待ちに待った週末。
 私はカイとルイ、そしてエリの三人と電車に揺られていた。

「そんなにがっかりしないでよ。ナツ」

「そうだよ。ロンドンに行くのは違いないんだよ」

「そうだけど……」

 向かい合って座るルイとエリに言われて、ポツリと呟く。
 私ががっかりしている理由。それは、今日行く場所がロンドンの端のほうだと知ったからだった。ビッグベンやバッキンガム宮殿を見れるかもしれないと思っていたのに、それらがある場所からは結構離れているらしい。

「プレミアリーグだぞ。本当に滅多に取れないんだ」

 目の前でチケットをひらひらとさせて、カイが念を押すように言う。
 確かに、今日の試合に出てくるチームは、サッカーに興味がない私でも知っている世界的に有名なチームだ。赤いユニフォームがトレードマークだったと思う。カイが言う通り、人気があって取りにくいチケットなのだろう。それでも私は、せっかくロンドンに行くならサッカーよりも見たいものがたくさんあった。がっかりした気持ちを隠せずにいる。

〈キングスクロス駅に到着します〉

 日本の電車に流れる車内放送よりも、簡潔で無駄がないアナウンスが電車の中に響く。

「乗り換えだね」

 席を立って扉に向かうエリとルイについていこうとする私を、カイが呼び止める。

「おい。めちゃくちゃ人が多いから、絶対に迷子になるなよ。見失わないように気を付けて。ナツは携帯電話持ってないだろ? はぐれると大変だぞ」

「やだなぁ。子供じゃないんだから、大丈夫だよ」

 ケラケラと笑う私を、疑わしそうな目でカイが見つめている。この時は本当に大丈夫だと思っていたのだ。それなのに、それから十分もしないうちに私は三人を見失っていた。

 東京駅なんて目じゃないぐらいのたくさんの人。それから、駅というには勿体ないぐらい素晴らしい建物に目を奪われた私は、あっと言う間に一人になった。

「どうしよう。見失っちゃった……」

 立ち止まってきょろきょろとあたりを見回す。乗り換える路線はなんだっただろうか。こんなことなら、もっとしっかり聞いておけばよかった。英語で書かれている案内板を読もうと試みるが、立ち止まる私に次々と人がぶつかってゆっくり読むことができない。
 何度も謝りながら、不安が大きくなっていく。このまま三人と会えなかったら困る。こんなところで一人残されたら、どうしたらいいのかわからない。

「見ーつけた」

 人の流れに逆らえず、流されるまま歩いていた私の手首を誰かがつかんだ。

「ナツ、探したよ」

「ルイ!」

 見知った垂れ目の顔を見てホッと息を吐く。一人で取り残される心配がなくなったことに、思わず目が潤んだ。

「もう平気。怖かった?」

 ポケットから携帯電話を取り出して、ルイが電話をかけた。相手はカイだろう。
 カイやルイのように数年単位で留学する人たちは携帯電話を持っていた。私やエリのような短期留学の人で持っている人はいない。
 携帯電話がないのはやっぱり不便だ。私も外国で使えるように契約して持ってくればよかった。電話をしているルイの姿を見ながら、ぽつりと思う。

「よし、行こう。カイたちは、目的地の駅まで先に行ってるって。キングスクロスは人が多いから、目的地で会う方が楽なんだ」

「うん。ごめんね」

「それじゃあ……」

 ルイが私に向かって右手を差し出した。差し出された理由がわからないまま、握手をする。

「あはは、何やってるの? 違うよ。こっち」

 握手している手をほどいて、ルイは私の左手を掴んだ。

「手をつないだ方がいいでしょ? またはぐれたら困るもん」

「えっ。それは、ちょっと……」

「ナツは迷子になりたいの? あ、恥ずかしい? じゃあ、僕の小指を掴んで」

 恥ずかしいのもそうだが、エリのことが脳裏によぎった。でも、またはぐれるのは嫌だ。この人ごみの中でルイが見つけてくれたのは、運がよかったのだと思う。ルイの小指を軽く握る。

