――これは、まだ世界にスマートフォンが存在しなかった頃のお話。
『こんな簡単なテストで満点じゃないなんてどういうこと?』
『でも、隣の席の子は六十点だったよ』
『人と比べてどうするの? さっさと問題集をやりなさい!』
母親が九十点のテストを持って叫んでいる。目の前に積まれた山のような問題集が、涙でじんわり滲んだ。決して怠慢したわけじゃない。テストの時、私は精一杯やったのだ。見直しだってしたし、完璧だと思っていた。結果は満点じゃなかったけれど。
『早く行きなさい!』
俯いて動かない私に向かって、答案用紙が投げつけられた。目線を上げずにそれを拾って、勉強机がある部屋へと移動する。
『本当にダメな子。嫌になるわ』
母親の言葉が止めのように背中に刺さった。
今日は友達と遊ぶ約束をしていた。でも行けそうにない。きっと明日、「ナツちゃんは嘘つきだ」と言われるのだろう。
言いたいことを全部呑み込んでランドセルから筆箱を出す。中からヒラリと紙が落ちた。
『死ね』
紙には一言そう書いてある。今日の体育はバスケットボールだった。私が上手くボールをパスできなかったせいで負けた。だから私は死んだほうがいいのだ。
これが母親に見つかったらどうなるのだろう。きっとそんなこともできないのかと落胆されて怒られるに違いない。
手のひらでくしゃりと潰してゴミ箱の奥に隠すように捨てた。
……母親も、こんな私は死んだほうがいいと言うのだろうか。
できるだけ心を無心にして問題集を進める。でも、終わりに近づいた頃、母親の言葉が蘇ってしまった。
――ほんと、あの子はダメな子。
目の前が涙でにじみ、問題集を進める手が止まった。
母親の言う通り、私はどうしようもない人間なのだろう。消えてしまいたくなる気持ちを紛らわせるために、机の上にあった本をとった。最初のページを開いたとき、
『何をやっているの?』
頭から冷水を浴びせられたのかと錯覚するほど冷たい声が落ちてくる。心臓がきゅうっと縮まって息ができない。慌てて本を片付けようとする私の手から、母親はそれを取り上げた。
『ごめんなさい! 一瞬、手に取っただけなの!』
『そんなに本が好きなら、それと一緒に家から出ていきなさい』
あぁ。私はいらないのだ。勉強も運動もできない出来損ないで、友達との約束ひとつ守れない。だから私は、家でも学校でも嫌われる。
母親が本を振り上げるのが見えた。次に来るであろう衝撃に耐えるために、ぎゅっと目をつぶって体を固くした。
ごつん!!!
『痛っ!』
頭に響いた衝撃に目を開けた。ガタガタと揺れる座席とエンジンの音。頭をぶつけた窓ガラスの外には、見渡す限りイギリスの野原と青い空が見える。まだぼんやりとする頭で、自分が今どこにいるのかしばし考えた。
そうだ。私は今、夏の短期留学のために渡英して来たのだ。空港からスクールバスに乗って、目的地である町へと向かっている途中だ。
久しぶりに、昔の夢を見た。
慣れない長時間のフライトで疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまった。目が覚めたばかりなのに欠伸が止まらない。毎日のように叱られていた頃から十年以上経っているのに、私はいまだにさっき見たような夢を見る。
『大丈夫? すごい音したけど……』
隣に座っていた女の子が心配そうな顔をして私を覗き込む。小さなバスは満席で、乗っている人たちの視線が私に注がれていた。騒がしかったであろう車内は私が立てた音のせいで静まり返っている。
返事をする前に、一瞬考えた。
日本の空港を旅立つ前、出来るだけ英語で会話するように、と引率の先生に言われている。でも、まだ良いだろう。日本語で話しかけられたし、そもそも私は英語が話せない。
『大丈夫』
『本当に?』
『うん』
じんわりと痛む頭をさすりながら何でもないような振りをした。大丈夫だという私の声が車内に響くと、バスの中は再びざわざわと騒がしくなった。
この留学は大学で募集されて集まった人たちが参加している。期間は六月中旬から九月上旬までの約三か月。参加している生徒は、外語学部の人たちばかりだ。でも、私は違う。私は一人、心理学部だった。だから英語はわからない。海外に特別な感情や、大きな夢があったわけでもない。
息苦しい日本から出て海外に来たら、何か変わるかもしれないと思ったからだ。
両親は、私を叩くことに躊躇いがない人だった。泣いて謝る私を外に引きずり出すことも日常茶飯事。
涙をこぼしながら玄関先で裸足のまま正座をし、母親の怒りが静まるまでひたすら待った。泣き声と怒号に何事かと顔を出してくれた近所の人の目が恥ずかしくて、私はますます縮こまった。
母が激昂する理由は、書初めが上手く書けないとか、算数のドリルの答えを間違えるとか、本当に些細なことだった。父親もそれを咎めるようなことをしなかった。
『子供は大人の言うことに、ただ『はい』と言えばいいんだ』
叱られたことに少しでも不満そうな表情を滲ませると、父親は一言そう言って私を黙らせた。
そんな環境で育ったのが原因なのか、そもそもの性格なのかはわからないが、私は自分の感情を人に伝えることが苦手だった。つらいことや、悲しいことはもちろん。嬉しいことや、楽しかったことを誰かに伝えることがなかなかできない。
人とコミュニケーションを上手に取る事が出来ないのだ。
……見た目も冴えない、コミュニケーションが上手く取れない。
だから、両親にも学校にいる人たちにも嫌われる。
そんな嫌われ者の私でも、時間が経てば勝手に歳を取る。
