「話すまで、俺は納得しない」

 おどおどとする私の視線と、カイの強い目がぶつかった。張り詰めていく空気に、呼吸がしにくい。どんどん酸素が足りなくなっていく。
 空気を求めて喘ぐように声を出した。

「エルザ、に……取られて……」

 カイが溜め息をつきながら、両手で顔を覆った。しばらくそうしたまま動かない。カイの体から、チリチリとした雰囲気が漂う。それを落ち着かせるように大きく息を吸った後、カイは自分の顔を覆っていた手をはずした。

「……だいたいわかった」

「大丈夫なの。本当に……」

「ナツ、大丈夫だなんて言わなくていい」

 顔を上げることなくぶつぶつと喋る私の前に、カイがしゃがむ。

「いいんだよ。平気な振りをしなくて」

「でも」

「でもじゃない。笑いたくないときに笑わなくていい。つらいときは、つらいって言っていいんだ」

 それは建前だ。
 愛されて、自由に生きてきたカイには、わからないかもしれないけれど。

 ねっとりとしたどす黒い物が、私の中で首をもたげた。

 息を吸って、声を出す。

「……自由に、自分がやりたいように生きていいって言われた」

 突然、関係ない話をし始めた私を、カイは遮るようなことをしなかった。その先を促すように頷く。

「ヒルダとか、カイとか、いろんな人に、ナツはナツって言われた。私の人生は、私が決めるんだって。最初はよくわからなかったけれど、最近は少しわかったような気がしてた」

「うん」

「初めてだった。こんな風に毎日を過ごすのが。楽しかったし、幸せだった。私のやりたいように生きていいんだって生まれて初めて思った」

「そうだよ。ナツはナツのやりたいように生きていいんだ」

「ううん。駄目。私が幸せそうに生きると、周りの人が不快に思うみたい。何もできない無能で、なんの取り柄もない。すべてにおいて劣っている私が不快なんだって」

 そこまで言って涙が出た。今日、エルザとのことがあってから、ずっと苦しかった。
 簡単に感情を殺して淡々と生きていたはずなのに、一度表現することを知ってしまった私にとって、それは地獄のようだった。

「私は、どうして生まれてしまったんだろう。私なんか、生まれてこなければよかったのに」

 両親に殴られながら思っていた。
 もしかしたら私は、生まれてくるべきじゃなかったのではないか。もしそうじゃないなら、生まれる場所を間違えたのではないか。間違っていないのなら、どうして私はこんなに存在を認めてもらえないのだろう。
 私の気持ちは。意見は。意思は。いったいなんのためにあるというんだ。


「そんなこと言ったら駄目だ。言っただろ。理不尽に傷つけられたら言えって。俺が一緒に怒ってやるって。一人じゃないんだよ、ナツは」

 ぼたぼたと涙を流す私のことを、カイは折れそうなほど強く抱きしめる。

「俺、気づいてたよ。最近、ナツが『私なんか』って言わなくなったこと。嬉しかったんだ。生まれてこなきゃよかったなんて、そんな悲しいことナツの口から聞きたくない」

 カイの声が震えている。声だけじゃない、私を抱きしめている腕も震えている。

「俺は、しょうもないことで笑い転げるお前が愛しいよ。幸せでいてほしいと、心の底から思ってる。お願いだから、そんなこと言わないで。ナツと出会えて良かったって思う人間がいるんだ」

 抱きしめていた腕を離して、カイが私の顔を見る。欠伸した後のように潤んだ目が、私を見ている。まるで自分まで否定されたかのように、悲しい目をしていた。

「そう思うのは、俺だけじゃない」

 カイが止まらない私の涙を拭う。

「ナツがどんな暮らしをしてきたのか、俺は知らない。悲しいことばかりだったのかもしれない。残念だけど、それは何をしても変えられない」

 パブにいたおじいさんも、同じようなことを言っていた。泣き続けたせいで、酸素が足りなくなっている頭でぼんやりと思う。

「でも、これからは絶対に違う。ナツは変えられる。いくらでも好きなように、自分の未来を作っていける。俺は断言する。『生まれてきてよかった』って、ナツが思う毎日がこれからずっと続くって」

