学校に戻ると思っていたのに、カイは私を家に送り届けた。

「まぁ! なんてこと!」

 びしょ濡れの私たちを見たリースは驚いて、取り込んだばかりの洗濯物の山からバスタオルを二枚渡す。

「寒い……」

「当たり前だろ」

 興奮していた気持ちが治まった途端に、寒さが襲ってきた。くしゃみをする私を、呆れたような顔でカイが見下ろす。

 リースがテキパキと熱い紅茶をいれて持ってきてくれる。トレーにはドライヤーも乗っていた。

「ほら、ここ。おいで」

 ソファに座りながら髪の毛を拭いているカイが、脚を開いて床を指さしている。
 黙って移動して床に座ると、ドライヤーで私の髪の毛を乾かし始めた。

「何やってんだよ。本当に……」

「……」

 私の髪の毛は短かい。きっとすぐ乾く。
 迷惑をかけてしまったなぁと、自分が情けなくなる。

 呆れたように言っているが、髪の毛を乾かしてくれているカイの手は優しい。

「ねぇ、学校は?」

「動くなよ。前向いて。学校は大丈夫。エリが後で荷物を持って来てくれるって。今日は早退」

「そっか。わかった」

 リビングに飾ってある時計の秒針の音が響く。熱い紅茶がじんわりと体に染み込んでいく。体の震えが止まったころ、ドライヤーの風が止んだ。

「よし、いいよ。顔洗って着替えな」

「ありがとう」

 カイに頭をポンッと叩かれて床から立って、自分の部屋にトボトボと戻った。

 シンクで顔を洗って着替えてから、ベッドの上に大の字になって天井のシミを数えていた。

『ナッちゃん、大丈夫?』

 あの天井のシミは恐竜に見える……そんなことをぼんやり思っていたら、学校に置きっぱなしにした私の荷物を持ったエリが部屋に入って来る。
 明らかに落ち込む私を、エリが心配そうに見ている。

『……今夜はビリヤードパーティがあるよね? ナッちゃんは行く?』

 ベッドの上で大の字になったまま無言で首を振る。

 早退をした私には大量の宿題が出ている。もう、手伝ってくれる優しいヒルダはいない。

『来週のレクは行くでしょ?』

 掲示板のお知らせを思い出す。確か、来週のレクは少し離れた大きいショッピングモールだったはず。この国の夜が寒いことを知らなかった私は、日本からアウターを持ってきていない。何か買わないといけないと思っていた。

『ショッピングモールだよね。それは行こうかな』


 部屋にノックの音が響いた。

「ナツ? 今日のビリヤードパーティ行く?」

 部屋の扉が開いて、カイが顔を出す。

「行かない」

「エリは? 行くなら一緒に集合場所まで行こう。ルイと約束してる」

 カイの言葉に、エリが嬉しそうに頷いた。

「じゃあ、後で迎えに来るよ」

 言いながらウインクをして、カイは部屋の扉を閉めた。エリが膝立ちのままベッドサイドまで移動してくる。それから少しだけ声のトーンを下げて、内緒話をするように囁いた。

『ねぇ、カイって優しいよね』

『うん。最初に思ってた印象よりも優しい』

『いいなぁ。本当に羨ましい。ナッちゃんは恵まれてると思う。ヒルダもすごく優しい人だったし』

 ヒルダについて、エリが過去形で話をすることに寂しさを覚える。もう彼女はここにいないのだ。

『……そうだね』

 わかっている。恵まれているのだ。
 ヒルダがいなくなってしまったことを、いつまでも引きずっているわけにはいかない。いつも笑顔でいるって約束したばかりだ。
 気を紛らわすように、エリが持ってきてくれた荷物の中から宿題のテキストを開く。と、中からピンク色の紙がヒラリと落ちた。

『何これ』

『あ、忘れてた! それ、すごく大事なお知らせ』

 紙を拾って読み始める私と一緒に、エリもそれを覗き込んだ。大きくプロムと書いてあるのはわかるが、それ以外の文章があまりよくわからない。英語をかなり話せるようになってきた。でも、読み書きはまだまだ苦手だ。

『プロム……』

『そう! プロムのお知らせ。もちろんナッちゃんも行くよね?』

『プロムって何?』

 わくわくしたようなエリと対照的に、いまいちピンときていない私に、エリは信じられないというような顔をした。

『プロム知らないの? 私たちが帰国する直前に、学校でパーティをするんだよ』

『パーティ?』

『うん。男の子も女の子もドレスアップしてパーティをするの。正規の卒業生じゃなくて短期留学の人も参加できるやつだから規模は小さいし、厳密に言えばプロムもどきなんだけど絶対にナッちゃんも参加した方がいいよ!』

『そうなんだ。プロムねぇ……』

『うん。私、ルイと一緒に行きたいんだ。まだ、誘われてないけれど』

 好きな人とプロムに行きたい。恥ずかしそうに俯きながら呟くエリが考えていることと、まったく違うことを私は考えていた。
 お別れ会のお知らせが配られるということは、私の帰国も近づいてきているということだ。期間はまだ半分を過ぎたぐらいだが、今までがあっと言う間だったことを思うと残りの期間もあっと言う間に過ぎていくのだろう。
 また、息苦しい狭い水槽に戻らなければならないと思うと、胸がずんと重くなる。