地元から少し離れた場所にある大学へ進学することを決めて、高校卒業と同時に家を出た。引っ越し先は、実家よりも大学に近かった祖母の家。本当は一人暮らしをしたかったけれど、そんなお金はどこにもなかった。
息をひそめて生活していた場所から離れた次の日には、髪の毛を短く切って赤く染め、ピアスをあけた。
『あら。素敵じゃない。ナツは髪の毛が短いほうが似合うわね』
いきなり頭を真っ赤にして帰ってきた私に向かって、祖母は開口一番そう言った。
予想外の反応にポカンとしていた私に向かって、祖母は柔らかく微笑んだ。
それから、祖母に似合うと言われた赤毛で、私は華々しく大学デビューを果たしたのだ。
結果は上々。
友達もたくさんできて、それなりに学生生活は楽しかった。
でも無理をしていた。
私はバーベキューや飲み会なんかよりも、一人で本を読んだり絵を書いたりするのが好きな根暗だ。大きい声や人と抱き合ったりすることも苦手。どうしたって時々、人が嫌いで暗い自分が顔を覗かせる。そんな時、決まって周りはこう言った。
『なんか今日、らしくないね』
私らしいってなんだ。
私のこと、何も知らないくせに。
お前に何がわかる。
卑屈だ。八つ当たりだ。わかっている。
息苦しかった。
そんな学生生活を送っていた時に、掲示板に夏の短期留学の張り紙を見つけた。
短期留学の言葉が目に入った瞬間、体に衝撃が走った。なぜかあの時の私は、これしかないと思ったのだ。家まで矢のように飛んで帰り、祖母に頼み込んでこのプログラムへの参加が決まった。
私のことも私の過去も、誰も何も知らないこの国に私は逃げてきた。
これで何か変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。そもそも、英語が全く喋れないくせに、参加していること自体が無謀なのかもしれない。
『ねぇ、今回の参加者ってみんな年上で、同い年なのって二人だけだよね? 私、エリ。よろしくね』
『あぁ、そうだね。十八歳なのは、私たちだけかも。私はナツ。こちらこそよろしく』
小さな花がパッ咲いたように笑いながら、エリが右手を差し出す。それに応じるために私もぎこちなく右手を出した。エリはそれをふにふにとした小さな手で握り返した。
『そういえば一番最初にバスから降りるの、ナツちゃんだってよ』
『え、そうなの?』
『うん。あと少しで着くって。はい、これパンフレット。さっき先生が配ったの』
お礼を言いながらパンフレットを開く。赤いレンガ造りの建物が並ぶ異国情緒溢れる町並みが写真で紹介されている。これから暮らすことになる町は、この国に住む人たちのリゾート先。日本でも都会に住む人たちが、休暇を田舎の海沿いで過ごすことは珍しくない。
一応旅立つ前に町について調べてみたのだが、インターネット上にもたいした情報が載っておらず観光の情報もなかった。
要するに、遊ぶ場所も見る場所もこれといって何もない田舎町ということだ。
『海しかなさそうだけど、なんかいい感じじゃない?』
『そうだね。ねぇ、エリちゃんは、どうしてこれに参加したの?』
『うーん。なんとなく? 専攻が英語だし』
頬に人差し指をあてながら、エリが小首を傾げる。そんな仕草も可愛らしい。綺麗な栗毛色のロングヘアーがさらさらと揺れている。
なんとなく、で留学の許可が下りるほどこの子の両親は優しいのか。私だったらきっと無理だ。土下座する勢いで頼み込んだ私を「いってらっしゃい」と送り出してくれたのは両親ではなく祖母だ。
キキッ。
ブレーキ音がぼんやりとしていた私を、現実に連れ戻す。一軒の家の前でバスが停車した。
『ナツちゃん、頑張って! また明日ね』
『うん。明日、学校で』
少し不安そうなエリの声を背中で受け止めながらバスを後にする。荷物を降ろして振り返ると、ふっくらとした初老の女性が私を待っていた。
「ようこそ我が家へ。無事に着いてよかったわ。私はリースよ」
「お会いできて嬉しいです。私の名前はナツです。ナツって呼んでください」
緊張しながら、定型文のような英語を喋る。飛行機の中で何度も練習したのだ。
家主であるリースの優しそうな雰囲気と穏やかな声にホッとする。
バスのエンジン音が遠ざかるのが聞こえて、急に心細くなる。自然とキャリーケースを持つ手に力が入ってしまう。
「さぁ、中へ入りましょう。この家には他にも留学生がいるの」
リースの声を聞きながら、目の前に建つ家をゆっくり見上げた。
私が今日から住む家は白い柱に赤レンガの壁の三階建て。一番上の階は屋根裏だろうか。三角屋根に窓がついていた。赤茶色の塀の中には、綺麗に手入れをされた芝生の小さな庭。
リースが開けてくれた玄関も、白く塗られた木製だ。玄関を抜けた先には玄関ホールがあった。日本にある私の部屋よりも広い。
「部屋に案内するわ。私が言っていることはわかる?」
リースが話す英語が、何となく理解出来ていることに驚いた。
映画を見ることにたいして両親は寛大だった。勉強をする代わりに、字幕なしで海外映画を見ることは許されていた。意味もわからずただ見ていただけだが、それが役にたっているようだ。
問いかけに小さく頷く私を、リースは二階へと案内した。
「ここがあなたの部屋よ。このカゴの中に、洗濯物を入れてね。二日に一回、洗濯してあげる。それからお風呂はあなたが好きな時に好きなだけ入っていい。時間制限もない。バスルームは部屋を出て左よ」
