「ジリリリリリリ!!」

 夏休み恒例の昼過ぎに時間を設定した目覚ましが、けたたましく暴れ出す。俺は毎度その音にビクッと起こされ、そしてその度にお決まりの台詞を吐いて目覚ましを止める。
「こんなに音でかくなくても起きられる。よ!」
 バンッと叩いて一瞬で沈黙する目覚ましを見つめる。何でこれを選んだんだ……昔の俺よ。
 しかし今日はたっぷり寝たので流石に目覚めが良い。すがすがしい朝だ。いや、昼だ。
 軽く伸びをしながらもう一度しっかり時計を見ると昼の1時。集合は駅前に5時なのでまだ寝てても問題ないのだが、事が事なので余裕を持って行動。のつもりだったのだが、起きた早々にベッドの上で、あぁもうこの時が来てしまったか。と、つい二、三日前に決まった行事をあたかも数ヶ月前から待ち望んでいたように妄想と自己陶酔を始めてしまう。
 その間、約三十分。
 ようやく別の意味で目を覚ました俺は誰が見ているわけでもないのに一人で顔を赤らめ、部屋を出て一階に下りた。
 のんびりご飯を食べながらボーッとしているとテーブルに置いた携帯が鳴った。山根だ。
「おい! とりあえず暇なんだろ? 先に俺ん家来てまったりしてから一緒に集合場所行こうぜ!」
「はいよ」
「おいおいやけにクールじゃん! 今からキャラ作ってんのか? そんな張り切るなって!」
「うるせーバカ! 切るぞ!」
 くだらない魂胆を簡単に見透かされた俺は電話を切り、頭でも冷やそうと風呂に入る事にする。
 落ち着け。落ち着け。と自分に言い聞かせるのだが、まるで根拠のない期待値は上がるばかり。こういう時は結局、何も起こらず肩を落として帰る事になるのだと今までの経験でわかってはいるのだが、今日は何故か自信まで湧いてきてしまう。ダメだ。これ以上は無意味と察して無駄に時間をかけた風呂を出る。
 時間を思ったより割いてしまったので、妹が選んだ服を着て急いで家を出て自転車に跨がった。
「はぁ、ったく! くそ!」
 山根の家は山側なので坂道がキツい。ダラダラ流れる汗を手でぬぐいながら俺は必死に立ち漕ぎで自転車を進ませた。
「この坂道を下りずに上りきったら杉川さんと仲良くなれる。この坂道を下りずに上りきったら杉川さんと仲良くなれる。」
 全く意味のない自分ルールを呪いのように繰り返しながら坂道を必死で登る。たかが坂道を登りきったくらいで仲良くなれるならみんなやっているだろう。
 無駄な行動。そんな事はわかっている。けど、何もせずにはいられなかった。そして根拠のない確かな自信と期待も、この無駄な行動へと俺を後押ししていた。


「おー! 来たな来たな! まぁ入れよ!」
 俺は息切れを必死に整えながら無言でうなずいた。何とか下りずに上り切った。
 部屋に入ると山根はテーブルにノートを広げて図を書き始める。俺は何も言わずそれを眺めながらテーブルを挟んで向かいに座った。
 図を書き終ええ、山根は真面目な顔で口を開く。
「今回は男二十人、女二十五人の合コンとは呼べないほどの大人数だ。よって最初は知っている奴らで固まるだろう。するとお前はあの子と知り合いじゃないし、あの子の知り合いとも知り合いじゃないので全く絡めない。普通だったらその流れのまま終了だ。しかしそこで俺。俺は接点がある上に今回の男を集めた、言わば男の幹事。つまり準主役的な存在! 頃合いを見計らって席替えタ〜イム。お前を見事にあの子の側に座らせてしんぜよう。俺が必ずからませてやるから頑張れよ!」
 喋っている間に徐々にテンションを上げていく山根の話術にしっかりと触発され、俺の心はピークへと引っ張られる。
「山根バンザイ! 山根バンザイ!」
 気づけば俺は両手を上げて叫んでいた。ただのバカの筈なのに山根が神に見えてしまう。見えない筈の後光が射している。いかん。冷静になれ。あいつは山根だ。神などではない。
 少し冷静に山根を眺める。満足そうに笑う顔は俗物じみていて、一言で言えばバカ面だ。よし。良い調子。気持ちが落ち着いて来た。山根、山根、バカ山根。心で唱える。
 危うく山根教に入りかけるという失態を犯した俺の気持ちなんか知らずに山根は、んじゃそろそろ支度するからそれ飲んで待っててと麦茶を指差し、部屋を出る。
 山根の後ろ姿に俺はやっぱり頭を下げていた。バカでも頼りになるのは確かなのだ。
 山根は支度を終えて部屋に戻ってくると、まだ時間あるな。と時計を見た。
 先に行って待ってるか? と提案したが、山根はバカと鼻で笑って麦茶を飲む。
「こういうのはちょっとだけ遅れていくんだよ。どーせみんな集合時間に来ねーんだから」
 ニヒルに笑う山根。俺にはよく理解できなかったが、ふーん。と相槌を打ち、麦茶を飲みながら時間が経つのを待った。