『ナッちゃん? 聞いてる?』

『あぁ、うん。聞いてる。ルイと行きたいんだね。行けるといいね。何か手伝えることがあったら言って。なんでもするよ』

『うん! ありがとう』

 慌てて意識をエリに戻す。プロムに参加するかはわからないが、エリの恋の応援はしたい。小さな花が満開に咲くように笑うエリを見ながら、ピンク色の紙を静かに畳んだ。


「エリ、そろそろ行こう」

 部屋の外からカイに声をかけられて、エリが立ち上がる。ビリヤードに向かう二人を見送ってから、窓際の勉強机にテキストを広げた。

――宿題手伝おうか?

 今にもヒルダが部屋に入ってくる気がする。そんなこと、起こるわけないのに。

『よし。やろう』

 自分に言い聞かせるように呟いて、山のような宿題に取り掛かった



 ヒルダがいなくなってしまった後も、時間は同じように過ぎていく。胸の中にある寂しさは簡単には消えなかった。ダイニングで食事をするたびに、隣の空席がどうしても気になってつい視線を向けてしまう。

「ナツ、大丈夫?」

「うん、平気」

 カイに声をかけられて、視線を前に向ける。私が隣の席を見てヒルダの残像を見るたびに、カイが現実へと戻してくれる。自分ではいつも通りにしているつもりだが、元気がないように見えるようだった。大丈夫だとわかってほしくて、出来るだけ明るい声で返事をする。

「今日の宿題はたくさんあるのかい? 手伝おうか」

「少し多いかな。わからないところがあるの」

「じゃあ、あとで部屋に行くよ」

 私の宿題を気にしてくれるのは、マークになった。初めてマークに宿題のことを聞かれた時、『ヒルダに、ナツのこと頼まれたんだ』と笑っていた。彼女は、自分が去った後のことまで考えてくれていた。そんな優しいヒルダに今の私が出来ることは、彼女がいなくても元気に笑って毎日を過ごすことだ。わかっている。

 食事の後、テキストを広げて宿題を進める私の隣にマークが立つ。

「見て。ここまで一人で出来たの」

「おぉ、すごいじゃないか。でもここは少し間違っているよ。この単語は過去進行形だから……正解はどうなると思う?」

 ただ答えを教えてくれていたヒルダと違って、マークは私に考える時間をくれた。そして、自力で問題を解くと、もの凄く褒めてくれる。
 日本にいた時、私の両親も宿題や勉強をみてくれることがあった。でも、それは教えてくれるというよりも、監視に近かった。私がサボらないか見張りながら、間違えると平手打ちを飛ばす。まるで、叩けば私が正しい答えを書けるとでも思っているようだった。

 頭の片隅で思い返しながら、マークに指摘された問題を考え直す。

「あ、そっか。……こうかな」

「そう! それが正解。頑張ったね。じゃあ、次……」

 テキストを覗き込むマークの黒い髪が揺れる。一瞬、ヒルダのキラキラした金髪を思い出した。小さく首を振って、テキストに意識を向けた。このままじゃだめだ。しっかりしないといけない。



「ナツ! 大変なことが起こった!」

 宿題を最後まで終わらせてテキストを閉じた時、カイが転がり込むように部屋に入ってきた。

「どうしたの?」

「カイがそんなに慌てるなんて珍しいね」

「これを見て!」

 カイの手には、長方形の紙が四枚握られている。

「それがどうかしたの?」

「これは、滅多に取れないサッカーのプレミアリーグチケットなんだ! 次の休みに一緒に行こう! あぁ、最高の気分だ……」

「あぁ、それは凄いね。良かったじゃないか」

 ガッツポーズをしながら興奮冷めやらない様子のカイを、ぽかんと見つめる。そんなに凄いチケットなのだろうか。スポーツに興味がない私には、いまひとつ事の重大さがわからない。マークにはわかるようで大きく頷きながら、飛び跳ねるように喜ぶカイを見ている。
 呆気に取られている私に、マークの穏やかな声が降ってくる。

「ナツ。行っておいで」

「でも、サッカーのことなにもわからないよ」

「それでも、行ったら楽しいかも。いい気分転換になるよ」

 気分転換……。そんなことをするために、友達と出かけておいでなんて生まれて初めて言われた。数時間勉強して、少しだけ一息つこうと席を立つ私に『気分転換なんて、いいご身分ですこと』と嫌みのように言う両親の声が響いた。

「ね、ナツ。行っておいで」

 マークの柔らかい声色が、躊躇していた私の背中をそっと押した。

「その試合はどこでやるの?」

「ロンドンだよ!」

「私もロンドンに行きたい!」

 行ってみたいと思っていた場所だ。電車で二時間ほどかかるから、行くのを躊躇していた。カイがいれば心強い。私の週末の予定が決まった。
 部屋の入口で喜び続けるカイを見ながら、ロンドンの街並みを脳裏に描いていた。