「カイ。今日の夜、少し時間ある?」

 朝の陽ざしが眩しい坂道で、隣を眠たそうに歩くカイに声をかける。

「あぁ。家にいると思うよ」

「良かった。夜、部屋に行くね」

「わかった」

 昨日の夜、時計の針がてっぺんを指すまでパブで話し込んでいた私の目に、太陽の光がが沁みる。しょぼしょぼと何度か瞬きした後、見えてきた校舎をじっと見つめた。

 私は今日、エリと話をすると決めている。





「今日の授業はここまで。しっかり宿題をやってきてね。いい午後を」

 先生がホワイトボードを消しながら一日の授業の終わりを告げた。帰るために立ち上がったエリと目が合う。昨日までは逸らしていた視線を逸らさずに声をかけた。

『エリ。話があるの』

『……私も』

 エリがそう答えてくれたことに、少しほっとした。

『ここじゃなんだから、場所を変えよう』

 そう言った私に、こくんと小さくエリは頷いた。


 町のカフェに場所を移して、エリと向かい合って座る。私の前にはカプチーノが湯気をたてて飲まれるのを待っている。初めてこのカフェに来た時、カプチーノを日本語で頼もうとして紅茶を飲むことになったのを思い出す。

 あの時と同じように、エリはカフェオレが入ったカップを小さな手で包むように持って、息を吹きかけて冷ましている。

 間に流れるピリッとした空気を、店内に流れるボサノバが柔らかくしようと試みている。ボン、というベースの音をきっかけに、声を出した。

『エリ、私が悪かった。ルイに誘われたことを、言わないままでいてごめんね』

 私が静かにそう言うと、エリはふるふると首を振った。

『違う。私がナッちゃんに八つ当たりしたの。ごめん』

『ううん。もし私がエリだったら同じように怒ると思う。だから、エリは悪くないよ』

『……』

『あの日、エリは私に、何も言ってくれたことないって言ったよね? 今から、少し話してもいい?』

 私の声に、エリが頷く。

『私は、自分が思うことを話すのが苦手なんだ。上手にできないの。それは今まで色々あったからなんだけど……。ルイから誘われたことをエリに言ったら、エリが傷つくんじゃないかって怖かった』

 エリのカップを握る手に、少し力が入る。カプチーノのカップを握っている私の手も、じんわり汗をかいている。

『エリが悲しんだり、傷つく顔を見たくなかった。私、エリが幸せそうに笑うのが好きなんだ。小さな花が咲くみたいで、可愛いなっていつも思ってた』

 息をつくように、カプチーノを飲む。

『ルイと一緒にプロムに行きたいっていうエリを、本当に応援してた。馬鹿にしたり、同情したことなんか一度もないよ』

『うん。わかってる』

『どうしたらいいのか迷ってるうちに話すタイミングを見失って、さらに言えなくなって、最終的にエリを一番傷つける結果になっちゃった。本当にごめんなさい』

 頭を下げた私に、エリがまたふるふると首を振った。

『本当に、ナッちゃんは悪くないの。応援してくれてたのも、馬鹿になんてしてないことも、全部わかってる。言うつもりもなかったんだよ。でも、メモを見ながら買い物してるナッちゃんを見たら、どうしてだか我慢できなくなっちゃったの』

 カフェオレが入ったカップを置いて、エリがほっと息を吐く。

『ずっとね。ナッちゃんのことが羨ましかったの』

『……』

『イギリスで恵まれてるナッちゃんが、羨ましかった。さっき、私が笑うと小さな花が咲くみたいってナッちゃんが言ったけど、その言葉、そっくりそのまま返すよ』

 そう言って、エリが笑った。

『私ね。今まで、普通で平凡な毎日が嫌だって思ってたの。ここに来たばかりのころ、この場所で少し話したよね』

『うん。したね』

 もうはるか昔のように感じるが、ほんの少し前のことだ。

『私にとっての普通って、自分が好きだなって思った人は自分のことを好きになって、欲しいって思うものは全部手に入ること。今までそうだったの』

 エリが話す『普通』は、私には考えられないものだ。
 私とエリの『普通』には、かなりのズレがある。頷く私に、エリは続けた。

『でも、ここに来てから私が今まで思ってた普通って、普通じゃなかったって気づいたの。好きになった人は振り向いてくれないし、欲しいものも手に入らない。それなのに、ナッちゃんは全部手に入れちゃって、正直ずっと羨ましかった』

