いい天気の坂道を、跳ねるように歩いて学校に向かう。

 今朝、さっそくリースにプロムの相手が決まったことを伝えた。

「まぁ、素敵! 相手は誰かしら?」

「……カイ」

「あら、あの子なの? へぇ……そう。当日、あなたがあまりにも綺麗で驚く顔を見るのが楽しみだわ。腕が鳴るわね」

 もじもじとする私に向かってウインクしながらそう言って、リースはリビングへと消えて行った。
 昨日の夜からふわふわと夢心地で、どこか現実じゃないような気がしている。でも、夢じゃない。私はカイとプロムに行くことを決めたのだ。それに、デートの予定も。
 普段と何も変わらない坂道を歩きながら、頭の中で確認するように思う。



 エリと仲直りをして、プロムの問題を片付けた私の足取りは軽い。カイは相変わらず眠たそうだ。一晩経つと昨日の夜のような雰囲気もなくなって、私とカイのやり取りもいつも通りだ。

「ねぇ、カイはどうして色々な国に留学しているの?」

 ずっと気になっていたことを聞いてみる。目を擦りながら、だるそうにカイが返事をした。

「俺の父親が貿易商なんだ。だから、世界を見て来いって小さいころから言われてる。多分、将来その仕事を手伝うことになるんだと思う。まだわかんないけど」

「お父さんの仕事を手伝うためってこと?」

「わからない。そうなるかもしれないし、ならないかも」

 そう言って、カイは大きな欠伸をした。
 私と同い年なはずなのに、カイは私よりもずっと大人びている。将来のこともふんわりと彼は考えている。私はまだ、自分がどんな仕事につくのかまったく想像ができない。気難しい自分と向き合うために心理学部へと進んだが、それが正解だったのかすらわからない。

「ナッちゃん!」

 珍しく校門でエリと会った。今日は少し早く登校してきたようだ。少し遠くから手を振るエリに向かって、私も手を振り返す。

「エリは朝から、元気だなぁ」

「カイも学校についたら、校庭に行くでしょ。充分元気だよ」

「俺のは、眠気覚ましだから、エリの元気さと少し違う」

 そう言ってまた、カイは眠たそうに眼を擦った。


 いつもより少しだけ浮ついている私の学校が始まる。
 今日はみんなで、好きな映画について語り合う授業だった。映画をたくさん見てきた甲斐あって、今までで一番と言っていいぐらい発言することができた。クラスメイト達が口にする映画のほとんどを知っていたが、唯一わからなかったフランス映画のタイトルをメモして、ノートを閉じる。

「今週の宿題はテキストではなく、好きな映画について感想をかくことよ。私が映画を見たくなるような素敵な感想を書いてきてね。午後も引き続き話す授業をするわ。それじゃあ、いいランチを」

 先生が教室を出て行くと、雰囲気がふわりと緩まった。ざわざわしだす教室で、エリと目が合う。

『一緒に食べよう』

『うん。買いに行こう』

 仲直りをしてから初めてのランチだ。当たり前の日常が、無事に戻ってきたことが嬉しい。

 学校の近くで昼食を買って、中庭に座る。

『プロム、どうしよう……。なんだか昨日から食欲がないんだ』

 そう言うエリの手には、いつも通り大きなサンドイッチが握られている。

『ナッちゃんは、もう決まったもんね』

 確認するように言うエリに向かって、頷き返す。

『あぁ……いいなぁ……』

 何か手伝いたい気持ちはあるが、これはエリにしか頑張れないことだと思う。私には影ながら応援することしか出来ない。
 普通の量のケバブを食べている私に向かって、思い出したようにエリが声を上げた。

『ねぇ、そういえばナッちゃん。エルザのこと覚えてる?』

 忘れるわけがない。この国に来て唯一まっすぐな敵意を向けられた相手だ。エルザのブルーグレーの瞳も、少し強い香水の香りも全部覚えている。忘れたくても忘れられない。

『覚えてるよ』

 返事をした私に向かって、エリが体を近づける。それから、内緒話をするように声を潜めた。

『エルザはカイにプロムに誘ってもらえなかったこと、かなり気にしてるみたいなの。何もないと思うけれど、ナッちゃん気を付けてね』

 そんなこと言われても、何を気を付ければいいのだろう。曖昧に頷く私をエリが心配そうに見つめた。





「どこまで行くの? そろそろ教えてくれてもいいでしょう?」

 週末、私はカイと二人で電車に揺られていた。学校に行くよりも早い時間に家を出発してから、もう二時間は過ぎた。クーラーのない蒸し暑い車内で、窓の外に流れる景色を見ているカイに向かって我慢できなくなったように声をかける。早起きしたせいで、カイはいつにもまして眠たそうだ。
 窓から入る風にカイの明るい髪が揺れている。涼しげな目元と、スッとした鼻筋が綺麗で思わず見惚れた。
 私は顔に凹凸がないから、羨ましい。