 俺と山根が集合場所に着いたのは集合時間を十五分程過ぎた頃だったが、山根の言うとおりまだ全員は集まっておらず、着いた瞬間に女の幹事が、遅ーい! と言いながら近づいて来た。
 きっとほとんどの人が遅れてきたのだろう。この台詞を十五分の間に何度繰り返したのか。あまりの剣幕にビビってる俺をよそに、山根は笑いながら謝って辺りを見回した。
「あと何人くらい?」
 山根の問いに女の幹事は苦笑い。
「あと8人かな」
 それだけ言うと、丁度また遅れてきた奴に「遅い!」と言いながら去っていった。
 その後ろ姿を見送って山根は笑う。
「な?」
 俺はみんなを見ながら、確かに。と納得する。
 でも、山根って幹事のはずじゃ……という疑問は胸にしまっておいた。


「んじゃ全員集まったから店入るよー!」
 こうなるのを見越して予約は集合時間の三十分後にしてあったらしい。全く持って抜かりがない。なら初めから……って思うのだけど、それだとみんな更に三十分遅れてくるのだろう。行動心理ってやつか。俺には難しくて良く分からないけど。
 予約していた場所はかなり広い座敷部屋だったが、山根の言うとおり。みんな知り合い同士で固まって席に着いていた。
 俺もその流れに従い、山根と別れて一旦、同じクラスの奴らがいる席に座る。
 これだけの大人数だと勿論まとまりもなく、みんなはまだ始まってもいないのに勝手にガヤガヤと騒ぎ始める。そんな中、女幹事が手際よく全員の飲み物をしっかり確認、そして手早く注文して数分後にはみんなに飲み物が回っているのだからすごい。やはり幹事とはこうでなくてはならない。
 みんなに飲み物が行き渡ったのを確認すると山根が立ち上がった。
「みなさん! お疲れさまです! 今年の夏は遊びまくりましょう! 乾杯!」
 お前がやるのかよ! ここは女幹事だろ! 山根のいきなりの幹事面にビックリしたが、不思議と誰一人突っ込む事なくみんな当たり前のように、乾杯! と叫んで、あちらこちらでまた笑い声まじりに話始める。これでいいのか女幹事よ。しかし、女幹事はそんな事気にもしていないようで、バカ面下げて笑っている山根をよそにあくせくと動き回っている。俺は幹事だけは絶対にやらない。そう心に誓った。
 しばらく俺は周りの会話に参加している振りをして、バレない様にチラチラと離れた場所に居る杉川さんを横目で見ていた。友達ととても楽しそうに笑ってる杉川さんを盗み見ていると気持ちも穏やかになって、心の底から癒された。
 すると目の前に座る同じクラスの女が突然俺を指差す。
「あ! また椎名くんボーッとしてたでしょ?!」     
「え? また?」
 俺の返事が届いてないのか、俺に対しての発言の筈なのに今、俺を指差してた子さえも俺を無視して周りで話が進む。
「いつも授業中寝てんだか起きてんだかわかんない顔して外見てるよねー?」
「あー、わかるかも。ズレたクールだよね」
「あるある! 勘違いクール!」
「勘違いって!」
 俺を無視して俺の事を話している周りの女子は、そのままどんどん俺を置いていってしまった。
 好き勝手言っているみんなの言葉に、俺ってそんな風に見えているのか。と少し落ち込みながらコーラを一口飲む。途端にとなりの男が立ち上がった。
「お前に罰を与える!」
 その男は俺を指差して叫びだし、周りが一瞬で一気コールに包まれた。
「いっき! いっき!」
 みんなの視線が自分に集中してしまっているので仕方なく立ち上がり、グーっとコーラの一気飲みを見せる。
 飲み干したグラスを掲げると、周りに歓声と拍手が巻き起こった。
 照れながらみんなに愛想を振りまく俺の手に隣の男から何かが渡される。
 俺の手に渡されたのはもう一杯のコーラだった。
 (こいつ殺す!)
 そう思いながらも睨みつける暇もなく、もう一杯! もう一杯! と促されるままにコーラを口に運んだ。グッと飲み干すとさらに会場が沸く。
 悪魔のスパイラルだこれは。
 何とか二杯で止まってくれて、ゆっくりと腰を下ろす。
 空っぽだ。出し尽くしちまった。
 明日のジョーのように灰色になった俺。
 炭酸一気二回連続はかなりキツく、俺は少し心が折れてしまったようだ。
 何だか色々どうでもよくなってしまい、それからは杉川さんに目もくれず笑いながら話すみんなの会話に混ざった。