割り当てられた部屋は、十二畳程度の広くて大きい部屋だった。左側の壁を背に置いてあるベッドはキングサイズ。右側には白い三面鏡のドレッサーと、その奥に小さな専用洗面所つき。一人がけのワインレッドのソファとダークブラウンの小さな丸いカフェテーブルがとてもかわいい。入口から真正面には大きい窓があって、窓に備え付けられるように勉強机が置かれていた。洗面所の下には蛍光オレンジ色をしたシリコン製のカゴが置かれている。洗濯物の回収用らしいが、アンティーク調の部屋の中でそれだけ浮いていた。
「疲れたでしょう。紅茶がいい? コーヒーがいい? 何か飲み物を持ってくるわ」
「紅茶」
緊張しているせいか少し掠れてしまった私の声を聞いて、リースはカラカラと豪快に笑った。
「よし。やっと喋ったわね。じゃあ、紅茶を持ってきてあげる」
リースが部屋から出て行くのを見送って、小さく息を吐く。
どうにか英語が理解できていることに、私は安心していた。この調子ならやっていけるかもしれない。リースはすぐに戻ってきて、紅茶とクッキーが載ったトレーをカフェテーブルに置いた。いい香りがふんわりと部屋の中に広がる。
「夕飯は六時よ。一階にあるダイニングで他の留学生と一緒に食べてね。私はリビングにいるから、何か困ったことがあったら遠慮なく言って頂戴。それじゃあ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
ウインクしながら部屋を出ていくリースを見送って、紅茶とクッキーを窓側にある勉強机に移動させた。
窓から外を見ると、金髪の小さな男の子が真っ赤な自転車に乗って石畳の道を進んでいくのが見えた。庭には大きなパラソル型の物干しが、風に吹かれてクルクルと回っている。
視線を少し遠くすると海が見えた。海水浴客が遊んでいるのが小さく見える。窓を開けると、潮の香りを含んだ風が部屋の中に吹いた。
ここが、私が暮らす町。
心の中で呟くように思う。自分が外国にいるという実感が、フツフツと湧いてくる。胸の辺りがムズムズとして、何でもいいから叫びたいような気分だ。
産まれて初めての海外。興奮して当たり前なのかもしれない。
気持ちを落ち着かせるように大きく深呼吸をする。それから荷物の整理を始めた。
スーツケースから、小さな和英辞書を取り出して床の上に置く。それから、お気に入りの香水と化粧道具をドレッサーの上に並べて、安い目覚まし時計を枕元に置いた。日本時間のままの時計を、イギリスの時刻に合わせる。
「ねぇ、新しい子が到着しているみたい!」
「夕飯を知らせてあげたら?」
ふと、部屋の外が騒がしくなっていることに気がついた。様子を伺おうと、そっと部屋のドアを開けて廊下を覗く。
ドアの前にいたのは、癖っ毛な金髪のスラリとした綺麗な女の人。その奥に、黒髪のヒョロリとした男の人が見える。
女の人は私に気がつくと、人懐っこく笑った。
「あっ、こんにちは! 私はヒルダ。ドイツ人よ。で、あっちが台湾から来ているマーク。あなたは日本から来たのよね?」
ヒルダは後ろに立っているマークを示した後、右手を差し出してきた。
なれない握手に戸惑いながら握り返す。
「ナツです。お会いできて嬉しいです。私は英語が下手です」
「大丈夫。ちゃんと喋れてるよ。ナツって呼んでもいい? 私のことは、ヒルダって呼んでね。今から夕飯食べるけど、一緒に食べるでしょう?」
「準備ができたら降りておいでよ。俺たちは先に行ってるね」
私が話す英語は発音も文法もめちゃくちゃなのに、そんなことを気にする素振りを一切誰も見せない。慌てて床に置きっぱなしにしていた辞書を拾って、二人を追いかけた。
カントリー調の広いテーブルに、夕食が並べられている。フライドポテトとローストチキン、それから細かくなった野菜がたくさん入ったスープがそれぞれ三人分。この家に滞在している留学生は全部で三人のようだ。
空いている席について食事を始める。私の目の前は空席だ。
「ねぇ。ナツの歳はいくつ?」
慌てて口の中の物を飲み込む。
「私は十八歳です。今年、十九歳になります」
「若いのね! 私は二十歳。マークは……二十六だっけ?」
チキンが刺さっているフォークをヒルダに向けられて、マークが呆れたように溜息をついた。
「二十五だよ……」
「あはは、そっか! 間違えちゃった!」
二人は仲が良さそうだ。
それから私は一言も話すことなく食事をしていた。喋れないし理解ができない。二人が何の話をしているのか、意味不明だった。ゆっくり食事をする私とは対照的に、二人はあっという間に食事を終えて席を立つ。食べ終えた食器をシンクに沈めながらヒルダが私を見る。
「私たちはこれから友達の家に遊びに行くの。ナツも来る?」
「ナツは到着したばかりで疲れてるんじゃない? 日本はヒルダが思うより遠いんだ」
「そっか。じゃあまた今度一緒に行こうね」
ヒルダとマークだけで会話が終わる。何も言えずにオロオロしているうちに、二人ともダイニングからいなくなってしまった。
静かになったダイニング。
寂しい気持ちより、正直ホッとした気持ちのほうが大きい。
ゆっくりと誰にも邪魔されずに食事を済ませて、部屋に戻る。
枕元の時計を確認すると、まだ午後七時を過ぎた頃だ。それなのに、窓の外はまだ明るい。日が長いイギリスは、午後九時を過ぎても夕暮れ時だと聞いていたが本当のようだ。
日本から持ってきた携帯電話は朝の四時を表示している。この携帯電話は海外で使えるように契約していないから、電波の表示は圏外だ。
目覚まし時計をセットしてベッドの中に潜り込み、何か思う間もなく泥のように眠った。
翌日、不思議と自然に目が覚めた。
枕元の時計は午前六時前をさしている。起きる予定だった時間の一時間前だ。アラームを解除しながら体を起こした。
『さむっ……』