「よし。じゃあ、行こう」

「はい。よろしくお願いします」

 しょんぼりする私を誘導しながら、ルイは器用に歩く。スルスルと人の間を縫うように歩いて、あっと言う間に乗り換えホームにたどり着いた。ここまで来れば大丈夫だろう。握っていた手をそっと離す。

「あれ、離しちゃうの?」

「うん。もう平気でしょ?」

「そうかなぁ。油断するとまたはぐれるかも」

 揶揄うような顔するルイをじっと見つめる。これからホームに人が増えるのだろうか。ルイの言う通り、まだ握っていた方がいいのだろうか。

「冗談。だから、そんな不安そうにしないで」

 ルイがそう言うのを聞いて、ようやく安心した。もうあんな心細い思いをするのはごめんだ。ホームに掲げられた電光掲示板を見ながら、電車が来るのを待つ。

「迷惑かけてごめんね」

「全然大丈夫。問題ないよ。だから、もう落ち込むのはやめて笑ってよ。ナツの笑ってる顔、好きだな。可愛いと思う」

「えっ」

「何?」

 なんでもないような顔をして、ルイが首をかしげる。
 特別な感情がなくても、彼らは良く人を誉める。可愛いとか、目が綺麗とか、いいなと思ったことは、とにかくストレートに褒める。
 この国に来てしばらく経つが、外国のこういった文化にどうしても慣れない。
 
 私は褒められたり、認められたりすることに慣れていない。謙遜と遠慮と察する文化で生きてきた、自己肯定感の低い一般的な日本人なのだ。褒められたときは、どう答えるのが良いのだろう。

「あ、電車来たね。さぁ行こう。カイたちが待ってる」

 音をたてて電車がホームに滑り込む。手動の扉を開けてルイと向かい合って座った。


 窓に頬杖をついて流れる景色を見ていた。ふと視線を感じて顔を向けると、ルイと目が合った。優しく細まるルイの垂れ目が私をじっと見ている。なんとなく気まずくなって、曖昧に笑い返した後、また視線を窓の外に向けた。


 カイたちと無事に落ち合って、目的地であるスタジアムに向かう。

「だから言っただろ? あまり心配させるなよ」

「うん。ごめんなさい」

 電車から降りる前にカイは忠告してくれていたのに、私がそれを甘く見たせいでこうなった。だから、私が悪い。素直に謝った私に、カイはそれ以上何も言わなかった。

「ナッちゃんの気持ちもわかるよ。私もカイたちを何度も見失いかけたもん。駅、素敵だったよね。人も凄かったし。ところでさ……」

 エリがフォローするように言いながら、鼻をひくひくとさせる。

「なんか匂わない?」

 この場所についてから私もずっと思っていた。なんだか臭いのだ。
 赤いレンガ造りの建物が多い街のところどころに、ゴミがたくさん落ちていた。日の当たらない路地裏にあるむき出しになったダクトから、ぽたぽたと水が垂れている。

「あぁ。多分、下水の匂いだ。少し臭いよな。この辺、治安が悪いんだ。すごく危ないわけじゃないけれど、俺たちが住んでる場所よりはずっと悪い」

 鼻をこすりながらカイが言う。治安が悪いと聞いて、エリと二人で身を寄せ合う。こんなところではぐれたら、たまったもんじゃない。色々と悪い想像をしてしまう。

「お、ついた。ここが今日の試合する場所。ホワイトハートレーン」

 カイが示す先に大きなスタジアムが見える。サッカーユニフォームを着た人たちが、続々とゲートを抜けていく。

「はい。ナツたちのユニフォーム。服の上から着れるだろ」

 カイに赤いユニフォームを渡される。言われたとおりにユニフォームを着る。エリもユニフォームを身に着けて、顔を上げた。
 ただえさえ大きいユニフォームは、小柄なエリが着るとシャツワンピースのように見える。カイとルイは洋服の下に予め着ていたようだ。薄いアウターを脱ぐと、私が着ているのと同じユニフォームがあった。四人でお揃いの恰好をしていることに、なんだかくすぐったい気持ちになる。