 ————それから一時間くらい経っただろうか、少し回復した俺はまた思い出したようにふと、杉川さんに目を向けた。
「うそでしょ?」
 思わず声が出てしまう程、信じたくはない光景が視界に入ってきた。
 杉川さんがデレデレした男と楽しそうに話している……
 しまった! 当初の目的を忘れていた!
 まずい。このままではいつもの何事もなく終わってしまうパターンだ。
 ようやく正気に戻った俺は喝を入れる。
 これは戦いなんだ! 第一回杉川杯。対戦方式はルール無用のバトルロワイヤル。
 俺は優勝する為に参加表明した。優秀な参謀も味方に付けた。
 そして何の為の妹監修による戦闘服だ。
 俺は自分が情けなく、そして悔しくなってテーブルを指でトントン叩きながら(席替え〜席替え〜)と心の中で呪文を唱え始める。しかし何だあのデレデレした下品なアホ面は。杉川さんも何でそんな奴と笑っていられる。いや、今はそんな事より、とにもかくにも動き出すキッカケが必要だ。
 俺は願う。席替えを願う。呪文の様に心で繰り返す。テレパシーを送る!
 届け。神様。じゃなく、山根に!

「席替えターーイム!!」

 山根が立ち上がり、席替えを実行したのはそれから十分後の事だった。
 勿論、その間ずっと唱え続けていたのは言うまでもない。
 みんなはこの席替えが俺の呪文のおかげだなんて知らずに一斉に立ち上がり、ダラダラと席を移動し始める。
 俺は、何も考えていません。どこでもいいです。という雰囲気を全面に出しながら杉川さんに全神経を集中させていた。
 そして、ごく「自然」に「成り行き」で杉川さんの目の前に座ろうとする。
 もらった! 座る体制に入り、そう思った瞬間。いきなり俺の前に一人の男が割り込んできた。
 ドカッと勢い良く座る男に俺は弾き飛ばされ、まんまと杉川さんの前は奪われる。
 突然の出来事にその事実を飲み込めず、尻餅をつきながら固まる。
 確信した勝利を直前で持っていかれた事実に一瞬、目の前が真っ暗になるが、なんとか自分を保って俺はそいつの隣に座り直す。そしてそっとそいつの顔を覗いた。
 ほぼ9割方勝利していた勝負をまんまと覆したのは、やはりさっきのデレデレ男だった。
 (このやろう!)
 俺はキッとそいつを睨み付ける。しかし、デレデレ男は全く気づかずに目の前の天使に夢中だ。まずい。このどこまでも邪魔をしそうなダークホースの存在は危険すぎる。放っておけばさらに危害を加えて来るかもしれない。早めに潰さねば。
 俺の心の中を憎悪にも似たドス黒い感情が支配し始める。
 すぐさま近くに座る山根に視線を移す。山根は先にこちらを見ていた。どうやら山根は一部始終を見ていたようで、目で(いくか?)と語る。俺は力強く頷き、顎でそいつを指す。山根はニヤリと笑って頷くと勢い良く立ち上がった。
「田中の一気が見たーーい!!」
 山根の叫びに会場中がウオーッ! と沸いて、熱烈な一気コールがデレ男こと田中を包んだ。 
 みんなの注目が嬉しいのか、コーラ片手に勢い良く立ち上がるデレ男を見て俺はほくそ笑む。
 しめしめ、このアホめ。この注目が仇となる事を貴様は知る由もあるまい。