 そう言って、大きく息を吐いた。私もつられて一緒に息を吐く。

「つらかったね」

 ポツリとそう言って、何もかも理解するような目でカイは優しく笑った。

 本当にそうなのだろうか。
 これから先、生きててよかったって思える日が続くのだろうか。

 でも、カイは私に嘘をついたことがない。
 もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。

 止まりかけた涙が、みるみるうちに溜まって再び溢れ出す。
 声を上げて泣き出した私を、今度は優しく包むように抱きしめた。

「大丈夫。よく頑張った。しばらくこうしててあげる」

 ヒルダを見送った帰り道、泣きながら歩いていた私を抱きしめた時と同じことを言って、カイは背中をポンポンと叩いた。

 この国に来てから、私は毎日のように抱きしめられていた。
 私は私のままでいいとたくさんの人に言われ続けた。どんなに私が自分のことを否定しようとしても、周りはそれを絶対に許さなかった。
 自分の意見を言ってもいい。嫌なことは嫌だと言えばいい。
 私がそうしてみようと思うまで、周りは私を認め続けた。

 私は多分、知らず知らずのうちにこの国で心のリハビリをしていたのだ。



 私の涙が止まったころ、カイがそっと腕を離した。それから、右手で私の左手を握る。

「はぐれたら困るだろ」

 そう言って、家に向かって私の手を引いて歩きだす。サッカーを見に行った時、キングスクロス駅で同じようにカイは私の手を引いた。

「この町なら、はぐれないよ」

「ううん。すぐにナツは、どっか行っちゃうから」

 カイの大きな背中が、私を向かい風から守るように歩く。本当にこの国で出会う人たちは、私のことを放っておかない。
 そのまま手をつないで家まで戻ると、カイは私を部屋まで送り届けた。

