玄関口にいたのは、僕と同じ年くらいの女の人だった。栗色の髪を肩より上に切りそろえ、赤いマフラーを巻いている。

「どのようなご用件でしょうか」

 僕に話しかけるときとは打って変わって、物腰柔らかな口調で彼女は訊ねた。

「あの……なんでも相談を聞いてくれるって」
「ええ。どんな悩みでも」

 赤いマフラーの彼女は家の中をきょろきょろと見まわして、少し怪しんでいるようだった。僕と目が合い、僕はどうしていいのかわからずさっと目を逸らした。

「さぁ、中へ。話を聞かせてもらいましょう」

 彼女は僕の耳元にそっと唇を近づけて「お茶」と囁いた。また、全身がぞわぞわする。
 どうやら僕は、もう雇われたらしい。
 彼女は顎で奥の方をさした。そこにキッチンがあるのだろう。
 僕は何も言わずに黙ってその方向へ歩いた。
 どこに何が置いてあるのかさえさっぱりわからない他人のキッチンに立ち、湯を沸かす。

「何やってんだ、僕は」

 自分で自分に突っ込みを入れた。
 食器棚の下の戸を開けてお茶の葉を探したが、見当たらない。
 だがしかし、お茶ってどうやって淹れるんだろう。ひとり暮らしは半年前に始めたばかりで、家事は得意ではない。料理だって、カレーとかハヤシライスくらいしか作れない。ここ最近はもっぱら鍋ばかりだ。それか、スーパーの弁当で済ませていた。
 いろんな戸棚を開けてみたがお茶が見当たらず、インスタントコーヒーを見つけてそれにした。
 古い食器がびっしり棚に収納されている。埃がついているので、あまり使っていなさそうだ。
 僕は仕方なくコーヒーカップを一度洗い、それからコーヒーを注ぎ入れた。もくもくと白い湯気が立ち込める。温かそうだ。自分用にも、小さなマグカップを拝借して注ぐ。カップを握りしめると、その温かさに思わずほっとしてしまう。
 コーヒーを持って先ほどの居間へ行くと、赤いマフラーの彼女はぎこちない様子で座っていた。無理もない。僕だってここはなんだか落ち着かない。

「さぁ、どうぞ」

 僕が淹れたコーヒーなのに、彼女がそう言って手渡した。

「砂糖とミルクは?」

 僕の方を向いて訊ねる。持って来い、という意味か。
 仕方なくもう一度キッチンに戻り、角砂糖が入った瓶から小さな皿に砂糖を出し、冷蔵庫から牛乳を取り出す。賞味期限は大丈夫だろうな、と一応日付を確認し、小さなカップに入れて再び持って行った。

「ありがとうございます」

 赤いマフラーの彼女は消え入りそうな声でお礼を言うと、コーヒーに砂糖もミルクも入れずにブラックのまま飲んだ。

「私、濱崎佳奈(はまさきかな)と言います」

 濱崎さんは、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

「ここの話は、会社の同僚から聞いたんです。それで……」
「ここへ来るまでの経緯はいいの。あなたの話を聞かせてちょうだい」

 濱崎さんと目が合う。僕の存在が気になるのだろう。

「彼もここにいていいかしら。助手なの」
「そう……なんですね」

 助手。まぁ、償いのために働くのなら助手と呼ばれても仕方ないのかもしれない。

「婚約者から、婚約を破棄してほしいと言われました」

 ――リン

 濱崎さんが話し始めると、鈴の音がした。彼女から聞こえるような気がする。しかし、濱崎さんは鈴の音を気にする様子はなく、そのまま話を進めた。

「三年間交際した相手でした。ほんの数か月前にプロポーズされて、指輪ももらいました。順風満帆な日々でした。それなのに、最近なかなか連絡をくれなくなって、会えない日が続いて。ようやく会えたと思ったら、婚約を取り消したいと言われたんです」

 酷い話ではある。でも、僕としてはそう簡単に婚約破棄を申し出るか疑問だった。何かのっぴきならない事情ができたのではないだろうか。だって、ただの約束とは違う。プロポーズしたのだ。

「理由は?」
「問い正していったら、浮気していたんです」

 前言撤回。最低な男だ。濱崎さんに同情したかったが、口を挟んでよいものかわからず、ただ黙っていた。