「知りたい?」

 頬杖をつきながら視線だけちらりと動かしたカイに向かって頷く。

「俺たちが向かってるのは、ハートフィールド」

「……ハートフィールド」

 聞いたことない地名をただ繰り替えした。カイがきょとんとした顔で、私の顔を見つめる。その地名を言えば何かしらの反応があると思っていたような態度だ。

「ハートフィールドだよ。知らない?」

「知らない」

「世界一有名なくま。プーさんの生まれ故郷だ」

「くまのプーさん!」

 ようやく驚いた私を見て、カイがほっとしたように息を吐いた。

「あと一時間と少しかな。ロンドンで乗り換えてから最後にバスに乗って目的地だ」

「プーさんの故郷があるんだね!」

「うん。イギリスの作家が作った物語だからね」

 知らなかった。世界には、私が知らないことがたくさんある。
 なんの変哲もない街並みですら絵本の中のようで素敵なのに、プーの故郷だなんてもっと素敵に違いない。まだ見ぬ景色に思いを馳せながら、窓の外を眺めた。




 行先を知って上機嫌になった私と眠たそうなカイが目的の場所に着いたのは、それから一時間半ほどたった頃だった。この国のバスは全部赤いのだと思っていたが、目的地へと連れて行ってくれるバスは青い二階建てのバスだった。もしかしたら、黄色もあるのかもしれないな、と頭の中で思いながら大きなバスに乗り込む。



「わぁ……」

 青いバスに乗ってついに目的地であるハートフィールドに立った私は、思わず声を上げる。

 ハートフィールドは私が住む海沿いの小さな町よりも小さい町だった。
 白いペンキが塗られた木の家が並んでいる。カントリー調の雰囲気が漂う建物の庭には、薔薇の花壇がたくさんあった。メインストリートだとカイに教えてもらった通りは、せいぜい三百メートルあるかないか程度。その通りに並ぶ鉄製の街灯は、プーさんとその仲間たちのモチーフがついている。

「可愛い……」

 辺りを見渡しながらカイと並んで歩く。
 ピグレットのイラストが描かれた看板が出ているカフェから、焼き立てのスコーンの香りが漂っている。ぐぅ、とお腹が鳴った。

「お腹空いた?」

「少し。でも、何か食べるのはあとでいい。それよりも、あそこに行きたい」

 私が指で示した先に赤い屋根の建物がある。ひっきりなしに人が出入りするその建物には、『プー・コーナー』と書かれた看板が掲げられていた。
 半円の看板に、クリストファーロビンとプーが背中合わせで座っている絵が描かれている。

「あそこはグッズ屋だね。行こう」

「うん!」

 綺麗に手入れされた庭を抜けて店内に入ると、小さな建物にプーのグッズが所狭しと並べられていた。

「ここは作者ミルンの息子が、本当にお菓子を買いに来ていた場所なんだ。改装してグッズ屋になったんだよ」

 カイの声を聞きながら思いを馳せた。
 つまり、本物のクリストファーロビンが通っていた場所ということだ。きっと、彼の腕の中には、はちみつ色をしたくまのぬいぐるみが抱かれていたに違いない。なんて素敵なんだろう。

 棚に並べられた原作の本を取って眺める。全部持って帰りたくなってしまうが、金銭的にも現実的にもそれは不可能だ。じっくりと気が済むまで堪能してから、一冊の本を選んだ。
 川に橋のように倒れている木の上に座るプーが、飛んでいるトンボをぼんやりと眺めている表紙が気に入った。何を考えながら、プーはぼんやりと座っているのだろう。プーのことだから、『なにもしない』をしているのかもしれない。