部屋が少し冷えている。思わず日本語で呟いてしまった。窓際にあるオイルヒーターのスイッチをいれて、カーテンを開けた。確か昨日、海水浴をしている人たちが見えたはずだ。気温差が激しいのだろうか。
スーツケースの中からお風呂グッズを一式取り出して、バスルームへ向かう。
猫足のバスタブにお湯を出して、バスルームの窓を開けると少し冷たい空気が朝の匂いを乗せて入ってきた。
お湯が溜まったバスタブに、服を脱いで身を沈める。日本を出発してから、初めての風呂だ。それが金色の猫足バスタブだなんて夢のようだった。小さい頃に憧れた童話に出てくるお姫様が入るお風呂は、きっとこんなやつだったに違いない。
お風呂に入りながら、今日から始まる学校に思いを馳せる。
クラスメイトに金髪で青い目のイケメンがいるかもしれない。
もしかしたら素敵な出会いがあるかもしれないのだ。
……まぁ、恋なんてしたことがないのだけれど。
これまでの人生でいいな、と思う人がいなかったわけではない。でも、それを恋だと認識するまでに至ったことがなかった。したところで、落ちこぼれな私の恋が実るわけもない。
多分、これからもずっとそうなのだ。主人公になれない人間というものがこの世界にはいる。それが私だ。脇役は脇役らしく、静かに波風立てず生きているのが一番。誰よりもわかっている。
一瞬頭に浮かんだ甘い幻想を消したくて、バスタブから勢いよく立ち上がる。それから身支度を整えて、ダイニングへと向かった。
ダイニングでは、既にヒルダとマークが朝食を食べていた。ヒルダが渡してくれたティンブレッドを持って、初めて見るポップアップ式のトースターと見つめあう。使ってみたいがすべて英語表記で、どこをどうしたらパンを焼いてくれるのかまったく分からない。
「どうしたの?」
パンを持ったまま動かない私を、ヒルダが不思議そうに見ている。
ポケットから辞書を取り出してページを開いた。私が示す指の先には、使用方法と書いてある。
「あぁ、使い方がわからないのね」
ヒルダが笑いながら、私の手からパンをとって穴に入れた後レバーを引く。それからタイマーをセットしてしばらくたつと、チンッと音が鳴ってパンが飛び出してきた。
「はい、焼けたよ! これがジャム。ラベルがなくて何味かよくわからないわ。あとチョコクリームとピーナッツクリーム」
目の前に色とりどりの瓶が並べられていく。見たことないぐらいカラフルだが、美味しいのだろうか。とりあえず確実に美味しそうなチョコクリームを選んだ。強い甘さが口の中に広がっていくのを堪能しながら、英語で奏でられる二人の会話を聞き流していた。
「ねぇ、学校に行くのは楽しみ? ナツは私たちと違う学校なのよね。リースに聞いたわ」
「なんの勉強をするんだい?」
二人の視線が私に向いている。
「えっと……」
学校に行くのは楽しみだ。でもなんて返事をすればいいのかわからない。言いたいことはあるのに、それを押さえつけるようにパンを口の中に押し込んだ。
「大丈夫よ。そんな不安そうな顔しないで。きっと何もかもいい方向に進むから」
「そうだよ、ナツ。大丈夫」
何も言わない私に穏やかにそう声をかけて、二人は朝食を終わらせて家を出ていく。
昨日の夕食の時と同じだ。せっかく話しかけてくれているのに、答えることができない。このままじゃマズい。そう思うのに焦るとますます声が出なくなってしまう。広いダイニングで私はまた、一人で朝食を終わらせることになった。
椅子に引っかけてあったリュックを背負って玄関ホールへと向かう。
「学校は、家を出て右よ。坂を真っすぐにいけばすぐに着くわ」
リースに見送られて家を出る。とてもいい天気だ。
私の家は、海まで続く一本道の坂の途中にあった。歩きながら振り返ると、朝日で輝く海が見える。建っている家の雰囲気が統一されていて、町並みが綺麗だ。
真っ赤な電話ボックス。通りの名前を示す少し錆びた看板。鉄製の柵。目に映るものすべてが珍しくて素敵に見える。
写真を撮りながらゆっくり歩いて十五分。大きな建物が見えてきた。校門に様々な人種の生徒が吸い込まれていく。まず目に飛び込んできたのは、大きな噴水。青い空に向かって水を勢いよく噴き上げていた。水しぶきが太陽で輝いて小さく虹ができている。
噴水の奥に、大きな木製の扉が見える。大きな石を積み上げて作られたような校舎は、まるでお城だ。扉に彫られている少しくすんだ模様が、過ごしてきた年月を語っている。体重をかけてゆっくり押すと、ギィと音を立てながら扉が開いた。
広いエントランスホールの壁には[学生ロビーはこちら]と書かれた案内板があった。案内板に従って、螺旋階段を上るとすぐ学生ロビーへと着いた。
『ナッちゃんおはよう!』
ロビーに入ってきた私を見つけて、エリはパタパタと駆け寄るとソファへと誘導する。半日ぶりに耳にする日本語に安心した。
『ねぇ、ナッちゃんって呼んでもいい? 私のことは、エリって呼び捨てにしてね』
『うん』
『今日はオリエンテーションだって。これさっき配られたプリント。あっ、ほら。先生が来たよ』
手渡された紙はすべて英語で書かれている。私には理解ができない。サッと目を通して折りたたむ。
「おはよう、みなさん。ようこそ我が大学へ。今日はクラス分けと……」
当たり前のように英語で説明が始まった。
なんとかなりそうだと思っていたのは、ほんの一瞬。ほとんど理解できていないような状態で、私はこれから生活していけるのだろうか。
頷きながら聞いているエリを、横目でちらりと盗み見る。胸の中で不安がちろちろとしていることに気が付かないふりをしながら、私の学校初日が始まった。
