その日の夜。
私の部屋の勉強机の上には、テキストの代わりに二本の薔薇が置かれていた。
赤い薔薇はカイ、白い薔薇はルイから渡されたものだ。
夕食を食べ終わって部屋で休んでいる私をルイが訪ねて来た。
「やぁ、ナツ。少し話したいんだけど、いい?」
「どうしたの?」
「前にプロムに誘ったとき、また誘うって言ったでしょ? だから、はい。僕とプロムに行ってくれない?」
そう言ってルイは、私に向かって白い薔薇を差し出した。
「えぇ……」
「あはは、何? その反応。プロムに誘われて、そんな反応する人がいるんだね」
眩暈がする。今、私はカイに誘われたことでいっぱいいっぱいだった。でも、断るなら今だ。声を出すために息を吸う。それよりも早く、ルイが声を出した。
「白い薔薇の花言葉を知ってる? 一目惚れって意味なんだ」
「……」
「自動販売機の前で僕がナツに水を渡した時、ナツは水を抱きしめて笑ったでしょう? あの時からずっと、ナツのことを目で追ってた」
眩暈がさらに強くなる。夢なら覚めてほしい。また言葉が詰まって出てこなくなる。
「ナツが笑った顔、いいよね」
「なんで、私なの……。エリは……」
「また、エリのこと? 僕はナツを誘ってるんだ。……カイにも誘われたんだね」
机の上に置かれた赤い薔薇を見て、ルイが言う。
「ナツがカイと行くことを決めて断られるなら、僕は全然かまわない。でも、そうじゃない理由で断るなら、僕は納得しない」
赤い薔薇の隣に並べるように、ルイが机に白い薔薇を置く。
「ナツは、どうしたい?」
首を傾げながら問いかけるルイを見ながら黙り込む私に、ルイは小さく笑った。
「返事は今じゃなくていいよ。キミの気持ちが決まったら教えて」
部屋から出るために扉を開けて、ルイが振り返る。
「ナツが決めるんだ」
そう言って、部屋に柔らかい雰囲気を残してルイは部屋を出て行った。
そして今、私の目の前に二本の薔薇がある。
「どうしよう……」
部屋に弱々しい私の声が響く。
よりによってどうして私なのだろう。私なんかより素敵な人は、あの学校にたくさんいる。エリだって、私なんかよりずっと可愛い。陰気ですぐに泣く私よりずっと素敵だ。言葉が出てこなくなって、急に黙るようなこともない。
何度も『私なんか』を繰り返しながら、大きく溜め息をつく。
『どうしよう……』
今度は日本語で呟く。私の声は、むなしく響いて天井に吸い込まれていった。
次の日、朝というには少し遅い時間に、私は一人朝食を食べていた。冷蔵庫にあるラップをかけられたガラスのボウルを取り出して、机の上に置く。中身はグリーンサラダだ。
体重計に衝撃的な数字を突き付けられてから、なんだか食欲がない。
『いてて……』
チクチクと痛む腹をさすりながら、サラダを取り分ける。胃が痛い理由は、部屋にある二本の薔薇のせいだ。
調味料が並ぶ棚から酢を取り出してサラダにかける。それを、義務のように口に運んだ。
「食事はしっかり取りましょう」
目の前にティンブレッドが入った袋が、どさりと置かれた。顔を上げた私の前に、カイはジャムの瓶を並べていく。
「これ、好きだろ」
そう言いながら、私がお気に入りにしているチョコペーストを最後に置いた。
「今は封印してるの」
瓶をひとつずつ元にあった場所に戻す私を、カイはやれやれといった様子で眺めている。
「好きな物を我慢しないといけないほど、ナツは太ってないよ。食事の管理が必要なほどダイエットをしないといけないのは、健康に問題があるときだけだ」
そう言いながら電気ポットの電源を入れるカイの背中を見つめる。がっちりしとした大きな背中。体を動かすことが好きな彼は、体重で悩んだことなんかないだろう。
もやもやと、私の意識が過去に引っ張られていく。
『あんた、また太ったんじゃない?』
学校から持ち帰った健康診断の結果を見た母親は、私に向かって吐き捨てるようにそう言った。母親が見ている紙に書かれている体重は、ほぼ平均値だ。
『みっともない。洋服も着れなくなるし、見ていて不快よ』
『はい……』
そうか。みっともないのか。不快なのか。
俯きながら消えそうな声で返事をした私に向かって、大きな溜息をつきながら母親は持っていた紙をゴミ箱に投げ捨てた。
「ところでさ。どうしてそんなに気になるの? 理由があるんだろ? あ。プロムのドレスを綺麗に着たいとかそういう理由? それなら理解できる」
紅茶が入ったカップを二つ持って、カイが前の席に座る。同時にまるで目の前にいるように見えていた母親の姿が霧のように消えた。
「みっともないでしょ。今のままじゃ」
「なぁ、何言ってんの?」
両方のカップに砂糖とミルクを淹れてかき混ぜた後、そのうちの一つを私の前に置いた。
「周りの目を気にして、食事を減らすようなことしてるの? それならやめろよ」
「私の勝手じゃん」
「そうだよ。ナツ自身が納得できなくて体を絞りたいならいいんだ。でもそうじゃないなら気にするなよ」
無言でサラダを食べる私を、カイは心配そうな顔で見ている。
「周りの目を気にする必要なんかないって言ってるんだ。ナツがナツであればいい。お前の周りにいる人たちは、みんなそう思ってると思うよ」
「私がこーんなに大きくなっても、カイは同じことが言える?」
両手を大げさに広げて言う。それでもカイは、真面目な顔を崩さずに頷いた。
「言えるよ。健康に問題がないならいいじゃん。ナツが自分のことを好きなら、どんな風でもいいんだよ。例えば毎日、歌舞伎メイクをするようになっても、ナツがそうしたいなら別にいいよ」
歌舞伎メイクをして町を歩く自分を想像して少し笑ってしまった。私が笑ったのを見て、カイもつられたように笑う。
「好きな自分で生きてるだけなのに、それを否定してくる奴もたまにいるけどさ。それは否定する奴が間違ってると思うよ」
私がやりたいようにすると必ず否定してきた私の両親は間違っている、ということだろうか。本当に、そうなのだろうか。
「もし、不必要に否定されたなら俺に話せよ。一緒に『それはひどい』って怒ってやる。だから、食事を減らすのはやめな。なりたい自分になるために痩せたくて散歩するなら、いくらでも付き合うからさ」
私の頭の上にポンと手を置いて、カイが立ち上がる。ダイニングから出ていくカイを視線で見送っていると、小さく「あ」と呟いて振り返った。それから、念を押すように言う。
「昨日の返事、待ってるから」
きゅうっと胃が痛むのを感じて、目の前にあったカップを手に取り一口飲む。甘さが口に広がって脳が痺れる感覚に思わず目を閉じた。ヒルダがよく作ってくれた甘いミルクティを思い出す。
「私がどうなりたいかって、難しいよ。ヒルダ」
夢の中でヒルダが言っていたことをポツリと呟いて目を開ける。
食事を減らす私を、カイは心配そうにしていた。カイの残像が見える気がする。
