カイとエルザが一緒に帰るようになってから、カイと一緒に帰るという私の日常がひとつなくなった。カイが町に寄って帰ってくることも増えて、マークと二人きりの夕食になることもしばしばだ。
今日の夕食も、私の前の席は空席だ。
「カイがいなくて寂しい?」
つい視線を前に向けてしまう私に、マークが言う。
「寂しいといえば、そうなのかも。どんどん人が減っちゃう。マークはいなくならないでね」
「さて、どうしようかな」
「やだよ。一人で食べるのは寂しい」
この家に来た直後、私は一人で食事をしたがっていた。それなのに今は賑やかだった食卓が恋しい。
「間に合った!」
バタバタとカイがダイニングに入ってきて、私の前の席に座る。
「おかえり」
「おう。ただいま」
声をかけた私に、カイの目が少し笑う。席に着いたカイから、薔薇のような香りがする。学校で、エルザとすれ違う時にする匂いと同じだ。香ばしく焼かれたローストチキンのいい香りがかき消されてしまった。彼女の香水はキツすぎる。少し控えればいいのに、だなんておせっかいなことを思う。
「最近、忙しそうだね」
「いや、別に忙しいわけじゃないんだ」
マークにそう答えるカイを見ながら、『忙しいじゃん』と心の中で呟く。
たった一人増えただけで、急にダイニングが賑やかになった。
「なぁ。お前、何色が好き?」
「え? 私?」
「そう。何色が好き?」
急な質問だ。カイは私が答えるのを待っている。少し考えてからぽつぽつと答えた。
「黒、赤、紫……かなぁ」
「へぇ。そうなんだ」
聞いといてその返事はなんだ。思わず吐息のような笑いが漏れてしまう。
「何? 心理テスト?」
「いや、違う。ただ、なんとなく。……あ。マーク。経済学の本、持ってない? レポート書くのに必要なんだ」
話を切り上げるように、カイが話題を変えた。よくわからないが、色の話は終わりのようだ。綺麗になった皿を持って、席を立つ。それをシンクに沈めて、ダイニングを後にする。
階段に向かう私に、リビングからリースが声をかけた。
「ナツ、プロムの相手は決まった?」
リースが大量の洗濯物を畳んでいるのを見て、私も手伝おうとリビングに入る。
「ううん。まだ」
「そう。早く決まるといいわね。あなたのドレス、用意してあるのよ」
「そうなの!?」
目を見開いて驚く私に、リースはゆっくりと頷く。
「えぇ。だって必要でしょう? あなたの洋服を測ってドレスのサイズを直したのだけど、合わせてみてもいいかしら」
ソファに置かれていた黒い布をリースが広げた。
「わぁ……」
目の前で揺れるドレスに、思わず声が漏れた。
上品な光沢のある黒いロングドレス。裏地が証明に照らされてオーロラのように光った。アシンメトリーになっている丈は、右側が少しだけ短い。
「ほら、立って」
ゆっくり立ち上がった私に、リースがドレスをあてる。生地に触れるとスルリとした感触が指に伝わった。
「うん。大丈夫そうね。このドレスに、ストーンとビーズで桜吹雪を作ろうと思っているの。桜は日本の花よね?」
「桜? うん。日本にたくさんある花だよ。凄い。素敵」
感激で頭がじんとしたのも一瞬だった。
私には、相手がいない。名残惜しい気持ちを隠さずにドレスを撫でながら俯く。
「でも、一緒に行く人がいないの」
「あなたなら絶対できるわよ」
「ううん。出来ないと思う。私は、美人じゃないし、私なんて……」
「……ねぇ、ナツ」
リースは話を遮って、私の両手を握った。手から離れたドレスがパサリと床に落ちる。
「あなたは、笑うと凄く魅力的。勉強も頑張ってる。ここに来た時より、たくさん話せるようになった。よく頑張ってるわ」
リースの瞳がまっすぐ私を見ている。
「あなたは、自分に自信が無いないのね。それは悪いことじゃないわ。でも、自分のことをそんな風に言っちゃダメ。いい? あなたのことを素敵だと思う。涙脆いところも、あなたらしくていいわ」
思わず涙ぐみそうになって唇を噛みしめる私の頬を、リースがそっと包んだ。
「あらあら、泣かなくていいの。怒ってるわけじゃないのよ。私はあなたが大好き」
「ありがとう」
「わかればいいわ。もう洗濯物を畳むのを手伝うのはいいから、明日に備えて早く寝なさい」
「うん。わかった。おやすみなさい」
「いい夢を見てね」
リースは私を軽く抱きしめた後、額にキスをした。
階段を上って部屋に入る。眠る準備をしてから、ベッドに潜り込んで目を閉じた。
できれば、いい夢をみられますように。さっきリースがおやすみのキスをしてくれたから今夜は大丈夫かもしれない。