『こんな簡単なテストで満点じゃないなんてどういうこと?』
『でも、隣の席の子は六十点だったよ』
『人と比べてどうするの? さっさと問題集をやりなさい!』
母親が九十点のテストを持って叫んでいる。目の前に積まれた山のような問題集が、涙でじんわり滲んだ。決して怠慢したわけじゃない。テストの時、私は精一杯やったのだ。見直しだってしたし、完璧だと思っていた。結果は満点じゃなかったけれど。
『早く行きなさい!』
俯いて動かない私に向かって、答案用紙が投げつけられた。目線を上げずにそれを拾って、勉強机がある部屋へと移動する。
『本当にダメな子。嫌になるわ』
母親の言葉が止めのように背中に刺さった。
今日は友達と遊ぶ約束をしていた。でも行けそうにない。きっと明日、「ナツちゃんは嘘つきだ」と言われるのだろう。
言いたいことを全部呑み込んでランドセルから筆箱を出す。中からヒラリと紙が落ちた。
『死ね』
紙には一言そう書いてある。今日の体育はバスケットボールだった。私が上手くボールをパスできなかったせいで負けた。だから私は死んだほうがいいのだ。
これが母親に見つかったらどうなるのだろう。きっとそんなこともできないのかと落胆されて怒られるに違いない。
手のひらでくしゃりと潰してゴミ箱の奥に隠すように捨てた。
……母親も、こんな私は死んだほうがいいと言うのだろうか。
できるだけ心を無心にして問題集を進める。でも、終わりに近づいた頃、母親の言葉が蘇ってしまった。
――ほんと、あの子はダメな子。
目の前が涙でにじみ、問題集を進める手が止まった。
母親の言う通り、私はどうしようもない人間なのだろう。消えてしまいたくなる気持ちを紛らわせるために、机の上にあった本をとった。最初のページを開いたとき、
『何をやっているの?』
頭から冷水を浴びせられたのかと錯覚するほど冷たい声が落ちてくる。心臓がきゅうっと縮まって息ができない。慌てて本を片付けようとする私の手から、母親はそれを取り上げた。
『ごめんなさい! 一瞬、手に取っただけなの!』
『そんなに本が好きなら、それと一緒に家から出ていきなさい』
あぁ。私はいらないのだ。勉強も運動もできない出来損ないで、友達との約束ひとつ守れない。だから私は、家でも学校でも嫌われる。
母親が本を振り上げるのが見えた。次に来るであろう衝撃に耐えるために、ぎゅっと目をつぶって体を固くした。
ごつん!!!
『痛っ!』
頭に響いた衝撃に目を開けた。ガタガタと揺れる座席とエンジンの音。頭をぶつけた窓ガラスの外には、見渡す限りイギリスの野原と青い空が見える。まだぼんやりとする頭で、自分が今どこにいるのかしばし考えた。
そうだ。私は今、夏の短期留学のために渡英して来たのだ。空港からスクールバスに乗って、目的地である町へと向かっている途中だ。
久しぶりに、昔の夢を見た。
慣れない長時間のフライトで疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまった。目が覚めたばかりなのに欠伸が止まらない。毎日のように叱られていた頃から十年以上経っているのに、私はいまだにさっき見たような夢を見る。
『大丈夫? すごい音したけど……』
隣に座っていた女の子が心配そうな顔をして私を覗き込む。小さなバスは満席で、乗っている人たちの視線が私に注がれていた。騒がしかったであろう車内は私が立てた音のせいで静まり返っている。
返事をする前に、一瞬考えた。
日本の空港を旅立つ前、出来るだけ英語で会話するように、と引率の先生に言われている。でも、まだ良いだろう。日本語で話しかけられたし、そもそも私は英語が話せない。
『大丈夫』
『本当に?』
『うん』
じんわりと痛む頭をさすりながら何でもないような振りをした。大丈夫だという私の声が車内に響くと、バスの中は再びざわざわと騒がしくなった。
この留学は大学で募集されて集まった人たちが参加している。期間は六月中旬から九月上旬までの約三か月。参加している生徒は、外語学部の人たちばかりだ。でも、私は違う。私は一人、心理学部だった。だから英語はわからない。海外に特別な感情や、大きな夢があったわけでもない。
息苦しい日本から出て海外に来たら、何か変わるかもしれないと思ったからだ。
両親は、私を叩くことに躊躇いがない人だった。泣いて謝る私を外に引きずり出すことも日常茶飯事。
涙をこぼしながら玄関先で裸足のまま正座をし、母親の怒りが静まるまでひたすら待った。泣き声と怒号に何事かと顔を出してくれた近所の人の目が恥ずかしくて、私はますます縮こまった。
母が激昂する理由は、書初めが上手く書けないとか、算数のドリルの答えを間違えるとか、本当に些細なことだった。父親もそれを咎めるようなことをしなかった。
『子供は大人の言うことに、ただ『はい』と言えばいいんだ』
叱られたことに少しでも不満そうな表情を滲ませると、父親は一言そう言って私を黙らせた。
そんな環境で育ったのが原因なのか、そもそもの性格なのかはわからないが、私は自分の感情を人に伝えることが苦手だった。つらいことや、悲しいことはもちろん。嬉しいことや、楽しかったことを誰かに伝えることがなかなかできない。
人とコミュニケーションを上手に取る事が出来ないのだ。
……見た目も冴えない、コミュニケーションが上手く取れない。
だから、両親にも学校にいる人たちにも嫌われる。
そんな嫌われ者の私でも、時間が経てば勝手に歳を取る。