「……わかったよ」
目の前の空席に向かって言いながら置かれたティンブレッドを一枚取り出して、トースターのスイッチを入れた。
机の上にテキストを開いて、宿題を進める。しばらく集中していた手を止めて顔を上げると、二本の薔薇が私を見つめ返した。花瓶代わりのグラスにいれられた薔薇が、どうするんだとずっと私に言っている。だらりと両手を下げて、天井を見上げる。
「どうしよう……」
昨日から何度も繰り返している言葉を呟く。
薔薇に責められているような気がして仕方がない。紅茶でも飲んで一息入れよう。やりかけのテキストを閉じてダイニングに向かう。
「あら、ナツ。調子はどう?」
「順調だよ」
夕食の準備をするリースに向かって、実際の状況とは真逆の返事をする。全然順調じゃない。ばれないように溜め息をつきながら、ポットのスイッチをいれてカップを棚から取り出した。
「やだ。いけない」
「どうしたの?」
「塩がないの。買い忘れたのね。嫌だわ」
白い陶器の瓶を持って、リースが困ったように笑った。
「私、買ってこようか」
「頼んでもいいかしら」
「もちろん」
少し外の空気を吸うのも気晴らしになりそうだ。取り出したカップを棚にしまってポットのスイッチを切る。
「ついでにこれもお願い。気をつけてね」
「わかった。できるだけ早く戻るね」
買い物リストが書かれたメモを受け取って家を出る。
「塩、トマト三個、マッシュルーム、それにヨーグルト。ヨーグルトは低糖のやつ」
メモをぶつぶつと読み上げながら、スーパーに向かって少し早歩きで向かう。オレンジ色に染まり始めた町は、たくさんの家から美味しそうな匂いが漂っている。今日の我が家の夕食がいつ出来上がるかは、私のおつかいにかかっている。早く買って帰らないといけない。
「はい、お釣り。毎度どうも」
「ありがとう」
備え付けられた椅子に座って、くっちゃくっちゃとガムを噛みながらレジを打つ店員からお釣りを受けとる。初めて見たときは驚いた。座っていることにもガムを噛んでいることにも驚いたが、面倒くさそうに無表情でレジを打つことに衝撃を受けた。
日本で同じことをしたらあっと言う間に大量のクレームが届いて、レジ係を外されるだろう。でもここはイギリスだ。日本の常識は通用しない。
茶色い紙袋に詰まった品物を抱えて、急ぎ足で家に向かう。その背中に、聞きなれた声がした。
『ナッちゃん』
『あ、エリ。エリも買い物?』
『……』
同じ紙袋を抱えたエリが、少し息を切らしながら私のシャツの裾を握った。スーパーから追いかけて来たのだろうか。
『どうしたの?』
『ナッちゃん、ルイにプロムに誘われたよね?』
頭のてっぺんから氷の棒を突き刺されたような感覚にただ突っ立つ私を、じっとエリが見つめる。
『私、ナッちゃんから言ってくるのをずっと待ってたんだよ』
『……どうして知ってるの?』
絞りだすように言った私の言葉に、エリの目に怒りが浮かんだ。
『ショッピングモールでルイに聞いた』
言うべきなのか悩んでいた。どうすればいいのかわからなかった。秘密にしていたわけじゃない。どうすればエリが傷つかないで済むのか、物事が丸く収まるのか、ずっと考えていただけだ。
硬直したままの私に、エリは畳み掛けるように言う。ずっと我慢していたものが溢れたような勢いだった。
『昨日の昼もひどいよ。きっと行けるよ、だなんてよく言えたよね。私がルイと行けたらいいなって悩むのを、どんな気持ちで見てたの? 私が哀れで言えなかった? やめてよ。変な風に同情するの』
『違うよ。哀れだなんて思ってない』
『じゃあ、なんだって言うの。ルイに誘われなくて落ち込む私は、さぞかし滑稽だったんだろうね』
エリが自嘲的な笑みを顔に浮かべた。
じゃあ、どうすればよかったのだろう。私が正直に誘われたことを言っていれば、エリがこんな風に笑うような結果にならなかったのだろうか。わからない。ずっとエリがどうしてほしいのか考えていただけなのに、伝わらない。
『ナッちゃんはいいよね。優しいステイメイトと親切な家主に恵まれて、ルイともあっと言う間に仲良くなって、英語だってすぐにペラペラになってさ。順風満帆じゃん。私とは大違いで、笑っちゃう』
思わずムッとする自分を、抑え込めなかった。
イギリスに来てから今日まで、決して順調な毎日だったわけじゃない。英語がわからなくて、毎晩のように枕を濡らしていた時期もある。ここにきてから悪い夢も見るようになった。
いつも天真爛漫に生きているエリがどれだけ羨ましかったか、彼女には絶対にわからない。そういられる人生を彼女が歩んできた証拠だ。何か言うたびに叱られたり、殴られたり、否定されるような日々を彼女はきっと知らない。
『エリにはわからないよ。私の気持ちなんて』
こぼれ落ちたように出た私の言葉を聞いたエリの目が大きく見開いた。みるみるうちに、涙が溜まっていく。
私が自分の思うことを表現するのが下手なことは自覚している。やりたいことやしたいことを意思表示せずに、両親が望む通りに生きて来たのだ。好きでそうしてきたわけじゃない。そうやって出来る限り淡々と過ごさないと、今まで生きてこられなかったからだ。
『わかるわけないじゃん。ナッちゃんは今まで、私に、自分がどう思ってるのか言ってくれたことある? ないよね。いつもエリはどうしたい? って聞いてくるんだよ。最初は優しい子だなって思ったけど、違ったみたい』
そうだ。私は常にそうしてきた。エリにだけじゃない。誰にでもだ。
今までずっと、私がどうしたいかよりも、両親がどうしたいのかが私にとって重要だった。そう聞くのは私にとって自然なことで、当たり前だったのだ。
瞬きをしたエリの目から涙が落ちた。ずっと掴んでいたシャツを離して、エリが慌てたように顔を拭う。
『もういい』
真っ赤な目で私を見つめた後、エリはくるりと背中を向けて遠ざかっていった。
自分の中に渦巻く感情の行き場がない。頭の中は真っ白だ。自分を抱きしめるように力を込めた腕の中で、紙袋がガサリと音をたてた。
「あぁ、早く家に帰らないと」
抑揚のない声で呟いて、体の向きを帰る。そうインプットされているロボットのように手足を動かして、私は家を目指して歩き出した。
私の帰宅が予定よりも遅れたせいで、夕食の時間も少し遅れた。
「遅くなってごめんなさい」
「いいのよ。助かったわ」
珍しく全員が時間通りに揃っている食卓に、リースが手際よく料理を並べていく。
「ナツが塩を買ってきてくれたおかげで、今日の食事が無事に出来上がったんだ。少し遅くなったぐらいで落ち込むなよ」
「そうそう。全然気にしていないよ」
どんよりと俯く私に向かって、カイとマークはフォローするように声をかけた。
二人の声を水の中で聞いているような気がする。もわもわとしていて、聞きとりにくい。うまく返事ができないまま、自分の前に並べられた料理を食べすすめる。
