午前の授業を終わらせた学校の中庭で、エリが大げさに嘆いた。

『あああ。どうしよう。ルイがプロムに誘ってくれない……』

 今日もモリモリと小さな口で大きなサンドイッチを食べるエリは、相変わらず小柄だ。同じような食生活なはずなのに、どうして体形が変わらないのだろう。不思議だ。
 膝の上にある小さなサラダを食べながら真剣に考え込む私の耳に、エリのか弱い声が聞こえてくる。

『ねぇ、もしもさぁ。誰にも誘われなかったら、プロム、一緒に行こうよぅ』

『大丈夫だよ。きっとルイと行けるよ』

 しゅんと俯くエリに向かってそう言いながら、自分の言葉の無責任さに我ながら呆れた。ルイに誘われたことは、言えないままだ。何も言わないままでいるのは、後ろめたいことを隠しているようで気持ちが悪い。私は話した方がすっきりするし、その方がいい気がする。でも、エリはどっちの方がいいのだろう。
 顔色を伺うようにエリを見る。サンドイッチからトマトを抜きながら、エリが私をちらりと見た。

『ねぇ、ナッちゃん。あのさ……』

『何?』

 何か言いたそうにじっと私の目を見つめた後、エリは視線を逸らした。

『ううん。なんでもない。……あぁ、上手くいかないな。私、好きになった人と両思いにならなかったこと、あんまりないんだけどな……』

 エリは視線を遠くにしてぶつぶつ言いながら、トマトを抜いたサンドイッチをまた食べ始めた。
 そんなエリを見ながら、ポツリと思う。
 エリの天真爛漫で無邪気な様子がいつも羨ましかった。好きになった人と両想いになれなかったことがない人生なんて、私には考えられない。今だって、よくわからない感情の波に揉まれながら生きている。

 相変わらず私は、自分がどうしたらいいのかわからない。



 午後の授業も終わらせて、椅子の上で大きく伸びをした。今日は一日座学だった。形容詞、動詞、名詞という単語をようやく理解してきたところだ。少しずつ内容が理解できるようになってきているが、座学はやっぱり得意じゃない。なんだか肩が凝った気がする。

 ランチの時からずっと元気がないエリと二人で教室を出ると、目の前にカイが立っていた。

「終わった? 今日は一緒に帰ろう」

「え。いいの?」

「いいのって、何が?」

 本当に何もわかっていないような顔でカイが聞き返す。エルザと喧嘩でもしたのかもしれない。

「ううん。なんでもない。帰ろう」

 噴水の前を通り過ぎて三人で門を抜ける。私の日常だった下校の時間は、あっと言う間に久し振りになってしまった。

「なんか元気ないね。エリ」

「元気もなくなるよ……」

 カイに言われて、大きな溜息と一緒にエリがボヤく。いつもちょこちょこと元気に動いているエリががっくりと肩を落として歩く姿は、なんだかとても痛々しい。

「明日は学校も休みだし、ゆっくり休んで元気出せよ」

「休んでる場合じゃないんだってば……」

 当たり障りない励ましを受けてトボトボと遠ざかるエリの背中を見送って、家まで残りの坂を歩く。

「おい、どこ行くんだよ」

 まっすぐ家の前を通り過ぎようとする私をカイが止めた。

「ダイエットのために、少し歩こうと思って」

「なんだそれ」

 立ち止まらずに海辺の方向に歩き続ける私を、面白いものを見るような顔でカイが見ている。

「俺も付き合うよ」

 開けかけた玄関を閉めて、カイが隣を歩き始めた。

「いいの? 宿題とか忙しくない?」

「予定があったら付き合わないよ。ナツは人のことを気にしすぎ。ありがとうって言えばいいの」

「……ありがとう」

 目的もなく、ただ気の向くままに町を歩きまわる。大した会話もないが、なぜか居心地がいい。彼の前だと、幾分か私は素直になれている気がする。

「ナツは、どこにでもあるような物が好きだよね」

 私の視線を追って、カイが私が見ているものを指さした。私が素敵だなと思うのは、ゆらゆら揺れるオイルランプや潮風で錆びた看板。それに、クルクルまわる物干し。この国なら、どこにでもあるような物ばかりだ。

「あれも好きなんじゃない?」

 カイの指が示す先に、黄色い消火栓がある。円柱が麦わら帽子を被っているような形がポップで可愛い。少し塗装が剥げて錆びてるのも味があっていい。

「うん。好き」

 私が好きな物を理解してくれる人がいるのが嬉しかった。思わず頬が緩む。本と映画でしか見たことがなかった物が、人々の生活に溶け込んでいるのが素敵だと思う。
 この国はまるで、宝物を詰め込んだおもちゃ箱みたいだ。



「少し座らない?」

 小一時間ほどかけて小さな町をぐるりと一周した頃、カイがビーチを指さした。白い砂浜には並んで座れる大きさの流木がいくつも転がっている。

「うん。そうする」

 良さそうな流木を選んで、カイと並んで座る。

 空はゆっくりと薄く藍色に染まり始めていて、カモメの声も遠くなっていく。この時間帯の空のグラデーションが好きだ。夕焼けのオレンジと紫と薄い藍色、それから目を凝らさないと見えないほど微かに光る星が全部見える不思議な時間帯。