 デレ男がノリノリで一気している中、俺はそれに目もくれず一心不乱に飲みかけのコーラに酢とラー油を目一杯混ぜて、隠し味にウーロン茶をブチ込み、飲みおわって拍手に包まれるデレ男にスッと手渡した。そして俺は元気よく手拍子。
「もう一杯! もう一杯!」
 熱気そのまま、コールに合わせてみんなが手拍子を始める。さあ死ね。デレ男こと田中よ。
 デレ男はやはり注目を浴びるのが嬉しいようで、まいったなと笑いながら何の疑いもせずに、それを一気に流し込んだ。
 そして瞬間にグフォーーーっと吐き出す。
 会場がどっと笑いに包まれる中、目の前の女の子達が悲鳴をあげる。周りの男子は大爆笑。何やってんだよ! とか、やべー! とか、最悪! とかもう色々な声が上がる中、俺は小さくガッツポーズをして。ミッション成功の達成感に酔いしれた。
 しかし、それも束の間。騒ぎが収まらない中、デレ男が半泣きで訴え始める。
「なにこれ! なにこれ! ゲホッゲホ!」
 手に持っている飲みかけのジョッキを持ち上げて叫び続けるデレ男。
 まずい。
 非常にまずいぞ。
 もしこれで周りに中身がバレたら、渡した俺の立場が危ない。そうなったらもう杉川さんと知り合うどころじゃないぞ。これからの高校生活が地獄の日々に変わってしまう。陰険クソ野郎の烙印を押され生き続けるなんて俺には耐えられるはずが無い。
 ザワザワとさっきとは違う雰囲気で騒ぎ始めるみんな。デレ男は咽せながらも必死にジョッキの中身がおかしい事を主張する。咽せているおかげか「これ!」以上の言葉を発していないのが幸いだが、もはや時間がない。俺はもうやけくそで、そいつからジョッキを奪い山根に目で合図を送った。
 山根が即座に声を上げる。
「椎名! 椎名!」
 山根が周りを煽り、みんな流される様にまた一気コールが会場を包み始める。
 よし。生きるか死ぬか勝負だ。俺は一気にジョッキの中身を口にブチ込んだ。
 ……俺は一気に飲み干そうとした。
 勢いは悪くなかった。それに覚悟もあった。
 でも、それを口に入れた瞬間に俺は死を覚悟した。
 そう。ジョッキの中身は飲み物なんかじゃなく、ただの地獄への片道切符だったのだ。俺はまんまと乗車してしまったようだ。しかし、扉はまだ閉まっていない。出発前の今なら引き返せる。
 でも、俺は引き返さなかった。
 どちらにしても地獄。だったら一瞬で終わる地獄の方が良い。
 みんな、さよなら。逝ってきます。
 それほどの味だった。
 俺は死の狭間で生にしがみつきながら、それを一気に飲み干す。そして空になったジョッキをドンとテーブルに置いて(帰って来たぞ!)と心で叫びながらガッツポーズを上げた。良かった! 生きてた!
 山根を始め、周りは盛大な拍手に包まれた。もちろん、隣で半泣きのデレ男をよそに。
 周りの空気が変わったのをしっかりと見届け、山根は再び声を上げる。
「さぁ! 気を取り直して!」
 山根はもう一度、席替えタイムを始めた。場の空気を変える為とみんなは思ったかも知れない。でも、俺は気づいている。山根はユートピアを作る気だ。いける。勝てるぞこの試合。
 山根は俺の読み通り、杉川さんの隣をキープしながら慎重に動いて自然に俺を呼び、杉川さんの目の前に座らせてくれた。そしてそのまま山根は杉川さんの隣に座る。
 そう。今まさに最強の陣形「ユートピア」が完成したのだ。
 本番はここからだ!