味がしない。
塩は私が買ってきた。だから薄いなんてことはないはずだ。目の前の二人も、料理の味に関して特に反応はない。私の感覚がおかしくなっているだけで、普段と変わらないのだろう。
「ごちそうさま」
もういらないと言っている胃の中に、皿の上の物を無理やり詰め込んで席を立つ。
「全部食べたの? 偉いじゃん」
「うん。おやすみ」
二日振りに食べ残すことなく全部平らげた私に向かって、カイが安心したように笑う。胃の中のものが、ぐっと逆流しそうになるのを水で流し込んでダイニングをあとにする。
「少し遅れたぐらいで、あんなに落ち込むことないのに」
「ナツは責任感の強い子だからね」
二人の声を背中で聞きながら部屋へと戻る。
私が落ち込んでいる理由は、夕食が遅れたからじゃない。エリを傷つけて、怒らせてしまったからだ。もっとうまく立ち回れたはずなのに、出来なかった。
ルイに誘われたことを、何度も言おうとした。それなのに、目の前で思いを馳せて幸せそうに笑うエリの顔が消えてしまうのが嫌で、言うことができなかった。
ベッドの上にばたりと倒れて体を沈める。
そのまま、一日のタスクを終了した機械のように、私は意識の電源を切った。
それから三日間。エリとの冷戦状態が続いた。
授業が終わると私の方を見向きもせずにエリは一目散に帰っていく。目が合うことが時々あったが、どちらからともなく目を逸らした。このままで言い訳がないのに、どうしたらいいかわからない。こんな風に友達と衝突をしたことも今までなかった。
もう花が咲いたようにエリが笑ってくれることは、ないのかもしれない。
カイとルイに、プロムの返事もしていない。彼らと目が合うたびに急かされているような気がして、胃がきゅうっと痛くなる。
完全に途方にくれていた。
誰かに話を聞いて欲しい。
一日やらなければならないことを全て終わらせて、部屋で一人呆けたように座っていた。
でも、こんなときに私の話を聞いてくれていたヒルダはもういない。他に思いつく人もいなかった。カイやマークの顔も一瞬脳裏によぎったが、なんとなく彼らに話すことに抵抗があった。
窓際の薔薇が責めるように私を見ている。グラスの水を変えようと手に取ったとき、外から楽しそうに歩く人の声が聞こえた。
ふと思いついた。
私がここに来たばかりの時。一人で行ったあの小さなパブに行ってみよう。もしかしたら、おじいさんに会えるかもしれない。私の拙い英語を穏やかに聞いてくれたおじいさんの顔が浮かぶ。
水を取り替えたグラスに薔薇を元通り挿した後、身支度を整えて抜け出すように家を出た。
もうすぐ訪れる夜の匂いを漂わせている夕暮れ町を、パブに向かって歩く。
行っても会えないかもしれない。それでもなぜか、会えるという確信めいた予感があった。迷うことなく歩みをすすめて視界に小さなパブが見えたとき、思わずほっと溜息が出た。
外から覗くと、初めて見た時と同じように二人の女性がカウンターの中で接客をしているのが見える。おじいさんの姿は見えないが、中に入って聞いてみよう。前回ここに来た時の私にはできなかったことができるようになっている。
少し緊張しながらパブの中に入ってきた私を、初老の女性が柔らかく迎えた。
「カウンターでいいかしら? 念のため、年齢の確認をさせてもらえる?」
学生証を見せながらカウンター席に座る。アジア系の生徒は、この国で実年齢よりもかなり若く見られることが多い。
休日にエリと町のゲームセンターで遊んでいた時、声をかけてきた男の子たちに年齢を言ってものすごく驚かれたことを思い出す。逆に年齢を聞き返したら、彼らはまだ十四歳だと答えた。そうは見えない大人っぽい姿に、彼らに負けないぐらい私たちも驚いた。それから、中学生にナンパされてしまったことに、エリと二人で声を出して笑った。
またあんな風に笑い合うことができるだろうか。無理かもしれない。現実にずんと胸が重くなる。
「十九歳ね。ありがとう。学生証をしまっていいわ。何を飲む?」
「お酒のことがあまりわからないんです。何か飲みやすい物をください。ビールじゃないやつ」
女性がカウンターの中にある冷蔵庫から、明るいピンク色をした液体が入った瓶を取り出す。
「これ、甘くて飲みやすいわ。四ポンドよ」
財布の中からお金を出して、瓶を受け取った。
この色は、エリが好きそうだ。また私はエリのことを思い浮かべている。一口飲んで、うっすらと感じる甘さとアルコールの味を堪能する。ビールよりもずっと良い。
紙のコースターの上に瓶を置いて、グラスを磨いている女性に向かって聞く。
「すみません。おじいさんは今日、来ますか?」
「どのおじいさんかしら。ここにはたくさん来るわよ」
「えっと、チェック柄のハンチング帽を被っていて、近所に奥さんと二人で住んでいて……」
あの日のおじいさんを思い出しながら話す私に、女性がふんわり笑う。それから視線を私よりも後ろに向けた。
「彼のことかしら」
女性の目線を追って振り返った私の目に、あのおじいさんが見えた。
「おや、久し振りだね」
出会ったときと同じハンチング帽を片手で少し持ち上げて、おじいさんが微笑んだ。
「……」
本当に会えたことに胸がいっぱいになって、思わず言葉を失ってしまった私の代わりに女性が声をかける。
「あなたに会いに来たみたいよ。こんな若い子を待たせるなんて、悪い人ね」
「ははは、それは悪いことをしたね」
おじいさんが隣の席に座りながら、私に向かって右手を差し出す。
「本当に私に会いに来たのかい? どうしたの? 何かあったのかな」
握手をしながら、何度も頷く私に向かっておじいさんはにっこり微笑んだ。
「私に彼女と同じものを」
「あら、ビールじゃないのね」
「たまにはいいと思ってね」
私に向かってウインクをしながら、私が握っている瓶と同じピンク色の液体をおじいさんが飲む。
「うーん、甘いね。時々なら良いかもしれない……それで、どうしたのかな?」
おじいさんと会えたことへの嬉しさで、うっすらと浮かんでいた笑みが私の顔からサッと引いた。どこから話せばいいのだろう。それよりも、話していいのだろうか。見ず知らずの私の話をして、迷惑じゃないだろうか。
「話してごらん。ゆっくりでいい」
私の迷いを見透かしたように、おじいさんが言う。喉に詰まっているものを、下からそっと押すような声だった。
「どこから話せばいいのか……」
「どこからでもいいよ。好きなところから、自由に話しなさい」
おじいさんはもう一度、優しく押した。
「えっと……私は……」
オイルランプがちらちらと揺れる店内で、私はぽつぽつと話しだした。
「ふむ……」
たっぷり一時間ほどかけて話を聞いて、おじいさんは小さくひとつ頷いた。品のいい口ひげを指で摘まむように撫でながら、何か考えるように揺れるランプを見ている。おじいさんの目の前にある飲み物は、ピンク色の瓶からビールに変わった。
