「————であるからして夏休みだからと言ってハシャギすぎず学生らしい……」
 空調設備が整っていない体育館内はひどく空気がこもっていて、さらに今日に限って湿度が高いもんだから館内は地獄と呼ぶにふさわしい環境になっていた。そして、お決まりの言葉を羅列する校長の話はまるで俺達を一人ずつ本物の地獄へ送るためのお経の様に館内に響き渡る。さっきから全校生徒が白旗を振っていると言うのに、それに気づいている様子は無い。一体、誰に向かって喋っているのだろうか。
 流れる汗でシャツが体に引っ付く感じも気持ち悪く、意識はこのお呼びではない熱気(決して盛り上がってなどいない)に集中していて、もはや他の先生すらも校長の話は聞いていなかった。
 そんな最悪な状況の中、俺は更に「明日」の事も考えていたから、壇上の校長など右から左どころか、右にも入らなかった。
「おい! 椎名! わりぃ! 明日のお疲れ会、あの子来ないらしい! すまん!」
 後ろからいきなりかけられた声に振り返ると、山根がウインクしながら顔の前で手を合わせていた。
「は? ていうか何でここにいる?」
「いや、緊急事態だったから真っ先に伝えなきゃって思ってさ」
「いや、緊急事態も何も……え?」
 わざわざ離れた列から俺のところまで来た山根。
 俺の前で手を合わせて頭を下げる山根。
 熱で思考回路が焼かれてしまったのか、山根の行動。そして口から放たれた言葉を理解するのに数テンポの遅れを要した。
「マジ……マジかよ」
 でも仕方ないよな。と自分に言い聞かせながら、しっかり肩を下げる俺。山根はそんな俺の肩をがしっと掴んで笑顔を見せた。
「嘘だよーん! 何ビックリしてんだよ! 今お前すげー顔してたぜ?!」
「なっ!」
 次の言葉は一瞬で理解できた。
 そうだ。こいつは退屈になるといつもこうなんだ。誰かをからかって退屈を退ける。そしてそのターゲットの大半が俺だった。いつもなら最初の変にかしこまった独特な表情でわかった筈なのに、熱さのせいでまさかの大失態。熱気が怒気に変わっていく音が聞こえる。
 俺は言葉にならない悔しさを拳にありったけ込めて、隣で腹を抱えて笑っている山根を無言で殴り付けた。



「はい! じゃあみなさん九月にまた」
 担任の話も終わって、生徒達は明日からの夏休みに心を弾ませながら教室を去って行く。
 俺と山根も例に漏れず、明日の事でハシャギながら廊下を歩いていると、後ろから女の子が山根の肩をたたいて声をかけてきた。
「ねぇねぇ山根君、明日って誰が来るの?」
 山根は声の主に対して俊敏に振り向いて、おどけてみせる。
「お! もしかして俺だけじゃ不満かい?」
「わわっ! いやいや! そういう事じゃなくて!」
「ハハッ! わかってるって! えっと確かーー」
 山根と仲良さそうに笑って話す女の子。山根は男女問わず顔が広い。だから女子と話している光景など見慣れている筈なのに、俺は目の前の光景を見て目を疑っていた。
 声の主は杉川さんだった。山根は杉川さんとは知り合いではない。それは大分前から知っている。でも、信じられない事に今、目の前で杉川さんは山根と話して笑っていた。
 予想も想像も越えた光景に、最早、思考回路はショート寸前。美少女戦士も真っ青だ。
 もう一度、頭の中を整理する。この二人は自分の知る限りでは知り合いではなかったはず。それでも目の前で可愛く(ホント天使の様に)笑う女子はまぎれもなく「あの」憧れの杉川さんで、山根も当たり前の様に普通に会話している。何がどうなっているのかはわからない。でも、こんな目の前で友人と仲良く杉川さんが話すと言う事態が現実として起こっているのだから、このチャンスを逃す手は無い。
 俺は山根が明日来る男子の名前をダラダラと彼女に教えている中、でも何をどうしたらいいのかわからず横で所在なげにフラフラしていた。
 こんな時、自分が心底情けなく感じて山根が少しだけ羨ましく感じてしまう。結局の所、俺は山根に男として一種のあこがれを抱いているのだろうと思わざるを得ない。認めたくはないが。

