「県外に引っ越したわけじゃないんだから、たまには帰ってきなさいよ。帰れないなら、ちょっとくらい連絡しなさい」

 ちゃんとご飯食べてるの? と電話口で母が言う。

 きょう、うちの会社の社長が逮捕されてさ。

 なんて言えるはずがなかった。社長の一件が報道される可能性は高い。今言わなくても、いつか自然と母に伝わるだろう。でも、しばらくは黙っていた方が良さそうだ。

「まあ、それなりに」

 いつまでも実家暮らしなんてと思い、なっちゃんと出会う少し前にここへ引っ越した。はじめてのひとり暮らしだった。築三十年ととても新しい建物とは言えないけれど、意外と家賃は高い。それでも安い方だと物件会社には言われた。

「でもまあ、よかったわ。ちゃんと正社員で働けているんだから」

 母のその先の言葉が僕にはわかった。

「絵で食べていくなんて、難しいからな」

 だから僕は先に母の言葉を言った。

「そうね」と母は答える。

 無意識に玄関に飾られた森谷の絵に目がいった。
 小学生の頃から、僕は絵に憑りつかれていた。たぶん小学生のとき、絵画コンクールで金賞を取ったせいだ。僕にはもしかして才能があるんじゃないか、なんてとんでもない勘違いをして美大にまで進学してしまった。
 美大には化け物ばかりいた。森谷は規格外だ。彼の絵を見て、僕はなんてちっぽけな存在なんだろうと思い知らされた。森谷に会って、自分でも驚くほど簡単に絵を諦めた。それまでは有名画家にでもなった気分で、部屋中に自分の作品を並べ飾っていた。でも森谷の絵を見てから自分の作品がゴミくずに思えた。見るのも嫌で全部捨てた。この絵を森谷に譲ってもらって以来、僕は自分を戒めるために毎日見つめている。もう二度と、馬鹿みたいに挑戦などしないように。

「うちはみんな手先が器用だったりする血筋だけど、それで食べていくのは難しいわねぇ」

 血筋ってどういう意味? と訊ねようと口を開くと「観たいドラマが始まるからじゃあまたね」と母は急いで電話を切った。電話をかけて来たのは母の方なのに。
 確かに父も祖父も手先が器用で、父は模型を作るのが趣味だ。祖父はよく木を彫っておもちゃを作ってくれていた。
 母は今でもきっと、僕がまた夢を追いかけるのではないかと不安なのだろう。ここへ引っ越すと決めたとき、スケッチブックや絵の具や筆は全部実家に置いてきた。もう絵は描かないと、母を安心させるためでもあった。それでもまだ母は怖いのだろう。安定した生活を送るのが一番の親孝行だと知ったけれど、現状を母に伝えれば卒倒しそうだ。
 布団に寝転がりながら、求人情報を漁る。給与、休日、福利厚生、職務内容、会社の知名度。あんまり残業が多いと自分が辛くなる。かといって給与はある程度ないと生活が困る。

 僕は一体何を目指しているんだろう。行きつく先はどこか。

 ふーっと大きく息を吸い込んで吐き出す。何度か深呼吸を繰り返した。
 何も考えるな。このまま流れに身を任せよう。たどり着くべき場所に流されて行くのだから。
 川の中を身一つで漂う自分をイメージしながら、そっと意識を手放した。