言葉が詰まってしまうこと。過去と夢の話。カイとルイのこと。それから、エリのこと。思いつくままに、話せるだけすべて話した。時系列も言葉もめちゃくちゃで決して聞きやすいとは言えない話を、おじいさんは一度も遮ることなく聞いていた。
「……それで、今、すごく困っています」
「二人の男の子にプロムに誘われるなんて、羨ましい話だわ」
おじいさんと一緒に私の話を聞いていた女性が、カウンター越しに笑う。羨ましいなら私と状況をぜひ交換してほしい。途方に暮れているのだ。
「まず……」
しばらく考えあぐねるようにしていたおじいさんが、私に体を向けた。私も慌てて、体をおじいさんに向ける。
「とても話せるようになったんだね。すごいじゃないか。そのことに私は非常に驚いた」
初めて出会った時と比べたら、私はかなり英語を操れるようになっている。あの頃の私が今の私を見たら、信じられないと驚くだろう。
「それから……何かに怯えて思うことを言わなかったり、自分の気持ちを犠牲にすることを絶対に許してはいけません。あなた以外の人が、あなたの人生を決めることを受け入れたらいけない。それが両親であってもです」
「……私も自由に生きていいのでしょうか」
「あなたの人生は、あなただけのものです。すべての選択をあなたがするんですよ。やりたいこと。やりたくないこと。好きな物。嫌いな物。全部です」
「私の、人生……」
噛みしめるようにゆっくりと言葉を繰り返した。口の中で砕けた言葉が、ゆっくりと脳に染みていく。
「あなたが決めたことに否定するようなことを唱える人がいても、気にする必要はありません。あぁ、アドバイスをしてくれる人はいるかもしれませんね。でも、その違いはわかるでしょう」
今までのことを思い返した。
この国で出会った人の中に、私のことを否定するようなことを言う人は一人も思い当たらない。『私なんか』という私にリースはそれをやめるように言った。それは、否定的な私を止めてくれただけで、私を否定したわけじゃない。
体重が気になって食事を減らすことを決めた私に声をかけたカイは、体のことを気遣ってしてくれたことだ。これも否定じゃないだろう。
常に自分のことをダメ人間で無能だと否定し続けてきたのは、誰でもない。私自身だ。
「周りの意思に振り回されずに、思う通りに生きていいんです」
「だけど、私は今、自分自身がどうしたいのかわからないんです」
話すことに夢中で中身が減らない瓶を握りしめる私に向かって、おじいさんが笑った。
「本当にそうかな? 落ち着いて考えてみて。あなたは、どちらの男の子とプロムに行きたいのでしょう。お友達の気持ちはとりあえず置いといて、考えてみてごらん」
カイとルイ。
私に対しての接し方も、態度も、喋り方も雰囲気もそれぞれ違う。違う人間なのだから当たり前だ。二人とも優しいが、優しさの表現の仕方もまったく違う。
ふと、プロムの話題が出てから何度もカイのことが脳裏に浮かんだことを思い出した。それを思い出した瞬間、頭の中に一筋の光が細く差し込んだ。それは、ずっと心の隅に隠してあった塊の膜のようなものを、ツンと針のようにつついた。
つつかれた膜はパンと弾けて、脳裏に、胸に、中身が飛び出す。
「私は……カイと行きたい……」
声に出したことで、気持ちは更に強く、濃くなる。
恋というものを今までしてこなかった私には、これが恋なのかわからない。でも止まらないのだ。額に手をあてて体調を気遣ってくれたことや、サッカー観戦から帰るとき、ロンドンで有無も言わさず私の手を引いたこと。心配そうに私を見る目と、あの強い瞳が優しく細まる瞬間。
私が今まで見たカイの表情が、あふれ出して止まらない。
「ほら。わかっているだろう。まだ、他にもあるね」
体の中を駆けまわる感情にぽーっとする私に、おじいさんは問いかける。
そうだ。私には、もうひとつやらなければいけないことがある。
「友達に謝りたい。許してくれるかわからないけれど、でも……」
そこまで言って、言葉を飲み込んだ。あんな風にエリを傷つけた私が、エリに声をかけて話をしたいなんてことが、許されるのだろうか。
すっかりぬるくなった瓶の中身を一口飲む。また沈みそうになる私を、おじいさんが引き止める。
「言いたいことがあるなら、言った方がいい。人がいつも後悔するのは、言ったことよりも言わなかったことです。思い当たる節があるんじゃないかな」
ルイに誘われたと、エリに言わなかったことを後悔している。それが自分で決めた結果ならまだしも、流されるままに行動していた結果が今だ。もう二度と、同じような過ちは繰り返したくない。
「私は、どうしても友達に謝りたい。許してくれなくても、それでも謝りたいです」
「うん。それがいい。きっと上手くいく。これまでのあなたの人生は、険しくつらいものだったかもしれません。その過去は変わらない。でも未来はいくらでも変えることができる。あなた自身の手で」
ずっと握りしめるようにしていた私の左手を取って、おじいさんが両手で優しく包み込んだ。少しごつごつした大きな手は、木漏れ日のように暖かくて優しい。
「よく、頑張りましたね。生きる上で大事なのは、人生を楽しむ。ただそれだけです」
私の目を見ながら、おじいさんが微笑む。
胸を突き上げてくる気持ちが、涙になってぽたぽたと落ちた。ずっとつらかった。苦しかった。誰かに聞いて欲しかった。言葉にならない気持ちがいくつも頬を伝って落ちていく。
「あらあら、若い子を泣かしちゃだめよ」
カウンターの中から私にティッシュを渡しながら女性が笑った。遠慮なくそれを受け取って涙を拭いた後、思い切り鼻をかむ。
「ははは。そうだね。お詫びにご馳走しよう。ビールがいいかな?」
おじいさんが試すような目で私を見た。
「ううん。ビールじゃなくて、甘いのがいいです」
自分が飲みたいものを答えた私に満足そうに頷いて、おじいさんは注文をする。
「それと、その飲み物のお金は私が払います。おじいさんの分も私が払いたい」
言いながらカウンターの上にお札を出す私を見て、おじいさんは目を丸くした。
「そうしたいんです」
まだ潤んだままの目に決意をのせて言う私に、おじいさんは両手をあげて降参したような仕草をした。
「あぁ、参った。まさかこんなことになるなんて……」
「いいじゃない。若いってとても素敵なことね」
コロコロと笑う女性に渡されたビールを、おじいさんは恥ずかしそうに受け取る。私の前にも栓を抜かれた瓶が置かれた。かき氷のブルーハワイのような青い液体が入っている。
静かにおじいさんと乾杯をしながら、瓶を傾ける。明日からやらなければいけないことがたくさんある。頭の中でイメージしながら、その後も小さなパブの中でしばらく私はおじいさんと話し続けた。