「決まった?」

「うん。これにする」

 長いこと待たされていたのに、カイはなんだか嬉しそうだ。急かされずに選ぶことができるってなんて気分がいいのだろう。

『さっさとしなさい』

 ふいに、頭の中で母親の声が響いた気がして、慌てて頭を振った。
 カイは絶対にそんなこと言ったりしない。カイだけじゃない。この国で出会った人たちは、私にそんなこと言わない。
 落ち着かせるように小さく深呼吸をしてレジに向かう。



「この辺に、おすすめの場所はありますか?」

 会計をしている私の隣から、カイが店員に向かって声をかける。

「これを持っていくといいわ」

 レジカウンターの下から一枚の紙を取り出して店員が手渡す。カイが受け取った紙を、私も一緒に覗き込んだ。地図のようだ。
 薄茶色の厚紙でできた地図には、この店の看板と同じ絵柄が書かれている。一番上に『アッシュダウンフォレスト』の文字が見えた。

「なんの地図?」

 地図から顔をあげた私に向かって、店員がにっこりと笑う。

「アッシュダウンフォレスト。別名、百エーカーの森の地図よ」

 毛が逆立つように体が興奮するのがわかった。その感覚に思わず身震いをしている私の頭にカイがポンと手を置いて笑う。

「行こう。スコーンを買って、ピクニックだ」





 店員からもらった地図を見ながら歩き回ること三時間。
 プーとその仲間たちが北極点だと決めた場所に私たちは座っていた。

 地図にそう書かれたこの場所にあるのは野原だけ。探検に出たプーたちは、この野原を北極点だと決めて看板を立てた。雨風にさらされてほとんど何も書かれていない看板が立っている。

「疲れたぁ」

「そうだね、はい。スコーン」

 両足を投げ出して座る私に、カイがピグレットの看板の店で買ったスコーンを手渡す。持ち歩いていたカバンから小さな水筒を出すと、その蓋に紅茶を注いだ。

「棒投げ、最後までいかなかったなぁ」

 名残惜しそうに、でも楽しそうにしている私を、カイは嬉しそうに見ている。

 百エーカーの森には、プーの物語に出てくる場所がたくさんあった。フクロウのオウルの家や、カンガルーのルーが遊んでいた場所。プーが木から落ちたときに刺さったハリエニシダもあった。私が呟いた棒投げも、プーたちが物語の中でやっていた遊びだ。

 小さな川にかかる橋から小枝を落として、一番最初に流れきった人が勝ち。
 カイとやってみたけれど、私の小枝は途中で引っかかって最後まで流れなかった。するすると順調に川を流れていくカイの小枝を見ながら、なんだか現実の私たちを表現しているようだと思った。川の流れに乗ろうとしているのに動けなくなっている小枝みたいに、よく私は何かに引っかかって前に進むことができなくなる。


「紅茶もどうぞ」

 ふんわりと香った紅茶の匂いが、ぼんやりしていた私を引き戻す。

「家から持ってきたの?」

 手渡された紅茶を受け取りながら言う私に、カイが頷いた。

「重かったよね。ありがとう」

「全然。大丈夫」

 野原に寝転がるカイを見ながら、湯気が出ている紅茶を飲む。
 草木の匂いをのせて優しく吹く風に、カイの髪が揺れている。しばらく気持ちよさそうに目を閉じていたカイが、ふいに目を開けて呟いた。

「人間ってちっぽけだよな」

 スコーンをちぎる私を見て、カイが口を開けた。その中に餌付けするかのようにスコーンをいれる。もぐもぐと口を動かして、カイはまたぽつぽつと喋りだす。

「俺、小さいころから色々な国に行ってるだろ。今の家は広くて裕福ですごく快適だけど、そうじゃないところもいっぱいあった。相部屋なこともあったし、食事がひどい国もあったよ」

 言いながらまた口を開けた。話の続きを促すように、その中にスコーンを詰める。

「価値観だって生きてる人間の数だけあるんだ。悩むことも多かったし、つらかった日もたくさんあったな。言葉があまりわからない国で、ナツみたいに落ち込むことだってあったよ」

「カイが私みたいに?」

「そうだよ。俺だって落ち込むことぐらいあるよ」

 驚く私と、当然だというような顔をしたカイの目がぶつかる。

「落ち込んだり壁にぶつかったときにこういう場所でぼんやりすると、俺の悩みなんてちっぽけで大したことないんだなって思うよね。好きなんだ。こういう風に過ごすの」

 溜め息をつくようにカイが息を吐いた。

「色々な物を見せてくれた両親には感謝してる。ホームシックになることもあったけどね。将来、父親の仕事を手伝うことになるかもしれないってことにも文句があるわけじゃないんだ。それが目標でいいのかって、時々気持ちも揺らぐ。でも……」