地元から少し離れた場所にある大学へ進学することを決めて、高校卒業と同時に家を出た。引っ越し先は、実家よりも大学に近かった祖母の家。本当は一人暮らしをしたかったけれど、そんなお金はどこにもなかった。
息をひそめて生活していた場所から離れた次の日には、髪の毛を短く切って赤く染め、ピアスをあけた。
『あら。素敵じゃない。ナツは髪の毛が短いほうが似合うわね』
いきなり頭を真っ赤にして帰ってきた私に向かって、祖母は開口一番そう言った。
予想外の反応にポカンとしていた私に向かって、祖母は柔らかく微笑んだ。
それから、祖母に似合うと言われた赤毛で、私は華々しく大学デビューを果たしたのだ。
結果は上々。
友達もたくさんできて、それなりに学生生活は楽しかった。
でも無理をしていた。
私はバーベキューや飲み会なんかよりも、一人で本を読んだり絵を書いたりするのが好きな根暗だ。大きい声や人と抱き合ったりすることも苦手。どうしたって時々、人が嫌いで暗い自分が顔を覗かせる。そんな時、決まって周りはこう言った。
『なんか今日、らしくないね』
私らしいってなんだ。
私のこと、何も知らないくせに。
お前に何がわかる。
卑屈だ。八つ当たりだ。わかっている。
息苦しかった。
そんな学生生活を送っていた時に、掲示板に夏の短期留学の張り紙を見つけた。
短期留学の言葉が目に入った瞬間、体に衝撃が走った。なぜかあの時の私は、これしかないと思ったのだ。家まで矢のように飛んで帰り、祖母に頼み込んでこのプログラムへの参加が決まった。
私のことも私の過去も、誰も何も知らないこの国に私は逃げてきた。
これで何か変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。そもそも、英語が全く喋れないくせに、参加していること自体が無謀なのかもしれない。
『ねぇ、今回の参加者ってみんな年上で、同い年なのって二人だけだよね? 私、エリ。よろしくね』
『あぁ、そうだね。十八歳なのは、私たちだけかも。私はナツ。こちらこそよろしく』
小さな花がパッ咲いたように笑いながら、エリが右手を差し出す。それに応じるために私もぎこちなく右手を出した。エリはそれをふにふにとした小さな手で握り返した。
『そういえば一番最初にバスから降りるの、ナツちゃんだってよ』
『え、そうなの?』
『うん。あと少しで着くって。はい、これパンフレット。さっき先生が配ったの』
お礼を言いながらパンフレットを開く。赤いレンガ造りの建物が並ぶ異国情緒溢れる町並みが写真で紹介されている。これから暮らすことになる町は、この国に住む人たちのリゾート先。日本でも都会に住む人たちが、休暇を田舎の海沿いで過ごすことは珍しくない。
一応旅立つ前に町について調べてみたのだが、インターネット上にもたいした情報が載っておらず観光の情報もなかった。
要するに、遊ぶ場所も見る場所もこれといって何もない田舎町ということだ。
『海しかなさそうだけど、なんかいい感じじゃない?』
『そうだね。ねぇ、エリちゃんは、どうしてこれに参加したの?』
『うーん。なんとなく? 専攻が英語だし』
頬に人差し指をあてながら、エリが小首を傾げる。そんな仕草も可愛らしい。綺麗な栗毛色のロングヘアーがさらさらと揺れている。
なんとなく、で留学の許可が下りるほどこの子の両親は優しいのか。私だったらきっと無理だ。土下座する勢いで頼み込んだ私を「いってらっしゃい」と送り出してくれたのは両親ではなく祖母だ。
キキッ。
ブレーキ音がぼんやりとしていた私を、現実に連れ戻す。一軒の家の前でバスが停車した。
『ナツちゃん、頑張って! また明日ね』
『うん。明日、学校で』
少し不安そうなエリの声を背中で受け止めながらバスを後にする。荷物を降ろして振り返ると、ふっくらとした初老の女性が私を待っていた。
「ようこそ我が家へ。無事に着いてよかったわ。私はリースよ」
「お会いできて嬉しいです。私の名前はナツです。ナツって呼んでください」
緊張しながら、定型文のような英語を喋る。飛行機の中で何度も練習したのだ。
家主であるリースの優しそうな雰囲気と穏やかな声にホッとする。
バスのエンジン音が遠ざかるのが聞こえて、急に心細くなる。自然とキャリーケースを持つ手に力が入ってしまう。
「さぁ、中へ入りましょう。この家には他にも留学生がいるの」
リースの声を聞きながら、目の前に建つ家をゆっくり見上げた。
私が今日から住む家は白い柱に赤レンガの壁の三階建て。一番上の階は屋根裏だろうか。三角屋根に窓がついていた。赤茶色の塀の中には、綺麗に手入れをされた芝生の小さな庭。
リースが開けてくれた玄関も、白く塗られた木製だ。玄関を抜けた先には玄関ホールがあった。日本にある私の部屋よりも広い。
「部屋に案内するわ。私が言っていることはわかる?」
リースが話す英語が、何となく理解出来ていることに驚いた。
映画を見ることにたいして両親は寛大だった。勉強をする代わりに、字幕なしで海外映画を見ることは許されていた。意味もわからずただ見ていただけだが、それが役にたっているようだ。
問いかけに小さく頷く私を、リースは二階へと案内した。
「ここがあなたの部屋よ。このカゴの中に、洗濯物を入れてね。二日に一回、洗濯してあげる。それからお風呂はあなたが好きな時に好きなだけ入っていい。時間制限もない。バスルームは部屋を出て左よ」