私の部屋の勉強机の上には、テキストの代わりに二本の薔薇が置かれていた。
赤い薔薇はカイ、白い薔薇はルイから渡されたものだ。
夕食を食べ終わって部屋で休んでいる私をルイが訪ねて来た。
「やぁ、ナツ。少し話したいんだけど、いい?」
「どうしたの?」
「前にプロムに誘ったとき、また誘うって言ったでしょ? だから、はい。僕とプロムに行ってくれない?」
そう言ってルイは、私に向かって白い薔薇を差し出した。
「えぇ……」
「あはは、何? その反応。プロムに誘われて、そんな反応する人がいるんだね」
眩暈がする。今、私はカイに誘われたことでいっぱいいっぱいだった。でも、断るなら今だ。声を出すために息を吸う。それよりも早く、ルイが声を出した。
「白い薔薇の花言葉を知ってる? 一目惚れって意味なんだ」
「……」
「自動販売機の前で僕がナツに水を渡した時、ナツは水を抱きしめて笑ったでしょう? あの時からずっと、ナツのことを目で追ってた」
眩暈がさらに強くなる。夢なら覚めてほしい。また言葉が詰まって出てこなくなる。
「ナツが笑った顔、いいよね」
「なんで、私なの……。エリは……」
「また、エリのこと? 僕はナツを誘ってるんだ。……カイにも誘われたんだね」
机の上に置かれた赤い薔薇を見て、ルイが言う。
「ナツがカイと行くことを決めて断られるなら、僕は全然かまわない。でも、そうじゃない理由で断るなら、僕は納得しない」
赤い薔薇の隣に並べるように、ルイが机に白い薔薇を置く。
「ナツは、どうしたい?」
首を傾げながら問いかけるルイを見ながら黙り込む私に、ルイは小さく笑った。
「返事は今じゃなくていいよ。キミの気持ちが決まったら教えて」
部屋から出るために扉を開けて、ルイが振り返る。
「ナツが決めるんだ」
そう言って、部屋に柔らかい雰囲気を残してルイは部屋を出て行った。
そして今、私の目の前に二本の薔薇がある。
「どうしよう……」
部屋に弱々しい私の声が響く。
よりによってどうして私なのだろう。私なんかより素敵な人は、あの学校にたくさんいる。エリだって、私なんかよりずっと可愛い。陰気ですぐに泣く私よりずっと素敵だ。言葉が出てこなくなって、急に黙るようなこともない。
何度も『私なんか』を繰り返しながら、大きく溜め息をつく。
『どうしよう……』
今度は日本語で呟く。私の声は、むなしく響いて天井に吸い込まれていった。
次の日、朝というには少し遅い時間に、私は一人朝食を食べていた。冷蔵庫にあるラップをかけられたガラスのボウルを取り出して、机の上に置く。中身はグリーンサラダだ。
体重計に衝撃的な数字を突き付けられてから、なんだか食欲がない。
『いてて……』
チクチクと痛む腹をさすりながら、サラダを取り分ける。胃が痛い理由は、部屋にある二本の薔薇のせいだ。
調味料が並ぶ棚から酢を取り出してサラダにかける。それを、義務のように口に運んだ。
「食事はしっかり取りましょう」
目の前にティンブレッドが入った袋が、どさりと置かれた。顔を上げた私の前に、カイはジャムの瓶を並べていく。
「これ、好きだろ」
そう言いながら、私がお気に入りにしているチョコペーストを最後に置いた。
「今は封印してるの」
瓶をひとつずつ元にあった場所に戻す私を、カイはやれやれといった様子で眺めている。
「好きな物を我慢しないといけないほど、ナツは太ってないよ。食事の管理が必要なほどダイエットをしないといけないのは、健康に問題があるときだけだ」
そう言いながら電気ポットの電源を入れるカイの背中を見つめる。がっちりしとした大きな背中。体を動かすことが好きな彼は、体重で悩んだことなんかないだろう。
もやもやと、私の意識が過去に引っ張られていく。
『あんた、また太ったんじゃない?』
学校から持ち帰った健康診断の結果を見た母親は、私に向かって吐き捨てるようにそう言った。母親が見ている紙に書かれている体重は、ほぼ平均値だ。
『みっともない。洋服も着れなくなるし、見ていて不快よ』
『はい……』
そうか。みっともないのか。不快なのか。
俯きながら消えそうな声で返事をした私に向かって、大きな溜息をつきながら母親は持っていた紙をゴミ箱に投げ捨てた。
「ところでさ。どうしてそんなに気になるの? 理由があるんだろ? あ。プロムのドレスを綺麗に着たいとかそういう理由? それなら理解できる」
紅茶が入ったカップを二つ持って、カイが前の席に座る。同時にまるで目の前にいるように見えていた母親の姿が霧のように消えた。
「みっともないでしょ。今のままじゃ」
「なぁ、何言ってんの?」
両方のカップに砂糖とミルクを淹れてかき混ぜた後、そのうちの一つを私の前に置いた。
「周りの目を気にして、食事を減らすようなことしてるの? それならやめろよ」
「私の勝手じゃん」
「そうだよ。ナツ自身が納得できなくて体を絞りたいならいいんだ。でもそうじゃないなら気にするなよ」
無言でサラダを食べる私を、カイは心配そうな顔で見ている。
「周りの目を気にする必要なんかないって言ってるんだ。ナツがナツであればいい。お前の周りにいる人たちは、みんなそう思ってると思うよ」
「私がこーんなに大きくなっても、カイは同じことが言える?」
両手を大げさに広げて言う。それでもカイは、真面目な顔を崩さずに頷いた。
「言えるよ。健康に問題がないならいいじゃん。ナツが自分のことを好きなら、どんな風でもいいんだよ。例えば毎日、歌舞伎メイクをするようになっても、ナツがそうしたいなら別にいいよ」
歌舞伎メイクをして町を歩く自分を想像して少し笑ってしまった。私が笑ったのを見て、カイもつられたように笑う。
「好きな自分で生きてるだけなのに、それを否定してくる奴もたまにいるけどさ。それは否定する奴が間違ってると思うよ」
私がやりたいようにすると必ず否定してきた私の両親は間違っている、ということだろうか。本当に、そうなのだろうか。
「もし、不必要に否定されたなら俺に話せよ。一緒に『それはひどい』って怒ってやる。だから、食事を減らすのはやめな。なりたい自分になるために痩せたくて散歩するなら、いくらでも付き合うからさ」
私の頭の上にポンと手を置いて、カイが立ち上がる。ダイニングから出ていくカイを視線で見送っていると、小さく「あ」と呟いて振り返った。それから、念を押すように言う。
「昨日の返事、待ってるから」
きゅうっと胃が痛むのを感じて、目の前にあったカップを手に取り一口飲む。甘さが口に広がって脳が痺れる感覚に思わず目を閉じた。ヒルダがよく作ってくれた甘いミルクティを思い出す。
「私がどうなりたいかって、難しいよ。ヒルダ」
夢の中でヒルダが言っていたことをポツリと呟いて目を開ける。
食事を減らす私を、カイは心配そうにしていた。カイの残像が見える気がする。
「……わかったよ」