「おやすみ。ゆっくり休めよ」

「迷惑かけてごめんなさい」

「そんなこと、気にしないでいい」

 カイは私の頭にポンと手を置いた後、部屋の扉を閉めた。

 荒れ狂っていた胸の中が、今はもう凪いでいる。泣きすぎたせいで痛む頭を気にしながら、ベッドの中に体を埋めて目を閉じる。



 その夜、私は夢を見た。

 それは今まで見た中で、一番深く、暗く、重い夢だった。


 真っ暗な部屋の真ん中に、私は一人ぽつんと立っていた。
 辺りをぐるりと見回しても、ひたすら深い闇が広がっている。
 光も音もなにもない。ここにあるのは無だ。

 少し離れた場所にパッとスポットライトがついた。

『見て、お母さん! 満点を取ったの。すごい? 頑張ったんだ』

 小さな私がテストの答案を持って、母親に見せている。

 母親は小さな私の手からテストを奪うように取って、ゴミ箱に捨てる。

『出来て当たり前のことが出来ただけで、何がすごいのよ』

 吐き捨てるように言った言葉が暗い空間に響いて、スポットライトが消えた。
 別の場所にライトがつく。

 小さな私が料理をする母親の後ろで、テーブルに皿を並べている。全部綺麗に並べた後、母親のところへ近づいた。

『他に何か、手伝うことある?』

『いらない。あなたは全然役に立たないから』

 規則正しく包丁を動かしていた手を止めて、冷たく言い放つ。

『お前は本当に、ダメな奴だなぁ。俺たちの子だとは、思えないよ』

 テーブルに座っていた父親が、そう言ってガハハと笑った。
 すぐにまた次のライトがつく。

 腕がちぎれたぬいぐるみの傍で、小さな私が泣いている。傍には父親がぬいぐるみの腕を持って立っていた。

『もう泣くな。同じものはいくらでもあるだろう』

『ないよ。この子は特別なんだよ!』

『うるさい! いつまでもしつこいぞ!』

 大きく振り上げられた腕が、小さな私を殴る。軽い体はふわりと飛んで、地面にどさりと落ちた。

『まだ俺のことを責めるのか。だからお前は誰からも嫌われるんだ』



 暗い部屋に次々にスポットライトがついては消える。すべての部屋で、小さな私が何かやろうとしては怒られている。

 無能。出来損ない。嫌われ者。

 言われるたびに、小さな私は悲鳴をあげるように泣いた。

 目の前で壊れたレコーダーのように何度も繰り返されるのを、ただじっと見ていた。
 長い時間そうしていた。小さな私がもう何度目になるかわからないほど殴られた時、ぽつりと呟いた。

『もうやめて』

 その瞬間、すべてのスポットライトが一斉につく。ライトの下で、父親と母親が光のない目でじっと私を見ている。その目が私の胸をひねり上げて、呼吸を出来なくしている。

『私は、頑張ったよねぇ』

 突然、目の前に小さな私が現れた。たんこぶだらけの頭とあざまみれの顔で、目に涙を溜めながら私の洋服の裾を掴んだ。

『……うん。頑張った』

 目線を合わせるようにしゃがんで、小さな私と見つめ合う。

『私には、出来ることが何もないのかなぁ』

『ううん。そんなことない』

『そうかなぁ』

 顔を上げた小さな私の頭の上から、大量の紙が落ちてくる。そのすべてに『死ね』と書かれている。

『……私は、いなくなった方がいいのかなぁ』

『違う。そんな風に言わないで。私のことを好きでいてくれる人もいるの』

 いつまでも落ちてくる紙から、小さな私を守るように抱きしめる。このボロボロになった小さな私は、今まで自分自身にまで否定され続けて来た私だ。

『いや、無能だ』

『なにもできない出来損ないだ』

『取り柄もない』

 部屋の中に何十人何百人といる両親が私を指さして口々に言う。ぐわんぐわんと響く声に、耳を塞ぎたくなる。でも、駄目だ。
 初めて悪夢を見たときには言えなかった。今度こそ言ってやる。

 私の人生は私のもの。絶対に誰にも操作させない。

 私には取り柄がない。美人でもない。だからなんだ。それが私だ。
 そんな私でも好きだと言ってくれる人が、私にはたくさんいる。その人たちもまとめて一緒に否定されてたまるか。
 私は頑張ったのだ。一生懸命やったのだ。それを一番わかっているのは自分自身だ。必死にやった結果出来ないことがあっても、私はそれをもう否定したりしない。
 泣いてもいい、怒ってもいい。嫌いなものや怖いものがあってもいいのだ。

『私は何もできない自分を、もう否定したりしない! 私はもう絶対に自分の気持ちを殺したりしない!』

 小さな私を抱きしめながら、叫ぶように言う。
 その瞬間、真っ暗だった空間が粉々に砕け散った。

 ひゅう、と体が小さな穴に吸い込まれるような感覚がする。
 私の腕から、小さな私がするりと抜けていく。

『待って!』

 一緒に行こうと手を伸ばす私に、小さな私が笑った。傷だらけだった顔は綺麗になって小さく手を振っている。
 体を吸い込む力に負けないように必死に手を伸ばす。ぎりぎりで手を掴んで抱き寄せた。そのまま自分の腕に抱く。

