沸騰する湯を見つめていた。下からぼこぼこと水が揺れている。
 毎朝、必ずコーヒーを飲む。これが私――森野翔子(もりのしょうこ)の日課だ。顔を洗うより、歯を磨くより、テレビをつけるより先。起きたら真っ先に鉄の小さな鍋で湯を沸かす。
 夫が家を出るのは毎朝八時頃だ。二歳の娘が起きる時間はきっちりとは決まっていない。でも夫が出勤するときに挨拶をしたがる。だから遅くても八時には起こしている。
 夫のお弁当用にハンバーグを作り置きしておいた。弁当を作りつつ朝食を作る。きょうの弁当はハンバーグにきんぴらごぼう、ほうれん草の胡麻和えにミニトマト。炊き立てのご飯を敷き詰めて、上にのりたまふりかけをかけた。夫の食の好みは、子どものままで止まっている。娘と同じでのりたまふりかけが好きだ。ハンバーグも同じ。
 詰めていくと、ちょっぴり隙間ができたのでデザートに蒟蒻ゼリーを入れた。
 結婚して早いもので六年になる。料理が得意でない私でも、結婚してからは家族に健康的で美味しいご飯を食べさせたいという思いで料理を覚えていった。ひとり暮らしだった頃は乱れた食生活を送っていたけれど、家庭ができると私自身もちゃんとした大人になれた気がした。自分のため、というのが難しくても夫や娘のためならば頑張れた。

 六時半に夫起床。眠たそうな表情で、目をこすりながら「おはよう」とリビングへやって来る。そこでようやくテレビが付く。朝の占いコーナーを見てから夫は出勤するのが日課だ。
 テーブルの上に詰め込んだ弁当箱を並べて、少し冷ます。あとで包んで弁当用の袋に入れる。

「コーヒー飲む?」

 夫に訊ねた。ソファでまだぼんやりしている。夢の中に片足を突っ込んでいるような感じだ。
 オーブントースターに食パンを二枚入れ焼き始めた。フライパンに火をかけて、卵もふたつ割り入れる。

「あ、双子だ!」
「……双子?」

 夫は重たい腰を上げ、キッチンに立つ私の横へやって来た。フライパンの中を覗き、通常よりやや小さめの黄身がふたつ並んでいるのを見て「いいことありそうだな」と微笑んだ。ようやく、目が覚めてきたようだ。
 ふたり並んで、娘より先に朝食を取る。娘がいるとなかなか集中して食べられない。朝は一日のうち一番大切な栄養源だ。ここをきっちり摂らなければ、子育ては乗り切れない。
 きょうの朝食はバタートーストに目玉焼き、ソーセージにアボカドとトマトのサラダ。定番メニューだ。

 きょうは娘はなかなか起きてこなかったので、夫が出勤する少し前に起こし、玄関口に立たせた。目を強くこすりながら、バイバイと手を振る。
 娘に朝食を食べさせてから後片付け。洗濯物を回し、回している間に掃除機をかけ、かけ終わる頃に洗濯が終わる。
 ベランダを開けて、娘と遊びつつ外に洗濯物を干す。娘がぐずったりしなければ、昼前には余裕で終わる。でも何事も時間通りにいかないのが子育てだ。
 お昼ご飯を食べた後、娘は少しだけお昼寝をする。その時間は唯一自分のためだけの時間だ。毎日取れるとは限らない。この時間ができた日はラッキーデーだ。

 お昼寝が終わった後、近所の公園へ出かけて夕方まで遊ぶ。
 帰って洗濯物を取り込み、畳んだ後はすぐに夕食の支度。
 夫の帰宅は夜九時頃だ。私たちは先に夕食も風呂も済ませ、大抵娘は先に寝てしまう。
 私の毎日は、いつもこうだった。娘が生まれてからここ最近はずっとこのサイクルで日々が回っている。
 でもこの日々を壊したのは、夫が出勤した後の突然の来客だった。
 いつもの平日の朝。夫が出勤して一時間以上経った後だった。
 掃除をしている最中にインターフォンが鳴る。

「はい」

 我が家を訪れるのは夫の両親かうちの母くらいで、あとは宅配便ばかりだ。ネットで買い物はしていないし、親が来る予定もない。誰だろう。
 そう思ってドアを開けると、警察が立っていた。

「森谷正仁さんの奥さんですか?」

 テレビドラマのように、玄関口で私に向かって警察手帳を見せてきた。
 私は言葉を失くし、ただ頷く。

「突然ですが、ご主人を逮捕しました」
「……逮捕?」

 逮捕、という言葉が理解できない。私はただ警察官を見上げていた。

「あ、あの……」

 夫は一体なんの容疑で捕まったのか。
 訊きたいのに「あの」以外言葉にならない。
 警察官はそれを悟ったのか「盗撮です」と言った。

「と……盗撮?」

 頭の中が真っ白になる。何も描かれていないキャンバスのように真っ白だった。

「ご主人のスマホは今私たちが管理しています。普段使っているパソコンはありますか?」
「主人の部屋にあるノートパソコンなら……」

 警察官を主人の書斎に案内する。

「証拠としてこちらも預からなくてはいけませんので」

 私は呆然と立ち尽くしたまま、警察官がノートパソコンを持ち上げる様子を眺めていた。
 現実とはとても思えない。何がどうなっている。これはもしかしたら、新手の詐欺ではないだろうか。さっきの警察手帳も偽物のような気がした。

「あの、主人が盗撮したって……」
「通勤途中の駅で、階段下から盗撮していたのを目撃されて捕まりました」
「そ、それは本当にうちの主人なんですか……?」

 今朝、いつものように出勤していった夫を思い出す。「なるべく早く帰ってきてね」と笑顔で手を振って、娘と送り出した。
 うちの夫が? 本当に盗撮なんてしたのか? 冤罪、ではないのか?
 頭の中でぐるぐると回る。

「奥さん、こんなことはあんまり言いたくはないですが、ご主人はもう何度も盗撮しています。この先、ずっと繰り返す可能性は高いです」

 キーンと耳の奥が煩くなる。ぐらぐらと地面が揺れているような感覚もする。
 私はそのまま警察を見送って、部屋に戻った。部屋の中はいつもと同じ。何も変わらない。娘はテレビに夢中になっていた。