体がとろりとなってベッドに沈むような感覚を感じた。それからすぐに、私は深く深く眠りに落ちた。
次の日の朝、私はバスルームの中で小さな悲鳴をあげた。
足元には体重計がある。
つい最近、学校のロビーで留学生たちが、「太った」と会話しているのを聞いた。そういえば、この国に来てから一度も体重を計っていない。
バスルームに無造作に置いてあった体重計を見つけて、気軽な気持ちで乗った。
見たことないような数字が、私の視界に見える。
確かに化粧をする時に少し顔がふっくらしたかなと思っていたし、デニムがほんのちょっときつくなった気がしていた。が、まさかここまでとは思わなかった。
じゃがいも料理が続く日々のせいだ。きっとそうだ。昼ごはんの大盛りケバブもやめよう。気のいい店員に、サービスしなくていいと伝えるのは気が引けるけれど。
がっくりと項垂れながらバスルームから出ると、シャワーの順番待ちをしているカイが廊下にしゃがんでいた。
「あ。遅くなってごめん。どうぞ」
「何か叫んでなかった? 虫でも出たの?」
入れ替わるようにバスルームに入ったカイが、きょろきょろと中を見渡す。
「……ったの」
「え? 何? 聞こえなかった」
「太ったの!」
両手を頬にあててムンクの叫びのような顔をする私を見て、カイはお腹を抱えて笑っている。笑うなんてひどい。私はこんなにショックを受けているというのに。
「そう? 全然わからないけれど」
「フォローになってないよ」
顎の下を摘まみながら、口を尖らせる。体重計の数字を見てから、顔がパンパンな気がして仕方がない。腹の肉も急に気になり始めた。
「大丈夫だって。ナツはいつでも可愛いよ」
「またそうやってからかう」
「ただし、笑っていれば、の話。だから、不貞腐れてないで機嫌を直せよ」
私の頬をつついて、カイはバスルームの扉を閉めた。
頬がみるみる紅潮するのがわかった。カイの指が触れた部分が熱い。
ふらりと二、三歩、後ずさった私を、ドン、と壁が受け止めた。
今までだって、こんな風に揶揄われることは何度もあったはず。でも、なぜかとても恥ずかしい。顔が熱い。どうしてこんなに私は動揺しているのだろう。
バスルームから漏れてくる鼻歌を聞きながら、初めて湧き上がってきた感情に何もできないまま、しばらくそのまま突っ立っていた。
今日の夕食も、私の前の席は空席だ。
「カイがいなくて寂しい?」
つい視線を前に向けてしまう私に、マークが言う。
「寂しいといえば、そうなのかも。どんどん人が減っちゃう。マークはいなくならないでね」
「さて、どうしようかな」
「やだよ。一人で食べるのは寂しい」
この家に来た直後、私は一人で食事をしたがっていた。それなのに今は賑やかだった食卓が恋しい。
「間に合った!」
バタバタとカイがダイニングに入ってきて、私の前の席に座る。
「おかえり」
「おう。ただいま」
声をかけた私に、カイの目が少し笑う。席に着いたカイから、薔薇のような香りがする。学校で、エルザとすれ違う時にする匂いと同じだ。香ばしく焼かれたローストチキンのいい香りがかき消されてしまった。彼女の香水はキツすぎる。少し控えればいいのに、だなんておせっかいなことを思う。
「最近、忙しそうだね」
「いや、別に忙しいわけじゃないんだ」
マークにそう答えるカイを見ながら、『忙しいじゃん』と心の中で呟く。
たった一人増えただけで、急にダイニングが賑やかになった。
「なぁ。お前、何色が好き?」
「え? 私?」
「そう。何色が好き?」
急な質問だ。カイは私が答えるのを待っている。少し考えてからぽつぽつと答えた。
「黒、赤、紫……かなぁ」
「へぇ。そうなんだ」
聞いといてその返事はなんだ。思わず吐息のような笑いが漏れてしまう。
「何? 心理テスト?」
「いや、違う。ただ、なんとなく。……あ。マーク。経済学の本、持ってない? レポート書くのに必要なんだ」
話を切り上げるように、カイが話題を変えた。よくわからないが、色の話は終わりのようだ。綺麗になった皿を持って、席を立つ。それをシンクに沈めて、ダイニングを後にする。
階段に向かう私に、リビングからリースが声をかけた。
「ナツ、プロムの相手は決まった?」
リースが大量の洗濯物を畳んでいるのを見て、私も手伝おうとリビングに入る。
「ううん。まだ」
「そう。早く決まるといいわね。あなたのドレス、用意してあるのよ」
「そうなの!?」
目を見開いて驚く私に、リースはゆっくりと頷く。