「どう? 楽しんでる〜?」
「ん〜、うん!」
 出た。山根の得意技。アルコールなど飲んでいないのに、まるで酔っているかのように振る舞う山根に杉川さんは困惑しながらも少しはにかんで答えた。
 杉川さんの困惑は仕方が無い。アルコールなんか一滴も入っていないはずなのに、山根は明らかに酔っているように見える。初めて見た時は俺も、飲んだのか? と疑ったが、実際は飲んでいない。本人は場の雰囲気に酔っているだけだ。と豪語するが、出し方が明らかに作為的だ。しかし、それが不思議と嫌味にならないのが本当の意味での山根の特技。顔が広い所以であろう。その証拠に、杉川さんも一瞬は困惑したものの、もう笑顔で山根と会話している。本当に凄い奴だ。
「山根君のほうこそ楽しそうじゃない?」
 杉川さんは、山根にコーラを差し出す。山根はそれを受け取らず、杉川さんの肩を気安く叩いて高笑いした。
「おいおい! まだ飲ませんのかよ? ジョッキ二十杯目だぜ!?」
 山根は明らかに数をサバ読んで自身の腹を叩く。飲んでいるのはコーラなのだが……何故こうも飲み会の様に言うのだろうか。それに「二十杯」なんて嘘、沢山飲むのがカッコいいとでも思っているのか?
「おい! 椎名! 何ボーッとしてんだよ! 飲め!」
 山根の言った事を完全に信じきっている人の良い杉山さんからコーラを奪い取り、俺に一気しろと山根は差し出した。どういう盛り上げ方だ。雑すぎるだろ。それに今、俺の胃袋は消化(消火)活動で忙しいんだ。
「ちょっと、やめてあげなよ。さっきすごい色々まぜたの一気したばっかなんだから」
 何とか切り抜けようと模索していると、杉川さんが当然のように俺をかばった。
 まさかの出来事。杉川さんはやっぱり最高だ! と心の中で涙して最高に有頂天となる俺。
 が、すぐに冷める。
 あれ? っていうかなんで杉川さんは俺が特製ミックスコーラもどき、通称「地獄の片道切符」を飲んだことを知ってるんだ?
 まさか……見られてた?
 おいおい! 嘘だろ! あの一部始終を見られてたのか! まずい! まずいぞ! 非常にまずい! なんとか、なんとかごまかさないと!
 頭の中がパニックになっている俺に杉川さんは無情の王手をかける。
「ね? 田中君にすごい飲み物渡したよね?」
 これ以上ないってくらいのストレートな質問。完全ノックアウトです。もはや回避不可能。
 普通ならそう思うだろう。だが、今日の俺にはあの山根がついている。ノックアウトはまだ早い。俺は諦める前に最後の望みにかけた。
「そうそう! そうなんだ! 山根が目で合図送ってきてさ、あんまり可哀相だからやりたくなかったんだけど、山根がすごい顔で睨むから」
「いや、それ全部逆でしょ」
 まさかのカウンター。俺の望みは届かず、山根は俺を冷たく切り捨てた。ノックアウト。
 もう俺に残された道は一つ。
「ごめん。俺がやったんだよね。なんかあいつしつこそうで、君が困ってたように見えたからなんとなく先走っちゃって。ごめんね? 邪魔しちゃって」
 腹をくくり、潔く謝る。深々と頭を下げる俺。当然だ。好きな人の前でこれ以上嘘はつけない。
 しかし、俺の後頭部に降ってきた言葉は意外なものだった。