『小さい頃の私も、つらかった思い出も、今の私の一部なの』

 小さな私はすっと私の中に溶けるように消えてなくなった。ほっと安心した瞬間、私はものすごい勢いで穴の中に吸い込まれていった。





 目を開けると、部屋の天井が見えた。
 胸の中がすっきりとして、起きたばかりなのに頭の中が冴えている。

 さようなら。

 ぽつりとそんな言葉が頭の中に浮かんだ。
 誰に向かってだろう。小さい頃の私なのか、両親なのか、暗い過去なのか……わからない。全部かもしれない。


 体を起こして顔を洗うためにシンクに向かう。冷たい水で顔を洗って、タオルで拭いた後、鏡を見た。

「うわ、最悪……」

 鏡の中に、目がパンパンに腫れた私がいた。



「プロムが今日じゃなくて良かったわ」

 ダイニングで目に氷が入った袋をあてている私に、リースがそう言って笑った。

「べつに、それがナツならいいけどね」

 前の席で紅茶を飲みながら、カイが雑誌を読んでいる。

「良くないよ。私、あのドレスを綺麗に着たい」

 あてていた氷水を机の上に置いて、カイを見る。

「そういえば、ドレスの色は何色?」

「黒」

「黒でも、ただの黒じゃないわよ。素敵なんだから」

 鼻息を荒くしたリースはそう言って、私の前に紅茶を置いた。

「ふぅん。……少し出かけてくる」

「いってらっしゃい」

 雑誌を閉じたカイが席を立って、ダイニングを出ていく。

「ねぇ、リース。プロムの日、男の人は何を着るの?」

「そうね。タキシードじゃないかしら」

「タキシード……」

 実物のタキシードを見たことがない。漫画や映画で見たもので、なんとなくイメージを描いていく。
 頭の中で、それを着たカイを想像した。
 身長の高い彼が正装をしたら、きっとかっこいい。

「……私も楽しみだな。プロム」

 紅茶を飲みながらポツリと呟いた私を、リースが頷きながら見ていた。



 宿題のない週末が、プロムの準備をしながら過ぎていく。靴を選んだり、ヘアサロンの予約をしたりと慌ただしい。リースに教えてもらいながら必要な物を揃えて休日が終わっていく。

「おやすみなさい」

 夕食を済ませてから部屋に戻って、日程表を取り出した。帰国の文字が視界に入る。ほんのワンシーズンしかいなかったのに、私物が増えた部屋を見渡して小さく息を吐いた。
 また狭い水槽に帰るのかという暗い気持ちは沸いてこない。でも、寂しい。
 私という存在が、この部屋からなくなってしまう。

 眠る準備を整えてベッドに入る。
 胸に沸いた寂しさを無視することなく、抱きしめるようにして目を閉じた。



 プロムを週末に控えた学校は、そわそわする生徒たちでいっぱいだ。私も一緒にそわそわしながらプロム当日を楽しみにしていた。

『私のドレスは薄ピンクのやつにしたんだ。ナッちゃんは?』

『私は黒。リースが用意してくれてる』

『黒か。ナッちゃん、似合いそう!』

 休日にルイと一緒にドレス選びに行ったエリも、待ちきれない様子で毎日を過ごしている。

 そんな少し落ち着かない平日を過ごして、プロムを翌日に控えた日。学校を出た私は、図書館に向かっていた。ネックレスを諦めていなかった私は、ずっと探し続けていた。

「よし。今日こそ見つける」

 腕まくりをして森の中に入る。それから、ネックレスが消えていった場所の枯葉を、少しずつかき分けていく。

「ねぇ、あなた」

 声に顔をあげると、森の外にエルザが立っているのが見えた。

「何? 今、忙しい」

「何してるの? まさかネックレスを探しているの?」

「だったら何? いいじゃん。放っといてよ」

 すぐにまたネックレスを探し始める。すると、ガサガサと音をたてて、エルザが森の中に入ってきた。そのまま私の傍に膝をついて、枯葉をかき分け始める。

「……悪かったわ」

 私の方を見ずに、エルザがぽつりと呟いた。

「……許せないかもしれない。でも、わかった」

 謝るエルザに向かって、思ったことをそのまま言う。長いまつ毛を揺らしながらエルザは何度か瞬きをした後、また無言でかき分け始めた。早くどこか行って欲しいと思うのに、エルザは傍から離れない。隣でガサゴソと枯葉をまさぐっている。
 エルザの白い綺麗な手が瞬く間に泥だらけになっていく。