 伸びをするように、エリが両足を伸ばす。

『ナッちゃんは、たくさん努力したんだよね。私が他の留学生と遊んでる時に図書館にこもったりしてさ。ナッちゃんが頑張ったから手に入れたんだよ。それなのに嫉妬して、あんなに酷いこと言って、ごめんなさい』

 今度はエリが、私に向かって頭を下げた。慌てて、エリが頭を下げるのを止める。

『やめてよ。ルイに誘われたことを話さなかった私が悪いんだよ。エリが怒ったのは当然だと思う』

『ううん。ナッちゃんに話されても、私はきっと怒ってた』

『それでも、言うべきだった』

 言い合いながらエリと目が合って、しばらく見つめ合う。それから、笑いが込み上げてきて、堪えられなくなったように同時にプッと笑った。
 しばらくそのまま笑った後、ほっと息を吐く。

『仲直りしたいんだ。私』

 そう言った私に、エリはパッと花が咲いたように笑った。

『うん、しよう』

 話したいと思っていたこと話せたことに、安心して力が抜けた。はぁ、と息を吐いた私の前で、エリもほっとしたように息を吐く。

『それで、ナッちゃんはプロム、どうするの? ルイは……』

『私は、カイと行く。ルイにはちゃんと断るよ』

『えっ、カイにも誘われてるの? ……やっぱり羨ましいな。もしかして、モテ期?』

 口元に手を当てて、エリがポツリと呟いた。

『エリは、どうするの?』

『私は……』

 口元に当てていた手と一緒に、エリの目線が下がった。

『……やっぱり、ルイと行きたい、かな』

『そっか』

『どうしたらいいと思う? 誘われたナッちゃんに聞くのは、なんだかすごく複雑だけど』

『誘われた私が言うのは少し気まずいけど、エリから誘ってみたら?』

 そう言って、また二人で笑った。こんな風に、また笑い合えるようになった嬉しさに胸が震えた。もう戻れないのではないかと思っていた不安から解き放たれて、体もふわふわと軽くなる。散々笑った後、エリが真面目な顔で呟いた。

『私から誘って、いいのかな』

『エリが行きたいなら、そうするべき。自分が欲しい未来を手に入れるために、自分で決めて動かなきゃ。待ってても手に入らないと思う』

 ぽかんとした顔で、エリが私の顔をまじまじと見る。

『なんか、ナッちゃん変わったね』

『ごめん。気に障った? 少し偉そうだったよね』

『ううん。かっこいい。……好き』

『なにそれ』

 ボサノバが流れる落ち着いたカフェに、三回目の笑い声が響く。話をしなかった三日分を取り戻すかのように笑っていた私たちに向かって、隣の席に座っていた女性が口元に指を一本たてた。

「ごめんなさい!」

 慌てて二人で謝った後、またクスクスと肩を震わせて笑う。カップが空になったのをきっかけに、カフェの椅子から立ち上がった。

『私、頑張ってみる!』

 強い意志を顔に浮かべて、エリが私を見つめた。

『うん。頑張って』

 力強い足取りで家へと帰っていくエリの後姿を見送って、私も自分の家に向かって歩く。そのまま家には帰らずに、ルイの家の玄関の前に立った。

 背負っていたリュックの中から、白い薔薇を取り出す。一日持ち歩いていたせいで、元気がない。しょんぼりしているようで、なんだか可哀想だ。

 少し痛む胸をさすりながら、玄関のインターホンを押した。

 玄関をあけてくれた家主に、ルイに会いに来たことをいうと部屋まで案内された。何度か落ち着かせるように深呼吸をしてから、部屋の扉をノックする。

「はい……あ、ナツ。どうぞ中へ」

 ふんわりと笑いながら、ルイは扉を開けて部屋の中へと招いた。
 ルイからいつもする石鹸の香りがする部屋をぐるりと見渡す。白木で作られたベッドと机に薄いブルーのカーテンが合っている。色々な設備が整っている私の部屋よりもシンプルだ。これはこれで過ごしやすそうだなと思う。