 言いながらカイが勢いをつけて起き上がる。私の手から紅茶を取ってゆっくりと喉を動かした。

「こんな風に世界の大きさを見せつけられると、悩みなんかなくなっちゃう。あまりにも自分が小さい存在に思えてさ。気持ちが軽くなるんだ。なるようになるって」

 カイは私と同い年のはずだ。それなのに、私よりもたくさんのことを見てきて、考えている。中身はずっと大人だ。棒投げ橋で、するすると最後まで流れて行ったカイの小枝を思い出していた。

「それに、世界を見て来いって外に両親が出してくれたからお前とも会えた。悪いことばかりじゃないよ。……なぁ、ちょっと後ろ向いてくれない?」

 カイが指で回れと指示している。

「え。何するの? やだ」

「何もしないから」

「何もしないならこのままでいいじゃん。絶対やだ」

「じゃあ、そのままでいいよ」

 紅茶のカップにしていた蓋を野原の上に置いて、カイが私の目の前に座る。そのまま両手を私の首の後ろに回した。カイの匂いが急に近くなって、心臓が跳ねる。

「これ、はずしていい?」

 カンタベリー大聖堂で買ったネックレスが、返事を待たずにそっとはずされた。カイの指が触れる場所がくすぐったい。胸に響く音がドッドッドッと早くなって、そのまま破裂しそうだ。思わず身をよじるように動いた私の頬に、「動かないで」と囁くように言うカイの吐息があたる。

 こんなことなら、素直に後ろを向けばよかった。カイの顔が近くて、どこに目を向ければいいのかわからない。グッズ屋で買った本の表紙に描かれていたプーのように、視線を空に向ける。ひらひらと小さな蝶々が二匹、じゃれ合うように飛んでいる。

 鎖骨の間にひんやりとした感触を感じたとき、カイの手が私の首から離れた。

「動いていいよ。こっち向いて。うん、似合ってる」

 冷たさを感じる場所に手をあてて、小さくて硬い何かを触りながらゆっくり視線を向けた。

 大聖堂で買ったネックレスの代わりに、小さな赤い石が一粒ついたネックレスがさがっている。

「誕生日だっただろ? 遅れちゃったけど、プレゼント」

 ワインレッドの小さな石が、私の首で光った。

「お誕生日おめでとう」

 笑うカイの目の中に、驚いた顔をした自分がいる。胸を摘まれて絞られているような感覚が息苦しい。カイの目から目が逸らせない。
 笑っていたカイの目が、スッと真剣になって、まっすぐ私を見つめている。時間が止まってしまったかのように、体が動かない。

 一度下げられたカイの右手が、私の頬を包むように触れた。カイの吐息を感じるほど、顔が近い。喉の粘膜が張り付いて声が出ない。ごくり、と私の喉が動いた。



 その時、私たちの顔の前をひらひらと二匹の蝶々が飛んでいく。

 はっとしたように体を離して、距離を取る。それから、恥ずかしさを誤魔化すようにスコーンを口の中に入れた。

「……ありがとう。嬉しい」

「どういたしまして。喜んでもらえて良かった」

 何もなかったかのように、もともとつけていたネックレスをカイが私に手渡す。目を合わせないようにしてそれを受け取って、自分の鞄の中に押し込んだ。
 ゆっくりと落ち着いてきた鼓動に、ほっと胸を撫で下ろす。百エーカーの森に優しく吹く風が、私の頬を優しく撫でていった。

『ほんの些細なことが、君の心のほとんどを占めることがあるんだ』

 はちみつ色のくまの声が、耳に聞こえたような気がして辺りを見回す。

「どうした?」

「なんでもない」

 首を振って答えた私を、不思議そうな顔でカイが見ている。

 私の生まれて初めてのデートの思い出は、スコーンと紅茶の香り。それから、北極点でもらったプレゼントのネックレス。それは穏やかで優しい、少しドキドキするものだった。
 時間の流れを忘れるほどゆったりと、野原に吹く風のように、私の初めてのデートは過ぎて行った。