「ありがとう」

「え?」
 思わず顔を上げると、杉川さんは笑っていた。
「おっしゃる通り……実はちょっと困ってました。なんか、あの、ありがとうございます」
 逆に頭を下げられた俺は焦って両手を大きく振る。
「いやいや! 顔をあげてください!」
 焦って声を張り上げる俺を見て、山根はまた俺の動きの真似をしだす。
「いやいや! 顔をあげてください! いやいや! 顔をあげてください!」
 無駄に繰り返される山根の物まねに、杉川さんは笑って顔をあげた。俺も笑っていた。
 なんでだろう。この時ばかりはなんか楽しかった。
「そういえば、私の名前わかる?」
 ひとしきり笑いあった後、杉川さんが聞いてくる。
「んー、ごめん! わかんない!」
 これが自然な答えだろう。知ってるよ有名だよね。なんて言われて喜びそうも無いし、当然杉川さんは俺の事なんて知らないわけだから、片方が知っていて片方が知らないと言う変な空気は避けたい。決して変なプライドが邪魔したわけではない。決して。
 苦笑いで嘘をつく俺を、山根はにやけた顔で見ていた。
 バレバレだ。恥ずかしくて顔を向けられない。
「だよねー。私も椎名くんの名前知らなかったもん」
 かわいい笑顔をみせる杉川さん。さっきからこの顔に何度、心を射ぬかれたことか。
 杉川さんを前にして完全に浮かれている俺は、さりげなく自分の名前を呼んでくれているのに気付くまで十秒程かかった。
「あれ? 俺の名前? え? 知ってる?」
 何が何だかわからず困惑している俺を見て、杉川さんは笑いながら手を差し出した。
「さっきのコールで知りました。私の名前は杉川小春です。よろしく!」
「あ、あぁ! なるほど。し、椎名健一です。」
 手汗を何度も服で拭いて震える手で握手を交わす。すこしひんやりして、そして細い指だった。
 俺は泣いてしまいそうだった。
 ずっと遠くから眺めるだけで、何も出来ずただ憧れているだけだった人の手を握ってるなんて。まさしく夢のようだ。でも現実だ。もちろん、すぐに手は離した。しかし、感触はまだ残っている。手、しばらく洗えないな。初めて本気でそう思った。


 その後の会話は、山根のおかげもあってかなり弾んだ。山根は俺と杉川さんが会話するよう上手に話を振ってくれるので、俺もいつになく饒舌に、そして珍しく時折笑いなんかもはさみながら話す事が出来た。しかし、話が盛り上がって来るといつしか内容は学校の話題へと変わっていき、流れに流れて行き着いた先はどういうわけだか学校の怪談話となってしまった。
「ってかさ。俺達の学校に七不思議あんの知ってる?」
 山根はヒソヒソと話し始めた。つられて杉川さんも小さい声になる。
「うそ? そんなのあるの?」
 山根はニヤッと笑ってゆっくり頷く。ちなみに俺はこの手の話がすこぶる苦手だ。もちろん幽霊なんか見た事が無い。でも、だからこそ恐い。見た事が無いからこそ膨らむ想像と恐怖。っていうか単純に恐い。なんだか嫌な予感がする。
「そんなのあったんだねー!」
 成り行きで会話に参加していた俺の隣に座る女子が興味を示した。その子は杉川さんの友達で今日は相当テンションが上がっているらしく、さっきから山根が話す事にいちいち大げさにリアクションを取って場を盛り上げていた。
 やがて山根の話が終わると、その子がグラスをグイっと空けて、立ち上がる。
「よし! 行こう!」
 その子は高らかに叫んだ。山根も杉川さんも、賛成! と手を挙げる。
 おいおい嘘だろ?
 最悪の展開に、俺は一人だけ手を挙げられずにいると杉川さんと目が合ってしまう。
「さ、賛成!」
 直ぐに手を挙げる。仕方が無いんだ。悲しい男の性ってやつなんだ。好きな人の前で男らしくない所を見せる勇気は俺にはない。杉川さんは楽しそうに手を挙げている。それだけが救いだった。俺はまた杉川さんと目が合う。お互いに笑顔がこぼれる。
「企画倒れで終わりますように。企画倒れで終わりますように!」
 心の中では必死にお祈りをしている事を悟られない様、俺は必死で笑った。