「あぁ、楽しみすぎる……」

 興奮を隠さないカイとルイの後ろを歩きながら、エリと二人でゲートを抜けた。




 それから数時間後。私たちは再びスタジアムのゲートの傍にいた。少し薄暗くなってきている。

 ルールもよくわからないまま試合を見たのに、ファンの熱気で盛り上がるスタジアムの雰囲気のおかげか想像していたより楽しかった。
 私と同じくあまりルールがわからないエリと二人で、自分が応援しているチームのゴールを注意して見ていた。逆の時に歓声を上げてしまったら大顰蹙だ。

 ウエーブのタイミングを毎回カイとルイに聞いていたら、最終的に何か言う前に「今!」と教えてくれるようになった。それがなんだかおかしくて、エリと二人で声を出して笑った。応援歌は歌えなかったが、手を叩きながら跳ねるのは楽しかった。

「凄かったね! 楽しかった」

「うん! 想像以上だった」

 ユニフォームを脱ぎながらエリと話していると、カイとルイが真面目な顔をして私たちの前に立った。さっきまで興奮してはしゃいでいた二人が、今は落ち着き払っている。

「どうしたの?」

「いい? これから駅まで歩くけど、絶対に立ち止まらないで」

 いつもふわふわとしているルイが、珍しく真剣な顔をして言う。

「俺とルイでナツとエリを挟んで歩く。もし、俺たちのどっちかが立ち止まっても、ナツたちは絶対に止まらずに駅を目指すんだ」

「カイと僕が両方とも立ち止まることはないと思う。でも、もしそうなっても二人は立ち止まらずに、人がたくさんいる明るいほうに行くんだよ」

「間違っても路地裏には入るな」

 言い聞かせるようにゆっくりと話す二人から、緊張していることが伝わる。治安が良くないと、ここに来るまでにカイが話していたのを思い出す。エリと目を合わせた後、理解したことを伝えるために頷いた。

「よし。行こう」

 歩き出すと、カイとルイはさっき見たばかりの試合の話を始めた。

『なんか、怖いね』

 隣を歩くエリが日本語でポツリと呟いて、私の右手を両手で握った。薄暗くなってきた街は、明るかった時よりも怪しい雰囲気を漂わせている。
 チカチカと点滅する薄汚れたバーの看板。それに引き寄せられるように人が集まって、地べたに座り込んでいる。何かぶつぶつ言いながら落書きだらけの壁に頭をぶつけ続ける人が目に入って、自然とエリの握る手に力が入った。

「お嬢ちゃんたち、俺と一緒に遊ばない?」

 無精ひげを生やした酒臭い男の人に声をかけられる。歯のない口でニッと笑いかけられて、本能的に背中がヒュッと冷たくなる。カイとルイも時々絡まれているが、二人はどんなに汚い言葉で罵られても絶対に反応しなかった。
 暗い路地裏に引きずり込まれることを想像して、思わず目を伏せる。

「ナツ」

 声に顔をあげると、カイと目が合った。まかせろ、と目が言っている。少し歩みが遅くなった私の背中をそっと押して、前に進むように促した。少し恐怖が和らいだ。カイがいるから大丈夫。自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。

 二十分ほど歩いて、ようやく駅に着く。ホームのベンチに座ってもまだエリは私の手を離さない。

「怖かったぁ……」

「もう大丈夫だよ。急がせてごめんね」

 脱力したように言うエリに、ルイが答える。

「大丈夫? 怖かっただろ」

 固まって人形のようにベンチに座る私の顔をカイが覗き込んだ。

「うん。怖かった、でも、カイがいたから大丈夫。平気」

「そっか」

 カイの目が優しく細まった。

「ねぇ、このまま真っすぐ帰るの?」

 少し緊張感が残る場の雰囲気を変えるように、エリが明るい声で言う。

「どこか行きたいの?」

「キングスクロスが素敵だったから、少し見たいな。本当に少しでいいの」

「私も見たい。駅の外はどうなってるの?」

 エリを応援するように私も続ける。せっかくロンドンまで来たのだ。怖かった思い出を最後にして帰りたくなかった。

「明日は学校だしなぁ。うーん」

「少しだけ寄ってあげようよ。カイ」

 悩むカイに、ルイが提案している。緊張していた空気がいつもの雰囲気に戻ったころ、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。