「まさか来ると思ってなかったから、散らかってるんだ。あまりみないでよ」

 恥ずかしそうに言いながら、ルイは窓際にあった椅子に座った。

「それで、ナツの気持ちは決まった? プロムの返事をしに来たんだよね?」

「うん」

 頷きながら、持っていた白い薔薇を差し出す。
 それを見て答えがわかったのか、ルイは少し悲しそうに笑う。

「ごめんなさい。私、カイと行きたいの。誘ってくれたのはとても嬉しかった。でも、ルイとプロムには行けない」

「それがナツの答えならいいんだ」

 ルイはそう言って、私の手から薔薇を受け取った。

「あぁ……負けた。悔しいなぁ」

 手足をだらんと投げ出して、ルイが天井を見上げた。

「本当にごめんなさい」

 誘いを断ることに慣れていなくて、申し訳なさに潰されそうだ。それでも私は、カイと行くことを決めた。はっきりとさせなくてはいけない。

「少しだけ話を聞いてくれる?」

「うん。あまり長くは居られないけれど」

 窓の外はだんだんとオレンジ色になってきている。もうすぐ夕飯の時間だ。

「僕さ、今まで人を好きになるってことが、よくわからなかったんだよね。恋ってやつ」

 それは私も同じだ。カイと行くことを決めた今でも、自分の中にある気持ちに名前をつけることができないでいる。

「人並みに恋愛はしてきたんだよ。彼女がいたこともあるし。でも好きって言われて、嫌いじゃなければ付き合ってたんだ。結局『あなたは私が好きじゃない』って振られちゃうんだけどね」

 ルイは難しいことを言っている。私の経験値が少なすぎるのかもしれない。そもそも好きってなんだろう。ぐるぐると哲学的なことを考えそうになった私の思考を、ルイが止める。

「だけど、ナツが笑ったのを見たときに、ビビビッってなったんだ。多分、これが恋ってやつだと思った。初恋は実らないって言うけど、本当だったよ」

「……ごめんなさい」

「謝らないで。いいんだ。僕はナツの笑った顔が好きだよ」

 しゅんとした私に向かって、ルイはふんわり笑った。

「さぁ、ナツは家に帰らないと。まだ、カイには返事してないんでしょう?」

「うん」

 部屋の扉を開けながら、ルイが少し意地悪に笑う。

「あいつ、きっとそわそわしてるよ。早く返事を聞かせてやって」

「そうする。ありがとう」

 部屋から出る私の頭を、ルイが優しく撫でる。

「こちらこそ。ありがとう。僕にこんな気持ちを教えてくれて」

 少し寂しそうに笑う垂れ目に、胸がちくりと疼いた。ルイのことは好きだと思う。ただそれは、エリやヒルダに思う好きという感情と同じだ。カイに抱いている感情と少し違う。ルイに私がしてあげられることは、何もない。

「それじゃあ、また明日。学校で」

 名残惜しそうに私の頭から手を離すと、ルイは静かに部屋の扉を閉めた。

 ルイの家から出た私は、体中の酸素を出す勢いで息を吐いた。なんだか体が重い。でもこれは、私が今まで散々逃げ回ってきたツケだ。自分の気持ちをはっきりさせず、言いたいことも言わずに過ごしてきた。それを今日、すべて片付けようとしているのだから疲れて当たり前だ。


 目の前に建つ三階建ての家を見上げる。

 カイに、返事をしなくてはいけない。

 奮い立たせるように胸に思い切り空気を吸って、自分の家の玄関を開けた。



 落ち着かない様子の私と、どことなくそわそわしたカイ。それから、そんな私たちを面白いような物を見る目で見守るマークと三人で夕食を食べる。

「おい。またダイエット?」

 じゃがいもの量が、二人と比べて半分になった私の皿をカイがフォークで示す。

「うん。でも、私がそうしたいからしてるの。だから、無理はしないよ。食べたいときは我慢しないで食べるし、運動もするよ」

 普段は太ったことをあまり気にしていないが、リースが用意してくれたドレスはかなり体にぴったりとしていた。だから、少し意識している。すでにデニムがきついのだ。今まで通り食べ続けていたら、サイズが合わなくなってしまうかもしれない。

「プロムも近いもんね」

 マークが揶揄うように言うのを聞いて、思わず二人で黙ってしまう。

「ナツがそうしたいって思ってやってるなら……いいけど」

 気まずそうにポークソテーを切り分けながら、カイが呟いた。なんだか私も気まずくて、残り少なくなった皿に、視線を落とす。それから会話が少なくなって黙々と食べた結果、二人よりも量が少ない私は一番に食べ終わってしまった。