「二次会行く人ーー!?」
 あっという間の三時間が過ぎて、一次会は夢のように終わりを告げた。
 女幹事は上機嫌に二次会参加者を募っている
 そんな中、当の俺達四人はまだ七不思議の話で盛り上がっていて、話は既にいつ行くかまで進んでいた。これは逃れる術などなさそうだ。
 俺は溜め息をつきながら、盛り上がりすぎて女幹事の話を全く聞いてない三人に口を挟む。
「二次会どう……うわ!」
 言い終わる前に、名も知らぬ女の方が俺に肩を回してグイッと顔を寄せる。
「あん? お前、二次会と七不思議どっちが大事なんだよ? おい!」
 え? 酔っぱらっているんですかこの人? ってなくらいに異様なテンションのその子に少しビビッてしまい、普通の人から見れば七不思議なんて大事の部類には絶対に入らないものだとはわかりつつも俺は、ナナフシギデス。と答えるのが精一杯だった。
 何より肩に手をまわされてドキドキしっぱなしだった。杉川さんではなく、ただの酔っぱらいもどきに絡まれているだけなのに……
「この子ちょっと今日、危なっかしいから私送って行く事にする。私たちはいいから二次会は山根くんと椎名君行って来て!」
 困っている振りしてドキドキしている俺の姿を見かねたのか、杉川さんは俺の肩にまわっている女の子の腕を外し、自分の肩を貸してしっかりその子を抱えた。
 それを黙って見ていた山根はフムと頷くと、勝手に女幹事の元に行ってしまい、一言二言交わすと踵を返して戻ってきた。
「二次会は俺達四人不参加と伝えておいたから」
 山根は俺に目で合図を送りながら言った。俺はもちろんそのサインを見逃さずに受け取る。
「こんな夜中に女の子二人で帰らせるのは危ないからね! 送ってくよ!」
 あたかも当たり前です口調で言う俺に、杉川さんは最初こそ遠慮したが、山根のしつこく強引な後押しに負けて、じゃあお言葉に甘えて。と頭を下げた。
 しかし、その子の家はどうやら杉川さんと逆方向らしく、どちらも現在地から歩いて二十分程度なのだが山根は、そういう頭の悪い行動は嫌いだ。の一点張りで、結局、俺が杉川さんを送り、山根がその子を送る事になった。もちろん送り終わった後で、俺と山根はまた落ち合う秘密の約束をして。



「なーんか心配だなぁ」
 二人で歩く道中、胸の高鳴りがうるさすぎて頭がうまく回らない俺は、山根とその子の話を何度も繰り返していた。もちろん、実際に心配なんかしていない。しかし、さっきの饒舌な俺はどこへ行ってしまったのか、その話以外全く頭に浮かばない。おかげで杉川さんは何度も無駄に俺をなだめるハメになった。
「山根くんなら大丈夫だよ! きっと! だからもう安心しなよー!」
 俺をなだめる杉川さん。初めは笑顔だったが何度も繰り返すたびに、さすがの杉川さんもだんだん苦笑いになっていった。
 これはマズイ! 俺は話題を変えようと、回らない頭を無理矢理回して模索する。しかし、大抵の事は一次会で聞いてしまった。無理に回した頭が出した答えはただ一つ。
 俺は仕方なく、七不思議を解明する日がいつになったのかを聞くことにした。
「そーいや七不思議っていつ確かめに行くの?」
 やっと話題が変わったと安心したのか、杉川さんはいつもの笑顔に戻った。
「三日後あたりって話になったよ!」
 三日後……俺は、そんなに急がなくてもいいのに。と心の中で溜め息をつく。
「三日後あたりって随分適当だなぁ」
 このまま流れてしまえ! と心で叫びつつも、無理に笑ってみせる。そんな俺に杉川さんは思いがけない言葉を放った。
「そうそう! それで詳しいことを決める役は私と椎名くんになったから、悪いんだけど携帯の番号とアドレス教えてもらえる?」