「あとはこいつ」

 山根が隣で勝手にドギマギしている俺に目線を移す。目の前の杉川さんと俺の目が合う。
「あ、どうも」
 合った目線をそらしながら軽く頭を下げた俺に彼女はニコッと笑って見せた。
「どうも!」
 あ。今、会話した。俺、初めて杉川さんと会話した。
「それじゃ明日ね!」
 杉川さんは手を振って去っていった。
 杉川さんと初めて会話した。あの杉川さんと言葉を交わした。どうも! だって。可愛いすぎだろ。まずいよ。まずい。脳がとろけちまいそうだ。まいっちまうな。
 徐々にハードボイルド化する俺は、お察しの通り頭が朦朧としていた。
「あ、どうも。あ、どうも」
 しばらくハードボイルドな余韻に浸った後、ようやく正気に戻れば、俺の横で山根がにやけながら何度も俺の声真似をしていた事に気づく。
 気持ちを落ち着かせて、フーッと一息。そして無言で山根を殴り付けた―ーーー。



「っていうかいつから知り合いなんだよ?!」
「え? 何が?」
「杉川さん! 知り合いだなんて聞いてないぞ!」
「あぁ、別に対した事じゃねーよ。お疲れ会の幹事の女に男を集める役を頼まれて、そんでその時に杉川さんが一緒にいてちょっと喋っただけ」
「それだけ? それだけなのか?」
「うん。それだけ」
「くそー! 早く言えよ!」
 帰り道。海側の道を自転車で走りながら投げつけた数々の質問を山根は鼻をほじりながら興味なさそうに答え続けた。
 質問を重ねる毎に声のボリュームが上がっていく俺とは対照的に冷めた口調で鼻をほじり続ける山根とは温度差が開くばかり。一通り質問を終えても、山根のテンションと同じくらいまで落ち着くのには少し時間がかかった。
「あぁ……かわいかったなぁやっぱり。明日は喋れるかなぁ?」
 ようやく平静を取り戻しても頭の中はお花畑。自転車の速度を落とし、日が暮れようとしている空を見ながら呟くと、山根が呆れた様に溜め息をつく。
「明日はお前と同じ事考えてる奴がいったい何人くるんだか……」
「え? は? どーいうこと?! なぁ! なぁ?!」
 溜め息と共に放たれた山根の言葉によって、ようやく落ち着いたテンションがいとも簡単に取り戻されてしまう。
 取り乱しながら山根の肩を掴む俺の手を振りほどいて山根は続ける。
「ただ、お前が憧れてるあの子の名前を出したら来るって言った男が多かっただけ! あの子に憧れてるのはお前だけじゃねーんだよ!」
 ハッとした。山根の言う通りだ。俺は今日の出来事のおかげで大事な事をスッカリ忘れていた。美人で性格も良く勉強も運動も出来る彼女に恋心を寄せる男子はかなり多い。ホントに多い。山根みたいに彼女に憧れをまったく抱いてない奴のほうが少数派だと言う事を全く持って忘れていた。俺はその他大勢の一人にすぎない。その事をすっかり忘れていた。早い話が浮かれていたのだ。
「まぁ、仲良くなれるかはお前次第だよ!」
 そう言って山根は自転車を思いっきり漕ぎ出す。一気に前に出る山根。
「うおーーーっ!」
 俺は叫びながら山根を追いかける。
 そう。叫ばずにはいられなかった。
 決戦は明日なんだ。


 俺の夏はとりあえず初日に全てが決まる事になった。