「部屋に戻るね」

「おやすみ、ナツ」

「おう」

 いつもならカイもおやすみって言うのに、今日は言わない。この後、私が部屋に行くことを、学校に行くときに伝えたからだろう。なんだか体中がむず痒い。その場でばたばたと足踏みしたくなるのを堪えて、部屋に戻る。

「緊張するなぁ」

 一輪になった薔薇を見つめながら、独り言を言う。そわそわと部屋の中を散々歩き回ってから、ベッドの上に倒れた。心身ともに疲れた体に、ベッドが優しい。お腹もいっぱいで、おもわずウトウトしてしまう。眠ってしまわないように、必死に睡魔と戦いながらカイが食べ終わるのを待つ。

「ナツ、入るよ」

 部屋にノックの音が響いて、扉が開く。ベッドに倒れている私を見て、カイが呆れたように笑った。

「おい。部屋に来るって言ってただろ」

「うん。寝てないよ。カイが食べ終わるの待ってた」

 ゆっくりと重たい体を起こして、ベッドの上に座る。

「プロムの返事だろ? ここでもいい? 早く聞きたいんだ」

 カイが部屋に来てくれたなら、ここで返事をしても構わない。

 ……返事をするときは、立った方が良いのだろうか。座ったままで良いのだろうか。どうでもいいようなことが気になる。しばらく考えてからベッドから立ち上がって、部屋の扉に寄りかかるようにして立っているカイの傍まで近づいた。

 カイが胸の前で組んでいた腕を降ろして、扉に寄りかかるのをやめる。それから、私としっかり向き合うように立った。頭ひとつぶん大きいカイが、私が何か言うのを見下ろしながら待っている。

 あぁ。またむずむずしてきた。今すぐベッドに戻って、布団を被って叫びたい。でも、それは駄目だ。カイと行くと決めたのだから、伝えなくては。

「あのね……」

「うん」

 喉に詰まって言葉が出てこない。でも、今までと少し違う。恥ずかしくて声が出ないのだ。

 カイと行く。たった一言、言えばいい。それなのに、私の口からは、あぁとか、うぅ、とか意味のない音がでるだけだ。
 でも、いつまでもこうしてはいられない。覚悟を決めて顔を上げた。
 カイを見上げて、しっかりと目を見る。カイの目が、少し緊張している。意識しないと、すぐに目を逸らしたくなってしまう。必死に視線を固定して、声を出す。

「あのね、私、カイと一緒にプロムに行きたい」

「俺でいいの?」

 目を優しく細めて首を傾げながら、カイは確認するように聞き返した。

「……カイがいいの」

 消えそうな声で返事をした。全身の血液が顔に集中している気がする。顔から火が出そうだ。もう燃えているかもしれない。そう思ってしまうほど、顔が熱い。

「顔が真っ赤だよ。ナツ」

 カイが堪え切れなくなったように笑った。顔が赤いことを指摘されて、ますます恥ずかしくなる。

「今日、ずっと緊張してたんだよ。朝、部屋に行くって言われた時、絶対にプロムの返事だと思った」

 恥ずかしくて俯いた私の顔を、カイが覗き込む。

「ルイと行くって言われたらどうしようって不安だった。あいつ、優しいしな」

 カイでも不安になることがあるのかと、火照った頭で思う。彼も人間だからそう思うことがあって当たり前なのに信じられない。カイはいつでも自信満々で怖いものなしに見える。
 頭が胸につきそうなほど俯く私の前にカイがしゃがんで、私の両手を掴んだ。

「ありがとう。選んでくれて」

 それから今まで見てきたどの笑顔よりも優しく笑った。もう何も声が出ない。答える代わりに首を振った。

「じゃあ、俺、部屋に戻るね」

 立ち上がって部屋から出ていくカイを見送る。おやすみなさい、と言おうとした時、カイが振り返った。

「今週の休み、予定ある?」

「ううん。特にない」

「じゃあ、少し遠出しよう。デートだ」

 そう言って、カイが私の額にキスをした。

「おやすみ、ナツ」

 固まったままの私を残して、カイが部屋に帰っていく。
 ゆっくり右手を額に持って行って、キスされた場所を覆うように触る。

 今までヒルダやマークに何度もされてきた。でも、なんか違う。猛烈に恥ずかしい。

 ふわふわと浮くような感覚を体で感じながら、部屋の扉をぱたんとしめた。
 へなへなと床に座り込む。


『デート? そんなの、したことない……』

 そのまま丸まるように蹲って、顔の火照りが冷めるまでしばらくじっとしていた。