目の前の空席に向かって言いながら置かれたティンブレッドを一枚取り出して、トースターのスイッチを入れた。
机の上にテキストを開いて、宿題を進める。しばらく集中していた手を止めて顔を上げると、二本の薔薇が私を見つめ返した。花瓶代わりのグラスにいれられた薔薇が、どうするんだとずっと私に言っている。だらりと両手を下げて、天井を見上げる。
「どうしよう……」
昨日から何度も繰り返している言葉を呟く。
薔薇に責められているような気がして仕方がない。紅茶でも飲んで一息入れよう。やりかけのテキストを閉じてダイニングに向かう。
「あら、ナツ。調子はどう?」
「順調だよ」
夕食の準備をするリースに向かって、実際の状況とは真逆の返事をする。全然順調じゃない。ばれないように溜め息をつきながら、ポットのスイッチをいれてカップを棚から取り出した。
「やだ。いけない」
「どうしたの?」
「塩がないの。買い忘れたのね。嫌だわ」
白い陶器の瓶を持って、リースが困ったように笑った。
「私、買ってこようか」
「頼んでもいいかしら」
「もちろん」
少し外の空気を吸うのも気晴らしになりそうだ。取り出したカップを棚にしまってポットのスイッチを切る。
「ついでにこれもお願い。気をつけてね」
「わかった。できるだけ早く戻るね」
買い物リストが書かれたメモを受け取って家を出る。
「塩、トマト三個、マッシュルーム、それにヨーグルト。ヨーグルトは低糖のやつ」
メモをぶつぶつと読み上げながら、スーパーに向かって少し早歩きで向かう。オレンジ色に染まり始めた町は、たくさんの家から美味しそうな匂いが漂っている。今日の我が家の夕食がいつ出来上がるかは、私のおつかいにかかっている。早く買って帰らないといけない。
「はい、お釣り。毎度どうも」
「ありがとう」
備え付けられた椅子に座って、くっちゃくっちゃとガムを噛みながらレジを打つ店員からお釣りを受けとる。初めて見たときは驚いた。座っていることにもガムを噛んでいることにも驚いたが、面倒くさそうに無表情でレジを打つことに衝撃を受けた。
日本で同じことをしたらあっと言う間に大量のクレームが届いて、レジ係を外されるだろう。でもここはイギリスだ。日本の常識は通用しない。
茶色い紙袋に詰まった品物を抱えて、急ぎ足で家に向かう。その背中に、聞きなれた声がした。
『ナッちゃん』
『あ、エリ。エリも買い物?』
『……』
同じ紙袋を抱えたエリが、少し息を切らしながら私のシャツの裾を握った。スーパーから追いかけて来たのだろうか。
『どうしたの?』
『ナッちゃん、ルイにプロムに誘われたよね?』
頭のてっぺんから氷の棒を突き刺されたような感覚にただ突っ立つ私を、じっとエリが見つめる。
『私、ナッちゃんから言ってくるのをずっと待ってたんだよ』
『……どうして知ってるの?』
絞りだすように言った私の言葉に、エリの目に怒りが浮かんだ。
『ショッピングモールでルイに聞いた』
言うべきなのか悩んでいた。どうすればいいのかわからなかった。秘密にしていたわけじゃない。どうすればエリが傷つかないで済むのか、物事が丸く収まるのか、ずっと考えていただけだ。
硬直したままの私に、エリは畳み掛けるように言う。ずっと我慢していたものが溢れたような勢いだった。
『昨日の昼もひどいよ。きっと行けるよ、だなんてよく言えたよね。私がルイと行けたらいいなって悩むのを、どんな気持ちで見てたの? 私が哀れで言えなかった? やめてよ。変な風に同情するの』
『違うよ。哀れだなんて思ってない』
『じゃあ、なんだって言うの。ルイに誘われなくて落ち込む私は、さぞかし滑稽だったんだろうね』
エリが自嘲的な笑みを顔に浮かべた。
じゃあ、どうすればよかったのだろう。私が正直に誘われたことを言っていれば、エリがこんな風に笑うような結果にならなかったのだろうか。わからない。ずっとエリがどうしてほしいのか考えていただけなのに、伝わらない。
『ナッちゃんはいいよね。優しいステイメイトと親切な家主に恵まれて、ルイともあっと言う間に仲良くなって、英語だってすぐにペラペラになってさ。順風満帆じゃん。私とは大違いで、笑っちゃう』
思わずムッとする自分を、抑え込めなかった。
イギリスに来てから今日まで、決して順調な毎日だったわけじゃない。英語がわからなくて、毎晩のように枕を濡らしていた時期もある。ここにきてから悪い夢も見るようになった。
いつも天真爛漫に生きているエリがどれだけ羨ましかったか、彼女には絶対にわからない。そういられる人生を彼女が歩んできた証拠だ。何か言うたびに叱られたり、殴られたり、否定されるような日々を彼女はきっと知らない。
『エリにはわからないよ。私の気持ちなんて』
こぼれ落ちたように出た私の言葉を聞いたエリの目が大きく見開いた。みるみるうちに、涙が溜まっていく。
私が自分の思うことを表現するのが下手なことは自覚している。やりたいことやしたいことを意思表示せずに、両親が望む通りに生きて来たのだ。好きでそうしてきたわけじゃない。そうやって出来る限り淡々と過ごさないと、今まで生きてこられなかったからだ。
『わかるわけないじゃん。ナッちゃんは今まで、私に、自分がどう思ってるのか言ってくれたことある? ないよね。いつもエリはどうしたい? って聞いてくるんだよ。最初は優しい子だなって思ったけど、違ったみたい』
そうだ。私は常にそうしてきた。エリにだけじゃない。誰にでもだ。
今までずっと、私がどうしたいかよりも、両親がどうしたいのかが私にとって重要だった。そう聞くのは私にとって自然なことで、当たり前だったのだ。
瞬きをしたエリの目から涙が落ちた。ずっと掴んでいたシャツを離して、エリが慌てたように顔を拭う。
『もういい』
真っ赤な目で私を見つめた後、エリはくるりと背中を向けて遠ざかっていった。
自分の中に渦巻く感情の行き場がない。頭の中は真っ白だ。自分を抱きしめるように力を込めた腕の中で、紙袋がガサリと音をたてた。
「あぁ、早く家に帰らないと」
抑揚のない声で呟いて、体の向きを帰る。そうインプットされているロボットのように手足を動かして、私は家を目指して歩き出した。
私の帰宅が予定よりも遅れたせいで、夕食の時間も少し遅れた。
「遅くなってごめんなさい」
「いいのよ。助かったわ」
珍しく全員が時間通りに揃っている食卓に、リースが手際よく料理を並べていく。
「ナツが塩を買ってきてくれたおかげで、今日の食事が無事に出来上がったんだ。少し遅くなったぐらいで落ち込むなよ」
「そうそう。全然気にしていないよ」
どんよりと俯く私に向かって、カイとマークはフォローするように声をかけた。
二人の声を水の中で聞いているような気がする。もわもわとしていて、聞きとりにくい。うまく返事ができないまま、自分の前に並べられた料理を食べすすめる。
