最近、少しずつ寒さが和らいでいくのを感じた。道の途中、咲き始めた花々を見て春の足音を聞く。桜の花、梅の花、菜の花。コンクリートばかりの住宅街の片隅で、たんぽぽが懸命に花を咲かせていた。桜が満開になるにはまだ少し早いようだが、梅の花は満開だった。もう三月だ。時が経つのは早い。

「今年は桜の開花が早いだろうね」

 徐々に温かくなってきているとは言え、鈴音さんの格好はまだまだ寒そうだ。きょうはいつもの緋色の着物ではなく、萌黄《もえぎ》色だった。厳しい冬を乗り越え、力強く芽吹く草花を連想させる美しい色だ。あとはいつもと変りない。煙管を咥え、煙をまき散らしている。目線は決まって、窓の外の椿に向けられていた。

「きょうはいつもの着物じゃないんですね」
「着物?」

 鈴音さんは僕の言葉がそんなに面白かったのか、くすくす笑い出した。

「これは着物の下に着る、長襦袢だ」
「え? 着物じゃないんですか?」
「今でいうなら、見せ下着に似ているかもしれないね」

 かーっと自分の顔が熱くなっていくのを感じた。ということは、鈴音さんはいつも下着姿で徘徊しているのか。ペンを持つ手が小刻みに震えた。

「そ、そんな恰好を描いちゃっていいんですか?」
「部屋着や寝巻としても使うものだ。何を興奮している」

 なぜ鈴音さんの絵を描いているのかと言えば、先日唐突に「私の絵を描いてくれ」と鈴音さんに言われたのがきっかけだった。絵なんてもうしばら描いていない。それに、絵の道具は一式実家に置いてきていた。断ろうと思ったが「描かないのなら給与はなし」と不当な発言を受けた。ここはある意味でブラック企業だ。

「ちゃんとポーズ取っててくださいよ」
「浩一こそ、美人に描きなんし」

 そう言ってふーっと息を吐く。
 だからきのう、わざわざ実家に帰ってスケッチブックだけ取って来たのだ。
 日曜の昼間だったので、父も母も家にいた。妹だけはバイトで不在だった。

「浩一、ちょっと」

 家に帰ると玄関から上がってすぐに父がそっと手招きして、小声で話しかけて来た。

「どうした?」
「お前の会社が潰れたって聞いたぞ。大丈夫なのか?」

 僕は慌てて居間にいる母の方を見た。テレビに夢中になっており、こちらの会話は耳に入っていないようだった。

「大丈夫、母さんには話してないよ」

 父の言葉にほっと胸を撫でおろす。

「まあ、なんとかやってるよ。保険も出るし、今は仕事を探しているところだから」
「そうか。何かあれば、いつでも頼って来いよ」
「ありがとう」

 父はそう言ってから居間に戻り、母の隣に座って小さな模型を作り出した。週末は決まってミニチュアサイズの模型を作るのが日課だ。母はもっと身体を動かしたりするような趣味を見つけなさいよ、と文句を言っていた。

「ご飯食べてく? あんたの好きなカレイの煮つけ、作ろうと思って」
 母はテレビを観ながら僕に訊ねた。
「じゃあ、久々に食べていこうかな」
「あなた、さっき片付けたばっかりなんだから散らかさないでくださいよ。それに、もうどこにも置き場所はないですからね」

 父はちょうど和菓子屋の三色団子に色付けをしているようだった。大きな拡大鏡を使って、米粒ほどの小さな玉にピンクや緑で色を塗っていた。気の遠くなる作業だ。
 父の部屋は小さな模型だらけだ。最近は昭和の雰囲気を残した店の再現をするのにハマっているらしい。

「肩、凝らない?」

 僕は全神経を研ぎ澄ませている父に訊ねた。

「……凝る」

 しばらく間を置いてから返事があった。

「マッサージしてくれるのか?」
「……いや?」

 なぁんだ、と父は笑ってまた作業に取り掛かる。

「お金になるような趣味ならいいんだけどねぇ」
「でも、こういうのが好きな人はいっぱいいるよ。SNSとかで拡散したら、買いたいって人がいるかもしれないし」

 すると母は僕を見て大きなため息をついた。

「これを作るのに、どのくらいの時間を費やしていると思ってるの。時給に換算したら、大変な値段になっちゃうでしょ。そんなお金持ちがこんなものを買うわけないじゃない」

 なかなかに酷い言葉だ。父が一生懸命作った作品を、こんなもの呼ばわりとは。でも父は「はっはっは」と朗らかに笑っている。母は短気で現実主義者だ。父は温厚で穏やか。だからこの夫婦は成り立っているのだろう。普通の人ならブチ切れて、とっくの昔に母を捨てている。

「あなたのご先祖様は確か、錺師(かざりし)だったんじゃなかった?」
「……錺師?」

 父はふぅ、と息を吐いて額に滲む汗を手で拭う。三色団子を三本作り終えると手を止めて母を見た。

「そうらしいね。まあ、証明できるものは何も残ってないけど……あ、あるある。浩一が持ってるぞ」
「え?」

 僕はびっくりして父を見る。

「錺師ってそもそもなんだ?」
「あんた、美大に行ったのに知らないの?」

 母に文句を言われ「美大に行ったからってなんでも知ってるとは限らないよ」と言い返した。

「錺師っていうのは、彫金とか蝋付けとか金属を加工する人だ。今でいう、宝石装飾とかかな。建物や神輿を飾る金具なんかも作ってるよ」
「でも、明治維新で職を失くしたのよね。そのまま宝石店とかになっていれば、話は別だったけれど」

 母はそう言って自分でお茶を淹れて飲む。つくづく宝石とは無縁の人生だわ、とため息を漏らした。

「たしか、うちのご先祖様が錺師をしていたのは江戸時代くらいの話だったから、刀の鍔とか簪とか煙管とかを装飾していたんじゃないかな」
「え?」

 簪や煙管? 今の僕には馴染みのある品物ばかりだ。僕のご先祖様はもしかして、鈴音さんの簪を作っていたかもしれない。いや、それは僕の考えすぎだろうか。

「浩一は持ってるだろ? 大きな古い鈴だよ」
「……鈴?」

 僕はそっとポケットから家の鍵を取り出した。リン、と鈴の音がする。

「それそれ。じいちゃんがご先祖様が作ったやつだって」
「高価なもの?」

 母が僕の手のひらから鍵をもぎ取ってまじまじと見る。

「ただの古い鈴だよ」
「なぁんだ」

 母が鍵を持ち上げたのはほんの一瞬で、父の言葉を聞いてすぐに僕の手のひらに戻した。