「……汚れるよ」

「本当に悪かったと思っているのよ」

 私の言っていることが聞こえないかのように、エルザがまた呟いた。

「今でも思うわ。どうしてあなたなんだろうって。でも、カイがあなたを見るときの目って、ものすごく優しいのよ。私のことはあんな風に見ないわ」

 知っている。ずっとその目に見守られながら、私はここで生活してきた。
 何か話したいことがありそうなエルザの声を聞きながら、手は休めずに動かし続ける。

「エルザは、カイのことが好きだったんでしょ」

「……間違っていないけれど、厳密にいうと違うわね」

 エルザと初めて会った時から、私は彼女がカイに惚れ込んでいるのだと思っていた。だから、私は憎まれたのではないのだろうか。どうやら違うらしい。

「私、長く付き合ってた、幼馴染の恋人がいたの」

 過去形でエルザがそう言った。

「別れたのは三か月ぐらい前よ。振られたの。理由は、私が忙しくなって会えなくなったからって言っていたけれど、本当のところはわからないわ」

 思わず手を止めて顔を上げた私には視線を向けずに、エルザはぽつぽつと独り言のように話し続ける。

「……カイは、その幼馴染に似てるの。顔は全然違うけれど。でも雰囲気がそっくりなのよ。裏表なくて、嘘をつかなそうなところとか、本当にそっくり」

 カイは良くも悪くも正直だ。彼と会ったばかりのころ、その無遠慮な物言いが苦手だった。避けていたことを思い出して、少し頬が緩む。

「だから、彼と付き合うことが出来たら、幼馴染に振られた私が救われる気がしたのよ。そんなことあるわけないわよね。わかってる。俺は幼馴染じゃないってカイにもはっきり言われたわ……あっ」

 小さく声を上げて、ずっと動かしていたエルザの手が止まる。
 ゆっくり持ち上げられた手の中に、赤い石がついたネックレスがあった。

「あった……」

 消えそうな声で言う私に、エルザはそっとネックレスを渡した。泥だらけの手でそれを受け取って、ぎゅうっと胸のあたりで抱きしめる。自分の宝物が返ってきたことに、胸が熱くなる。何度も「よかった」と呟く私を見ながら、エルザが立ち上がる。

「あなたがいてもいなくても、私は彼に選ばれなかったのよ。だって私が見ているのはカイじゃなくて、幼馴染なんだもの。私があなたにしてきたことは、完全に八つ当たりよ」

 汚れてしまった洋服をはたきながら、エルザは森を出ていく。
 八つ当たりで、私はあんなに酷いことをされたのか。込み上げてきた笑いを必死に抑えようとした。それが出来ずに突然笑い出した私を、エルザは驚いた顔で振り返った。

「ごめん。ただの八つ当たりで、あんなことされたのが初めてだったから」

「……だから、悪かったって言ってるじゃない」

 私も立ち上がって森を出る。それから、いじけたように呟いたエルザの前に立って、右手を差し出した。

「もう大丈夫。気にしてない。エルザが幼馴染と、ちゃんと話ができることを祈ってる」

「……あなた、思っていたよりいい奴ね」

 真っ黒な私の手を、真っ黒な手で握り返しながらエルザは笑った。
 私はエルザにされたことを、完全には許せていないのかもしれない。でも、これでいい。気にしないことはできるのだ。すべて分かり合うことが出来なくても、私は彼女が幸せに生きることを望む。



 返ってきたネックレスと一緒に、家に帰る。
 私がこの町に来た時と同じ風景が目の前に広がっている。
 この景色がくすんで見えたこともあった。今、見えているのはオレンジ色に染まり始めた空と、輝く海。赤い看板に、民家の家に咲く色とりどりの花だ。
 来たばかりのころと同じように暑い。でも、吹く風は季節が変わる匂いをのせている。時間が過ぎていることを、五感すべてを使って感じながら家の玄関を開けた。