「えぇ。だって必要でしょう? あなたの洋服を測ってドレスのサイズを直したのだけど、合わせてみてもいいかしら」
ソファに置かれていた黒い布をリースが広げた。
「わぁ……」
目の前で揺れるドレスに、思わず声が漏れた。
上品な光沢のある黒いロングドレス。裏地が証明に照らされてオーロラのように光った。アシンメトリーになっている丈は、右側が少しだけ短い。
「ほら、立って」
ゆっくり立ち上がった私に、リースがドレスをあてる。生地に触れるとスルリとした感触が指に伝わった。
「うん。大丈夫そうね。このドレスに、ストーンとビーズで桜吹雪を作ろうと思っているの。桜は日本の花よね?」
「桜? うん。日本にたくさんある花だよ。凄い。素敵」
感激で頭がじんとしたのも一瞬だった。
私には、相手がいない。名残惜しい気持ちを隠さずにドレスを撫でながら俯く。
「でも、一緒に行く人がいないの」
「あなたなら絶対できるわよ」
「ううん。出来ないと思う。私は、美人じゃないし、私なんて……」
「……ねぇ、ナツ」
リースは話を遮って、私の両手を握った。手から離れたドレスがパサリと床に落ちる。
「あなたは、笑うと凄く魅力的。勉強も頑張ってる。ここに来た時より、たくさん話せるようになった。よく頑張ってるわ」
リースの瞳がまっすぐ私を見ている。
「あなたは、自分に自信が無いないのね。それは悪いことじゃないわ。でも、自分のことをそんな風に言っちゃダメ。いい? あなたのことを素敵だと思う。涙脆いところも、あなたらしくていいわ」
思わず涙ぐみそうになって唇を噛みしめる私の頬を、リースがそっと包んだ。
「あらあら、泣かなくていいの。怒ってるわけじゃないのよ。私はあなたが大好き」
「ありがとう」
「わかればいいわ。もう洗濯物を畳むのを手伝うのはいいから、明日に備えて早く寝なさい」
「うん。わかった。おやすみなさい」
「いい夢を見てね」
リースは私を軽く抱きしめた後、額にキスをした。
階段を上って部屋に入る。眠る準備をしてから、ベッドに潜り込んで目を閉じた。
できれば、いい夢をみられますように。さっきリースがおやすみのキスをしてくれたから今夜は大丈夫かもしれない。
体がとろりとなってベッドに沈むような感覚を感じた。それからすぐに、私は深く深く眠りに落ちた。
次の日の朝、私はバスルームの中で小さな悲鳴をあげた。
足元には体重計がある。
つい最近、学校のロビーで留学生たちが、「太った」と会話しているのを聞いた。そういえば、この国に来てから一度も体重を計っていない。
バスルームに無造作に置いてあった体重計を見つけて、気軽な気持ちで乗った。
見たことないような数字が、私の視界に見える。
確かに化粧をする時に少し顔がふっくらしたかなと思っていたし、デニムがほんのちょっときつくなった気がしていた。が、まさかここまでとは思わなかった。
じゃがいも料理が続く日々のせいだ。きっとそうだ。昼ごはんの大盛りケバブもやめよう。気のいい店員に、サービスしなくていいと伝えるのは気が引けるけれど。
がっくりと項垂れながらバスルームから出ると、シャワーの順番待ちをしているカイが廊下にしゃがんでいた。
「あ。遅くなってごめん。どうぞ」
「何か叫んでなかった? 虫でも出たの?」
入れ替わるようにバスルームに入ったカイが、きょろきょろと中を見渡す。
「……ったの」
「え? 何? 聞こえなかった」
「太ったの!」
両手を頬にあててムンクの叫びのような顔をする私を見て、カイはお腹を抱えて笑っている。笑うなんてひどい。私はこんなにショックを受けているというのに。
「そう? 全然わからないけれど」
「フォローになってないよ」
顎の下を摘まみながら、口を尖らせる。体重計の数字を見てから、顔がパンパンな気がして仕方がない。腹の肉も急に気になり始めた。
「大丈夫だって。ナツはいつでも可愛いよ」
「またそうやってからかう」
「ただし、笑っていれば、の話。だから、不貞腐れてないで機嫌を直せよ」
私の頬をつついて、カイはバスルームの扉を閉めた。
頬がみるみる紅潮するのがわかった。カイの指が触れた部分が熱い。
ふらりと二、三歩、後ずさった私を、ドン、と壁が受け止めた。
今までだって、こんな風に揶揄われることは何度もあったはず。でも、なぜかとても恥ずかしい。顔が熱い。どうしてこんなに私は動揺しているのだろう。
バスルームから漏れてくる鼻歌を聞きながら、初めて湧き上がってきた感情に何もできないまま、しばらくそのまま突っ立っていた。