 思考停止。俺は完全にフリーズした。

 山根様。あんたやっぱり神様かもしんない。
 山根の本日最後のサプライズは見事に俺の心を震わせた。いや、体も震えた。
 それをいつ聞き出そうと今日起きてから、いや! お疲れ会参加が決まった時点からずっと悩んでいたのに、あいつはその問題を難なく解決してくれた。
 俺は感動で意識が飛びそうになりながらも、何とか正気を保ち口を開く。
「いや! 全然悪くないから! 番号とアドレスなら十個でも百個でも教えるよ!」
 自分でも訳わからない事を口走ってしまったと思う。これなら黙って頷いた方がまだマシだ。
「一つでいいよー! ってか声裏返りすぎ!」
 杉川さんは鞄から携帯を取出す。
 俺の訳分からない言葉にも笑ってくれる優しさ。本物だ。
 俺は感動しながら携帯をポケットから出し、杉川さんと向かい合う。
 震える俺の手は赤外線通信を何度も失敗させたが、その度に杉川さんは笑い、そして何とか通信を終えた俺の携帯には、同じ学校の男子なら喉から手が出る程欲しがるデータがインプットされた。
「あ、私の家そこだから! ここまででいいよ! ありがとね。明日、七不思議の事でメールすると思うからよろしくね!」
 手を振りながら笑顔で遠ざかる杉川さんに思いっきり手を振りかえす。
「お、おう!」
 なけなしの格好付けで「うん」ではなく「おう」と叫んで、見えなくなるまで杉川さんの背中に手を振り続けた。
 杉川さんが目の前の景色からいなくなる。降り続けた手を下ろして深呼吸。両頬を思いっ切り叩き気合いを入れた俺は、ポケットから出した携帯を握りしめながら猛ダッシュで来た道を戻る。
 早く山根に報告したい。
 途中で立ち止まり携帯を開く。杉山小春の名前を何度も確認して俺はまた猛ダッシュで集合場所へ向かった―ーーー。


 集合場所に戻ると山根は既に戻っていて、猛ダッシュで抱きつく俺の頭をニヤニヤしながらパシッと叩いた。
「うまくいったみたいだな!」
 何度も何度も叩かれたが、俺は痛みすら感じないほど浮かれていて、叩かれる度に山根にお礼を言った。
「最高っす! 山根さん最高っす!」
「わかったから! いい加減離れろよ! 暑いだろ!」
 いつの間にか別の理由で叩かれていた俺はようやく我に帰る。がまたすぐ戻る。
「ごめんごめん! でもさ、マジでありがとう! 山根バンザイ!」
「わかったわかった! 帰るぞ!」
「おう! 山根サイッコー!」
 二人で帰ってる間も興奮冷めやらず、ずっと隣の山根に話しかけていたら前方不注意で思いっきりドブに突っ込んだ。
 山根は呆れた顔をして、大丈夫か? と手を差し出す。その手を取りながら、それでも俺はずっと笑ってた。
 カーテンの隙間から射す太陽の光に起こされる。なかなか清々しい目覚め方だったが、俺は隙間から覗く突き抜けるような青空よりも携帯を見る。
 メールは来ていない。
 ハァッと溜め息をついて起き上がろうとすると、左膝に鈍い痛みをおぼえた。
「痛!」
 左膝には、大きな青黒いアザができていた。恐らく、ドブに突っ込んだ時のものだろう。昨日は全然平気だったのに。アドレナリンとは恐ろしいものだ。
 とりあえず湿布を貼って、なるべく左膝を動かさないように不器用に歩き、一階に下りる。
 リビングでは妹が一人で朝飯を食べていた。
「何その湿布? また怪我したの?」
 妹は箸を止めて俺の膝を怪訝な顔をして見ている。いかん。本当の事を話したら兄としての威厳が失われてしまう。
「あ、うん。ちょっと事故で。というか……」
「どうせ、はしゃいでドブにでも突っ込んだんでしょ?」
 俺のごまかしは悲しくも途中で遮られ、妹はさもつまらなそうに吐き捨てた後、止まっていた箸を動かした。
 妹恐るべし。エスパーかお前は。
 心の中で「正解!」の札を上げて席に着く。目の前に座る妹とはそれ以上特に会話する事無く、一緒に朝飯を食べた。