味がしない。
塩は私が買ってきた。だから薄いなんてことはないはずだ。目の前の二人も、料理の味に関して特に反応はない。私の感覚がおかしくなっているだけで、普段と変わらないのだろう。
「ごちそうさま」
もういらないと言っている胃の中に、皿の上の物を無理やり詰め込んで席を立つ。
「全部食べたの? 偉いじゃん」
「うん。おやすみ」
二日振りに食べ残すことなく全部平らげた私に向かって、カイが安心したように笑う。胃の中のものが、ぐっと逆流しそうになるのを水で流し込んでダイニングをあとにする。
「少し遅れたぐらいで、あんなに落ち込むことないのに」
「ナツは責任感の強い子だからね」
二人の声を背中で聞きながら部屋へと戻る。
私が落ち込んでいる理由は、夕食が遅れたからじゃない。エリを傷つけて、怒らせてしまったからだ。もっとうまく立ち回れたはずなのに、出来なかった。
ルイに誘われたことを、何度も言おうとした。それなのに、目の前で思いを馳せて幸せそうに笑うエリの顔が消えてしまうのが嫌で、言うことができなかった。
ベッドの上にばたりと倒れて体を沈める。
そのまま、一日のタスクを終了した機械のように、私は意識の電源を切った。
それから三日間。エリとの冷戦状態が続いた。
授業が終わると私の方を見向きもせずにエリは一目散に帰っていく。目が合うことが時々あったが、どちらからともなく目を逸らした。このままで言い訳がないのに、どうしたらいいかわからない。こんな風に友達と衝突をしたことも今までなかった。
もう花が咲いたようにエリが笑ってくれることは、ないのかもしれない。
カイとルイに、プロムの返事もしていない。彼らと目が合うたびに急かされているような気がして、胃がきゅうっと痛くなる。
完全に途方にくれていた。
誰かに話を聞いて欲しい。
一日やらなければならないことを全て終わらせて、部屋で一人呆けたように座っていた。
でも、こんなときに私の話を聞いてくれていたヒルダはもういない。他に思いつく人もいなかった。カイやマークの顔も一瞬脳裏によぎったが、なんとなく彼らに話すことに抵抗があった。
窓際の薔薇が責めるように私を見ている。グラスの水を変えようと手に取ったとき、外から楽しそうに歩く人の声が聞こえた。
ふと思いついた。
私がここに来たばかりの時。一人で行ったあの小さなパブに行ってみよう。もしかしたら、おじいさんに会えるかもしれない。私の拙い英語を穏やかに聞いてくれたおじいさんの顔が浮かぶ。
水を取り替えたグラスに薔薇を元通り挿した後、身支度を整えて抜け出すように家を出た。
もうすぐ訪れる夜の匂いを漂わせている夕暮れ町を、パブに向かって歩く。
行っても会えないかもしれない。それでもなぜか、会えるという確信めいた予感があった。迷うことなく歩みをすすめて視界に小さなパブが見えたとき、思わずほっと溜息が出た。
外から覗くと、初めて見た時と同じように二人の女性がカウンターの中で接客をしているのが見える。おじいさんの姿は見えないが、中に入って聞いてみよう。前回ここに来た時の私にはできなかったことができるようになっている。
少し緊張しながらパブの中に入ってきた私を、初老の女性が柔らかく迎えた。
「カウンターでいいかしら? 念のため、年齢の確認をさせてもらえる?」
学生証を見せながらカウンター席に座る。アジア系の生徒は、この国で実年齢よりもかなり若く見られることが多い。
休日にエリと町のゲームセンターで遊んでいた時、声をかけてきた男の子たちに年齢を言ってものすごく驚かれたことを思い出す。逆に年齢を聞き返したら、彼らはまだ十四歳だと答えた。そうは見えない大人っぽい姿に、彼らに負けないぐらい私たちも驚いた。それから、中学生にナンパされてしまったことに、エリと二人で声を出して笑った。
またあんな風に笑い合うことができるだろうか。無理かもしれない。現実にずんと胸が重くなる。
「十九歳ね。ありがとう。学生証をしまっていいわ。何を飲む?」
「お酒のことがあまりわからないんです。何か飲みやすい物をください。ビールじゃないやつ」
女性がカウンターの中にある冷蔵庫から、明るいピンク色をした液体が入った瓶を取り出す。
「これ、甘くて飲みやすいわ。四ポンドよ」
財布の中からお金を出して、瓶を受け取った。
この色は、エリが好きそうだ。また私はエリのことを思い浮かべている。一口飲んで、うっすらと感じる甘さとアルコールの味を堪能する。ビールよりもずっと良い。
紙のコースターの上に瓶を置いて、グラスを磨いている女性に向かって聞く。
「すみません。おじいさんは今日、来ますか?」
「どのおじいさんかしら。ここにはたくさん来るわよ」
「えっと、チェック柄のハンチング帽を被っていて、近所に奥さんと二人で住んでいて……」
あの日のおじいさんを思い出しながら話す私に、女性がふんわり笑う。それから視線を私よりも後ろに向けた。
「彼のことかしら」
女性の目線を追って振り返った私の目に、あのおじいさんが見えた。
「おや、久し振りだね」
出会ったときと同じハンチング帽を片手で少し持ち上げて、おじいさんが微笑んだ。
「……」
本当に会えたことに胸がいっぱいになって、思わず言葉を失ってしまった私の代わりに女性が声をかける。
「あなたに会いに来たみたいよ。こんな若い子を待たせるなんて、悪い人ね」
「ははは、それは悪いことをしたね」
おじいさんが隣の席に座りながら、私に向かって右手を差し出す。
「本当に私に会いに来たのかい? どうしたの? 何かあったのかな」
握手をしながら、何度も頷く私に向かっておじいさんはにっこり微笑んだ。
「私に彼女と同じものを」
「あら、ビールじゃないのね」
「たまにはいいと思ってね」
私に向かってウインクをしながら、私が握っている瓶と同じピンク色の液体をおじいさんが飲む。
「うーん、甘いね。時々なら良いかもしれない……それで、どうしたのかな?」
おじいさんと会えたことへの嬉しさで、うっすらと浮かんでいた笑みが私の顔からサッと引いた。どこから話せばいいのだろう。それよりも、話していいのだろうか。見ず知らずの私の話をして、迷惑じゃないだろうか。
「話してごらん。ゆっくりでいい」
私の迷いを見透かしたように、おじいさんが言う。喉に詰まっているものを、下からそっと押すような声だった。
「どこから話せばいいのか……」
「どこからでもいいよ。好きなところから、自由に話しなさい」
おじいさんはもう一度、優しく押した。
「えっと……私は……」
オイルランプがちらちらと揺れる店内で、私はぽつぽつと話しだした。
「ふむ……」
たっぷり一時間ほどかけて話を聞いて、おじいさんは小さくひとつ頷いた。品のいい口ひげを指で摘まむように撫でながら、何か考えるように揺れるランプを見ている。おじいさんの目の前にある飲み物は、ピンク色の瓶からビールに変わった。