割り当てられた部屋は、十二畳程度の広くて大きい部屋だった。左側の壁を背に置いてあるベッドはキングサイズ。右側には白い三面鏡のドレッサーと、その奥に小さな専用洗面所つき。一人がけのワインレッドのソファとダークブラウンの小さな丸いカフェテーブルがとてもかわいい。入口から真正面には大きい窓があって、窓に備え付けられるように勉強机が置かれていた。洗面所の下には蛍光オレンジ色をしたシリコン製のカゴが置かれている。洗濯物の回収用らしいが、アンティーク調の部屋の中でそれだけ浮いていた。
「疲れたでしょう。紅茶がいい? コーヒーがいい? 何か飲み物を持ってくるわ」
「紅茶」
緊張しているせいか少し掠れてしまった私の声を聞いて、リースはカラカラと豪快に笑った。
「よし。やっと喋ったわね。じゃあ、紅茶を持ってきてあげる」
リースが部屋から出て行くのを見送って、小さく息を吐く。
どうにか英語が理解できていることに、私は安心していた。この調子ならやっていけるかもしれない。リースはすぐに戻ってきて、紅茶とクッキーが載ったトレーをカフェテーブルに置いた。いい香りがふんわりと部屋の中に広がる。
「夕飯は六時よ。一階にあるダイニングで他の留学生と一緒に食べてね。私はリビングにいるから、何か困ったことがあったら遠慮なく言って頂戴。それじゃあ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
ウインクしながら部屋を出ていくリースを見送って、紅茶とクッキーを窓側にある勉強机に移動させた。
窓から外を見ると、金髪の小さな男の子が真っ赤な自転車に乗って石畳の道を進んでいくのが見えた。庭には大きなパラソル型の物干しが、風に吹かれてクルクルと回っている。
視線を少し遠くすると海が見えた。海水浴客が遊んでいるのが小さく見える。窓を開けると、潮の香りを含んだ風が部屋の中に吹いた。
ここが、私が暮らす町。
心の中で呟くように思う。自分が外国にいるという実感が、フツフツと湧いてくる。胸の辺りがムズムズとして、何でもいいから叫びたいような気分だ。
産まれて初めての海外。興奮して当たり前なのかもしれない。
気持ちを落ち着かせるように大きく深呼吸をする。それから荷物の整理を始めた。
スーツケースから、小さな和英辞書を取り出して床の上に置く。それから、お気に入りの香水と化粧道具をドレッサーの上に並べて、安い目覚まし時計を枕元に置いた。日本時間のままの時計を、イギリスの時刻に合わせる。
「ねぇ、新しい子が到着しているみたい!」
「夕飯を知らせてあげたら?」
ふと、部屋の外が騒がしくなっていることに気がついた。様子を伺おうと、そっと部屋のドアを開けて廊下を覗く。
ドアの前にいたのは、癖っ毛な金髪のスラリとした綺麗な女の人。その奥に、黒髪のヒョロリとした男の人が見える。
女の人は私に気がつくと、人懐っこく笑った。
「あっ、こんにちは! 私はヒルダ。ドイツ人よ。で、あっちが台湾から来ているマーク。あなたは日本から来たのよね?」
ヒルダは後ろに立っているマークを示した後、右手を差し出してきた。
なれない握手に戸惑いながら握り返す。
「ナツです。お会いできて嬉しいです。私は英語が下手です」
「大丈夫。ちゃんと喋れてるよ。ナツって呼んでもいい? 私のことは、ヒルダって呼んでね。今から夕飯食べるけど、一緒に食べるでしょう?」
「準備ができたら降りておいでよ。俺たちは先に行ってるね」
私が話す英語は発音も文法もめちゃくちゃなのに、そんなことを気にする素振りを一切誰も見せない。慌てて床に置きっぱなしにしていた辞書を拾って、二人を追いかけた。
カントリー調の広いテーブルに、夕食が並べられている。フライドポテトとローストチキン、それから細かくなった野菜がたくさん入ったスープがそれぞれ三人分。この家に滞在している留学生は全部で三人のようだ。
空いている席について食事を始める。私の目の前は空席だ。
「ねぇ。ナツの歳はいくつ?」
慌てて口の中の物を飲み込む。
「私は十八歳です。今年、十九歳になります」
「若いのね! 私は二十歳。マークは……二十六だっけ?」
チキンが刺さっているフォークをヒルダに向けられて、マークが呆れたように溜息をついた。
「二十五だよ……」
「あはは、そっか! 間違えちゃった!」
二人は仲が良さそうだ。
それから私は一言も話すことなく食事をしていた。喋れないし理解ができない。二人が何の話をしているのか、意味不明だった。ゆっくり食事をする私とは対照的に、二人はあっという間に食事を終えて席を立つ。食べ終えた食器をシンクに沈めながらヒルダが私を見る。
「私たちはこれから友達の家に遊びに行くの。ナツも来る?」
「ナツは到着したばかりで疲れてるんじゃない? 日本はヒルダが思うより遠いんだ」
「そっか。じゃあまた今度一緒に行こうね」
ヒルダとマークだけで会話が終わる。何も言えずにオロオロしているうちに、二人ともダイニングからいなくなってしまった。
静かになったダイニング。
寂しい気持ちより、正直ホッとした気持ちのほうが大きい。
ゆっくりと誰にも邪魔されずに食事を済ませて、部屋に戻る。
枕元の時計を確認すると、まだ午後七時を過ぎた頃だ。それなのに、窓の外はまだ明るい。日が長いイギリスは、午後九時を過ぎても夕暮れ時だと聞いていたが本当のようだ。
日本から持ってきた携帯電話は朝の四時を表示している。この携帯電話は海外で使えるように契約していないから、電波の表示は圏外だ。
目覚まし時計をセットしてベッドの中に潜り込み、何か思う間もなく泥のように眠った。
翌日、不思議と自然に目が覚めた。
枕元の時計は午前六時前をさしている。起きる予定だった時間の一時間前だ。アラームを解除しながら体を起こした。
『さむっ……』
