閑静な住宅街に、ぽつんと取り残されたように佇む古民家――〈夜這星〉。一見、空き家のように見えるが違う。ここへはいろんな悩みを抱えた女の人たちがやって来る。
 ここはお悩み相談所。ただのお悩み相談所ではない。女による女のためだけの相談所だ。悩みを聞いてもらうだけなら無料。もし報復を願う場合は、それなりの報酬が必要になる。報酬は、大切な思い出の一日だ。

 男の僕がここへ迷い込んで一週間以上になる。鈴音さんは相変わらず男嫌いだ。その理由はわからない。ただ他にもわからないことが多すぎて、毎日鈴音さんに振り回されている。
 一応玄関横に〈夜這星〉と書かれた看板があるが、字は薄く消えかかっている。それになんだか汚い。汚れている。A四サイズほどの木の看板は軽く、ひょいと持ち上げられた。指先で汚れを払い、再び戻す。

 〈夜這星〉というと、なんだかいやらしい意味に聞こえてしまう。あれから〈夜這星〉という言葉を調べてみた。どうやら俳句で使う季語のようだった。結局は流れ星を指す言葉らしい。昔の人は、流れ星は人の身体から抜け出た魂だと信じていて、愛する人のもとへ行く姿だったと言われている。
 鈴音さんって、いつもあんな感じだけれど案外ロマンチストなのかもしれない。
 そう思いつつ引き戸に手をかけた。何やら中から大声が聞こえる。客が来ているのだろうか。
 引き戸を引こうとした瞬間、中から人が飛び出してきた。
 突き飛ばされ僕は尻餅をついた。手に持っていた缶コーヒーが道にコロコロと転がっていく。

「……すみません」

 黒髪に空色のコートを羽織った女の人は、小さな声で謝り走り去った。長い髪をひとつに束ねており、白い花の髪留めがついている。

 ……なんだったんだ。

 僕はその後ろ姿をじぃっと見つめていた。

「だから男は好かん」

 玄関口に立っていた鈴音さんが、僕を見ながらそう言った。

「あの……傷つくのでやめてください」

 おそらく僕に対する言葉ではないだろうが、鈴音さんにとっては関係ない。鈴音さんは僕も含め、この地上にいる男を皆平等に嫌っている。
 僕は立ち上がり、転がった缶コーヒーを拾い上げた。少し凹んでいるが、別に問題はない。零れなくてよかった。
 駅前の自販機で買った缶コーヒーでささやかな暖を取りながら、靴を脱いで玄関から上がる。部屋の中があまりに寒すぎて、温かい飲み物を口にしなければ凍死しそうだ。
 毎日薄着で肌を露出している鈴音さんは、寒さを感じないのだろう。鈴音さんに触れられたときは、身体の真まで凍りそうだった。
 鈴音さんはゆったりと緋色の着物の裾を引きずりながら歩く。まるで水中を泳ぐ赤い金魚の尾鰭だ。
 鈴音さんは人ではない。
 そうとわかっているのに、鈴音さんの姿を見るたび僕はドキドキしていた。確かに人ならざる美しさだ。でも、鈴音さんが人ではないなんて未だに信じがたい事実だった。

「さっきの人、どうしたんですか」

 泣いていたようだった。何かトラブルだろうか。

「客だったが、こっちから断った」
「断った?」

 すかさず、訊き返す。
 この約一週間〈夜這星〉を訪れる客は僕の予想に反して多かった。どんな報復も請け負っていた鈴音さんが、今回の一件を断るなんて。そんなに厄介な話だったのだろうか。

「浩一は知らないだろうが、私だって断るときがあるのさ」

 いつもの椅子に座り、ふぅっと白い煙をまき散らす。鈴音さんが、かつて江戸の吉原にいた清葉という遊女の簪だったなんて、やっぱり信じられない。むしろ、使っていた本人ではないだろうか。何らかの理由で時間にずれが生じて、江戸時代から現代へやって来た。それだってありえない話だが、そっちの方がまだ理解できそうだ。