言葉が詰まってしまうこと。過去と夢の話。カイとルイのこと。それから、エリのこと。思いつくままに、話せるだけすべて話した。時系列も言葉もめちゃくちゃで決して聞きやすいとは言えない話を、おじいさんは一度も遮ることなく聞いていた。
「……それで、今、すごく困っています」
「二人の男の子にプロムに誘われるなんて、羨ましい話だわ」
おじいさんと一緒に私の話を聞いていた女性が、カウンター越しに笑う。羨ましいなら私と状況をぜひ交換してほしい。途方に暮れているのだ。
「まず……」
しばらく考えあぐねるようにしていたおじいさんが、私に体を向けた。私も慌てて、体をおじいさんに向ける。
「とても話せるようになったんだね。すごいじゃないか。そのことに私は非常に驚いた」
初めて出会った時と比べたら、私はかなり英語を操れるようになっている。あの頃の私が今の私を見たら、信じられないと驚くだろう。
「それから……何かに怯えて思うことを言わなかったり、自分の気持ちを犠牲にすることを絶対に許してはいけません。あなた以外の人が、あなたの人生を決めることを受け入れたらいけない。それが両親であってもです」
「……私も自由に生きていいのでしょうか」
「あなたの人生は、あなただけのものです。すべての選択をあなたがするんですよ。やりたいこと。やりたくないこと。好きな物。嫌いな物。全部です」
「私の、人生……」
噛みしめるようにゆっくりと言葉を繰り返した。口の中で砕けた言葉が、ゆっくりと脳に染みていく。
「あなたが決めたことに否定するようなことを唱える人がいても、気にする必要はありません。あぁ、アドバイスをしてくれる人はいるかもしれませんね。でも、その違いはわかるでしょう」
今までのことを思い返した。
この国で出会った人の中に、私のことを否定するようなことを言う人は一人も思い当たらない。『私なんか』という私にリースはそれをやめるように言った。それは、否定的な私を止めてくれただけで、私を否定したわけじゃない。
体重が気になって食事を減らすことを決めた私に声をかけたカイは、体のことを気遣ってしてくれたことだ。これも否定じゃないだろう。
常に自分のことをダメ人間で無能だと否定し続けてきたのは、誰でもない。私自身だ。
「周りの意思に振り回されずに、思う通りに生きていいんです」
「だけど、私は今、自分自身がどうしたいのかわからないんです」
話すことに夢中で中身が減らない瓶を握りしめる私に向かって、おじいさんが笑った。
「本当にそうかな? 落ち着いて考えてみて。あなたは、どちらの男の子とプロムに行きたいのでしょう。お友達の気持ちはとりあえず置いといて、考えてみてごらん」
カイとルイ。
私に対しての接し方も、態度も、喋り方も雰囲気もそれぞれ違う。違う人間なのだから当たり前だ。二人とも優しいが、優しさの表現の仕方もまったく違う。
ふと、プロムの話題が出てから何度もカイのことが脳裏に浮かんだことを思い出した。それを思い出した瞬間、頭の中に一筋の光が細く差し込んだ。それは、ずっと心の隅に隠してあった塊の膜のようなものを、ツンと針のようにつついた。
つつかれた膜はパンと弾けて、脳裏に、胸に、中身が飛び出す。
「私は……カイと行きたい……」
声に出したことで、気持ちは更に強く、濃くなる。
恋というものを今までしてこなかった私には、これが恋なのかわからない。でも止まらないのだ。額に手をあてて体調を気遣ってくれたことや、サッカー観戦から帰るとき、ロンドンで有無も言わさず私の手を引いたこと。心配そうに私を見る目と、あの強い瞳が優しく細まる瞬間。
私が今まで見たカイの表情が、あふれ出して止まらない。
「ほら。わかっているだろう。まだ、他にもあるね」
体の中を駆けまわる感情にぽーっとする私に、おじいさんは問いかける。
そうだ。私には、もうひとつやらなければいけないことがある。
「友達に謝りたい。許してくれるかわからないけれど、でも……」
そこまで言って、言葉を飲み込んだ。あんな風にエリを傷つけた私が、エリに声をかけて話をしたいなんてことが、許されるのだろうか。
すっかりぬるくなった瓶の中身を一口飲む。また沈みそうになる私を、おじいさんが引き止める。
「言いたいことがあるなら、言った方がいい。人がいつも後悔するのは、言ったことよりも言わなかったことです。思い当たる節があるんじゃないかな」
ルイに誘われたと、エリに言わなかったことを後悔している。それが自分で決めた結果ならまだしも、流されるままに行動していた結果が今だ。もう二度と、同じような過ちは繰り返したくない。
「私は、どうしても友達に謝りたい。許してくれなくても、それでも謝りたいです」
「うん。それがいい。きっと上手くいく。これまでのあなたの人生は、険しくつらいものだったかもしれません。その過去は変わらない。でも未来はいくらでも変えることができる。あなた自身の手で」
ずっと握りしめるようにしていた私の左手を取って、おじいさんが両手で優しく包み込んだ。少しごつごつした大きな手は、木漏れ日のように暖かくて優しい。
「よく、頑張りましたね。生きる上で大事なのは、人生を楽しむ。ただそれだけです」
私の目を見ながら、おじいさんが微笑む。
胸を突き上げてくる気持ちが、涙になってぽたぽたと落ちた。ずっとつらかった。苦しかった。誰かに聞いて欲しかった。言葉にならない気持ちがいくつも頬を伝って落ちていく。
「あらあら、若い子を泣かしちゃだめよ」
カウンターの中から私にティッシュを渡しながら女性が笑った。遠慮なくそれを受け取って涙を拭いた後、思い切り鼻をかむ。
「ははは。そうだね。お詫びにご馳走しよう。ビールがいいかな?」
おじいさんが試すような目で私を見た。
「ううん。ビールじゃなくて、甘いのがいいです」
自分が飲みたいものを答えた私に満足そうに頷いて、おじいさんは注文をする。
「それと、その飲み物のお金は私が払います。おじいさんの分も私が払いたい」
言いながらカウンターの上にお札を出す私を見て、おじいさんは目を丸くした。
「そうしたいんです」
まだ潤んだままの目に決意をのせて言う私に、おじいさんは両手をあげて降参したような仕草をした。
「あぁ、参った。まさかこんなことになるなんて……」
「いいじゃない。若いってとても素敵なことね」
コロコロと笑う女性に渡されたビールを、おじいさんは恥ずかしそうに受け取る。私の前にも栓を抜かれた瓶が置かれた。かき氷のブルーハワイのような青い液体が入っている。
静かにおじいさんと乾杯をしながら、瓶を傾ける。明日からやらなければいけないことがたくさんある。頭の中でイメージしながら、その後も小さなパブの中でしばらく私はおじいさんと話し続けた。