 ロンドンに行った翌日の朝。私は興奮した様子でマークに昨日の出来事を話していた。

「それでね、駅のそばにあった大きな噴水に座って、みんなでアイスを食べたの。二階建ての赤いバスが走っててすごく可愛かった。馬に乗った警察官もいたんだよ」

「楽しかったんだね。ナツが今日は朝から元気だ」

 カイとルイは、私たちのわがままに付き合ってくれたのだ。滞在時間はほんの三十分程度だったけれど、海沿いの田舎町にはないものがロンドンにはたくさんあった。

「うん。それから、オレンジ色の街灯が明るくて、まるでクリスマスのイルミネーションみたいに綺麗だった」

 さっきから喋りっぱなしの私の前で、カイが大きな欠伸をする。

「おかげで俺は寝不足です」

「私だって眠いけど……でも、本当に素敵だった」

 私の耳には、時間を報せるビッグベンの鐘の音が未だに残っている。

「まぁ、ナツが楽しかったなら良かったよ」

 二回目の欠伸をしながら呟くカイを見ながら、昨日のことを思い返す。

 彼はキングスクロス駅に着くと、すぐに私の手を引いて歩き出した。

「またはぐれたら困るだろ」

 そう言って握った手を強くした。背中にエリの揶揄うような声を聞きながら、駅の外に出たのだ。



 彼は、本当に優しくて面倒見がいい。クールだし、すこし怖そうな雰囲気を纏っているけれど、カイのことを知るたびに本当はすごく優しいことに気が付く。ぶっきらぼうな話し方は変わらないが、今となってはそれも彼らしいと思うようになった。

「キングスクロスに寄ってくれて、ありがとう」

 止まらない欠伸と戦いながらパンをかじっているカイに言う。

「どういたしまして。早く食べて行かないと。遅刻する」

 つられて私も欠伸をしながら、今日はどんな日になるだろうとわくわくしていた。


 いつも通り二人で登校して、カイが開けてくれた校舎の扉に体を滑り込ませる。こんな風に扉を開けてもらうのも、私の日常になった。

「サッカーをしに行くの?」

「そう。眠気覚ましにもなるだろ」

 そう言って校庭に駆けていくカイを見送ってゆっくり扉をしめる。ズンという重さを腕に感じた後、ロビーに向かうために振り返ると、綺麗な女の子が立っていた。肌荒れなんてしたことがないような白い肌に、明るい茶色の巻き髪をしたその子はまるでお人形のようだ。
 小さな顔についている大きなブルーグレーの瞳が、じっと私を見つめている。

 あまりにも真っすぐ私を見る彼女の視線に、思わず会釈してしまった。そのまま前を通り過ぎる。

「ねぇ、あなた」

「私ですか?」

「あなた以外に誰がいるのよ」

 不満を隠さない声色に、心臓が音をたてはじめた。何か失礼なことをしてしまったのだろうか。会釈がいけなかったのかもしれない。日本では良いとされるジェスチャーやしぐさには、外国では失礼だったり悪意と取られてしまうものがたくさんある。もしそうなら、謝らなければいけない。
 私が考えている間に、彼女は次の言葉を発した。

「あなた、カイと同じ家に住んでる日本人?」

「そうですけど……」

「あのね、カイとプロムに行くのは私よ。覚えておいて」

 それだけ言って、女の子はロビーに続く階段を駆け上っていった。

 ……一体なんなんだ。
 カイとプロムに行く予定なんてない。私が参加するかもわからないのだ。久し振りに人から向けられた攻撃的な態度に、心臓がバクバクしている。

『あれ。ナッちゃん、おはよう』

 ギィと扉が開いて、外の空気と一緒にエリが入ってくる。固まったまま動かない私の顔を覗き込んで、不思議そうにしている。

『エリ、どうしよう……』

『ん? 何かあったの?』

 静かに近づいてくる波乱の予感を感じながら、くりくりとしたエリの目を見つめ返した。