 寄せては返す波の音をききながら、呆けたように海を眺めていた。

「ナツ、これ」

 ふいに、カイが私の前に手を出す。

 目の前に、真っ赤な薔薇が一輪咲いた。手品のようにカイの手から出てきた薔薇に、視線を向けた私にカイは続けた。

「俺と一緒に、プロムに行ってほしい」

 すぐに言葉の意味が理解できない。ゆっくり視線を隣に向けると、カイの目が優しく細まるのが見えた。今、何を言われたのか考える。たっぷり時間をかけて、やっと私から出た言葉はこの上なく間の抜けたものだった。

「……はぁ」

「おい、はぁってなんだよ。はぁって……」

 がっくりと力が抜けてしまったカイと一緒に、薔薇もしゅんと下を向く。

「だって、エルザと行くんじゃないの?」

「なんで? 行かないよ」

「付き合ってるんじゃないの?」

「なんだそれ。付き合ってないよ。誰に聞いたの?」

 誰にも聞いていない。腕を組みながら仲良く帰る二人を見て、私が勝手にそう思っていただけだ。

「で、答えは?」

 まだ口の中でもごもごとする私に、カイが堪りかねたように言う。カイの強い目が真っすぐに私を見つめている。

 まただ。言葉が詰まって出てこない。

 正直、嬉しいと思った。でも、私でいいのかわからない。私なんかって言うのをやめて、とリースに言われたばかりだ。けれど、やっぱり私は『私なんか』だ。

「私で、いいの?」

「ナツがいいんだ」

 おずおずとそう言った私に向かって、カイはまた真っすぐ声をかける。それでもすぐに頷くことができずにいた。

「でも、私……」

「待った……その先、ナツはなんて言おうとしてる?」

 遮るようにカイが声を発する。一度出かけた言葉が、喉の奥に引っ込む。

「当てようか。多分、ナツが言おうとしたのは『私なんか』だ」

 その通りだ。私なんかでいいのだろうか。いつもたくさんの人に囲まれている彼が、私なんかをプロムに誘うことを信じられずにいる。

「あのな。そうやって、俺のことを否定するのやめろよ」

「カイのことを、否定してるわけじゃないよ」

「ううん。してる」

 ゆっくり首を振りながらそう呟くカイの目から逃げたくて、視線を下に向ける。

「自分を否定することって、自分を好きだと思ってくれる人たちのことを否定するのと同じだと思う。自分のことを認めないまま、どうやって他の人の気持ちを大切にするんだよ」

 ゆっくりと静かにカイが紡ぐ言葉を聞きながら、『でも』『だって』と何度も頭の中で繰り返す。

「ナツが言う、『私なんか』をプロムに誘った俺はなんなの? 愚かだとでもいうの? 俺だけじゃない。お前のことを好きだって言う人たちがたくさんいるだろ」

 カイはそう言って何も言わなくなった。

 私はカイのことを否定したつもりはない。自分のことをけなしただけだ。それの何がいけないのだろう。今までずっと、そうして生きてきたのだ。期待せず諦めることで心の均等を保っていた。
 でも、カイが言うことは正しいのかもしれない。ついさっき私が好きな物をカイは理解してくれていたが、「あんなのどこにでもある」って言われたら自分を否定されたようで悲しい。


 下に向けていた視線を、ゆっくりと上に戻す。強い視線と目が合った直後、カイは私に向かって優しく微笑んだ。

「ナツと一緒に行きたいんだ。ナツが笑った顔、好きだよ。いい顔するよな」

 黙り込む私にカイがもう一度、薔薇を差し出す。

「返事はすぐじゃなくて良い。でも、これは受け取って。この町の花屋には、ナツが好きな色の花が赤い薔薇しかなかったよ」

 カイは動かない私の右手をそっと取って、薔薇を握らせた。
 胸の中に、カイの気持ちがぐっと詰め込まれた気がして苦しい。

「帰ろう。ナツ。リースが夕飯を準備して待ってる」

 手を握ったままカイは立ち上がって、引き上げるように私を立たせた。

「今日の夕飯はなんだろうなー」

 頭の後ろで手を組みながら家に向かって歩き出すカイに、すぐについていくことができなかった。自分の許容範囲を超えることが起きると、すぐに一人になりたくなってしまう。貝のように閉じこもって、気が済むまでじっとしていたい。
 日本にいたときは、それが簡単にできた。だけど、この国で出会う人たちは私を放っとかない。殻に閉じこもるのは、なかなか難しい。

 カイとの間隔がかなりあいた頃、ようやく私の足が動いた。カイは私を待つように、ゆっくり歩いている。あまり間隔が縮まらないように、オレンジ色に染まる浜辺をゆっくりと歩く。そんな私を、渡された薔薇がじっと見つめていた。