部屋が少し冷えている。思わず日本語で呟いてしまった。窓際にあるオイルヒーターのスイッチをいれて、カーテンを開けた。確か昨日、海水浴をしている人たちが見えたはずだ。気温差が激しいのだろうか。
スーツケースの中からお風呂グッズを一式取り出して、バスルームへ向かう。
猫足のバスタブにお湯を出して、バスルームの窓を開けると少し冷たい空気が朝の匂いを乗せて入ってきた。
お湯が溜まったバスタブに、服を脱いで身を沈める。日本を出発してから、初めての風呂だ。それが金色の猫足バスタブだなんて夢のようだった。小さい頃に憧れた童話に出てくるお姫様が入るお風呂は、きっとこんなやつだったに違いない。
お風呂に入りながら、今日から始まる学校に思いを馳せる。
クラスメイトに金髪で青い目のイケメンがいるかもしれない。
もしかしたら素敵な出会いがあるかもしれないのだ。
……まぁ、恋なんてしたことがないのだけれど。
これまでの人生でいいな、と思う人がいなかったわけではない。でも、それを恋だと認識するまでに至ったことがなかった。したところで、落ちこぼれな私の恋が実るわけもない。
多分、これからもずっとそうなのだ。主人公になれない人間というものがこの世界にはいる。それが私だ。脇役は脇役らしく、静かに波風立てず生きているのが一番。誰よりもわかっている。
一瞬頭に浮かんだ甘い幻想を消したくて、バスタブから勢いよく立ち上がる。それから身支度を整えて、ダイニングへと向かった。
ダイニングでは、既にヒルダとマークが朝食を食べていた。ヒルダが渡してくれたティンブレッドを持って、初めて見るポップアップ式のトースターと見つめあう。使ってみたいがすべて英語表記で、どこをどうしたらパンを焼いてくれるのかまったく分からない。
「どうしたの?」
パンを持ったまま動かない私を、ヒルダが不思議そうに見ている。
ポケットから辞書を取り出してページを開いた。私が示す指の先には、使用方法と書いてある。
「あぁ、使い方がわからないのね」
ヒルダが笑いながら、私の手からパンをとって穴に入れた後レバーを引く。それからタイマーをセットしてしばらくたつと、チンッと音が鳴ってパンが飛び出してきた。
「はい、焼けたよ! これがジャム。ラベルがなくて何味かよくわからないわ。あとチョコクリームとピーナッツクリーム」
目の前に色とりどりの瓶が並べられていく。見たことないぐらいカラフルだが、美味しいのだろうか。とりあえず確実に美味しそうなチョコクリームを選んだ。強い甘さが口の中に広がっていくのを堪能しながら、英語で奏でられる二人の会話を聞き流していた。
「ねぇ、学校に行くのは楽しみ? ナツは私たちと違う学校なのよね。リースに聞いたわ」
「なんの勉強をするんだい?」
二人の視線が私に向いている。
「えっと……」
学校に行くのは楽しみだ。でもなんて返事をすればいいのかわからない。言いたいことはあるのに、それを押さえつけるようにパンを口の中に押し込んだ。
「大丈夫よ。そんな不安そうな顔しないで。きっと何もかもいい方向に進むから」
「そうだよ、ナツ。大丈夫」
何も言わない私に穏やかにそう声をかけて、二人は朝食を終わらせて家を出ていく。
昨日の夕食の時と同じだ。せっかく話しかけてくれているのに、答えることができない。このままじゃマズい。そう思うのに焦るとますます声が出なくなってしまう。広いダイニングで私はまた、一人で朝食を終わらせることになった。
椅子に引っかけてあったリュックを背負って玄関ホールへと向かう。
「学校は、家を出て右よ。坂を真っすぐにいけばすぐに着くわ」
リースに見送られて家を出る。とてもいい天気だ。
私の家は、海まで続く一本道の坂の途中にあった。歩きながら振り返ると、朝日で輝く海が見える。建っている家の雰囲気が統一されていて、町並みが綺麗だ。
真っ赤な電話ボックス。通りの名前を示す少し錆びた看板。鉄製の柵。目に映るものすべてが珍しくて素敵に見える。
写真を撮りながらゆっくり歩いて十五分。大きな建物が見えてきた。校門に様々な人種の生徒が吸い込まれていく。まず目に飛び込んできたのは、大きな噴水。青い空に向かって水を勢いよく噴き上げていた。水しぶきが太陽で輝いて小さく虹ができている。
噴水の奥に、大きな木製の扉が見える。大きな石を積み上げて作られたような校舎は、まるでお城だ。扉に彫られている少しくすんだ模様が、過ごしてきた年月を語っている。体重をかけてゆっくり押すと、ギィと音を立てながら扉が開いた。
広いエントランスホールの壁には[学生ロビーはこちら]と書かれた案内板があった。案内板に従って、螺旋階段を上るとすぐ学生ロビーへと着いた。
『ナッちゃんおはよう!』
ロビーに入ってきた私を見つけて、エリはパタパタと駆け寄るとソファへと誘導する。半日ぶりに耳にする日本語に安心した。
『ねぇ、ナッちゃんって呼んでもいい? 私のことは、エリって呼び捨てにしてね』
『うん』
『今日はオリエンテーションだって。これさっき配られたプリント。あっ、ほら。先生が来たよ』
手渡された紙はすべて英語で書かれている。私には理解ができない。サッと目を通して折りたたむ。
「おはよう、みなさん。ようこそ我が大学へ。今日はクラス分けと……」
当たり前のように英語で説明が始まった。
なんとかなりそうだと思っていたのは、ほんの一瞬。ほとんど理解できていないような状態で、私はこれから生活していけるのだろうか。
頷きながら聞いているエリを、横目でちらりと盗み見る。胸の中で不安がちろちろとしていることに気が付かないふりをしながら、私の学校初日が始まった。