鈴の音が聞こえた。
 清葉(きよは)の黒く艶やかな長い髪が乱れ、赤い長襦袢が揺れていた。風に靡くと、水中で泳ぐ赤い金魚のようにひらひらと舞う。
 清葉は泣いていた。大粒の涙が、頬を伝い珠のように落ちていく。

「おさらばえ」

 泣きながら眉を顰め苦しそうに笑う清葉が、一筋の光もない暗闇へと吸い込まれる。

 ――清葉、清葉。

 手を伸ばしたいのに、腕がない。叫びたいのに、声もない。
 清葉の身体は闇の中へと溶けて消え失せ、私はぽつんと取り残された。

 何も、できなかった。

 ***

 目を開けると、自分が誰なのかさえ一瞬わからなかった。数秒ほどぼんやりと天井を見上げて、ようやく夢を見ていたのだと気がつく。
 遠い昔の夢だった。ずっとずっと、遥か遠い昔の話。
 もう一度、瞼を閉じる。でもすぐに目を開けた。また先ほどの夢の続きが始まりそうで、仕方なく身体を起こす。赤い羽織を肩にかけ、そっと手で撫でると花の模様が浮き上がっていた。梅の花だ。
 花の輪郭をなぞり、深く息を吸い込む。冷たい空気が身体に流れ込んできた。あれから何度目の冬だろう。数えたくもない。
 素足で床を踏むと、軋む音が私の後をつけてくる。窓ガラスを開けると、庭の椿にうっすらと雪が積もっていた。辺りはしんと静まり返り、人の気配もない。
 鏡の前に座り、自分の顔を見つめる。――いや、清葉の顔を。
 私には名などない。名もなければ身体もない。私は一本の簪だった。今から遠い昔、吉原の遊郭にいた遊女清葉が大切に使っていた簪だった。小さな鈴が付いていて、リンと清らかな音がした。
 清葉が死んだあの日、私は清葉の姿としてこの世に生まれた。その姿形は清葉が死んで恐ろしい年月が過ぎても、朽ちることなく生き続けている。
 なぜ私はここにいるのか。何のために生まれたのか。その答えは、いつまで待ってもわからない。
 水で溶いた筆で玉虫色の紅をそっと撫でる。唇にのせれば、血のように赤い。

「おさらばえ」

 私は鏡の中の人に微笑んで言った。
 顔は清葉でも、私は清葉ではない。夢の中の清葉とはまるで別人だった。

「あの……すみません」

 消え入るようなか細い声だったが、私には聞こえた。さて、仕事だ。
 玄関の戸を開け、にっこりと笑みを浮かべ客人を招き入れる。白いマフラーを首に巻いた女が、白い息を吐きながら立っていた。

「どのようなご用件でしょうか」

 女は、目を伏せておどおどしながら小さな声で答える。

「どんな悩みも解決してくれると……」

 女の様子からして、何やら人には言えないような悩み事がありそうだ。そんなにおいが漂っている。

「ただ愚痴を吐いてスッキリするもよし。それならば相談料は無料です。ただし、報復を願う場合は、それなりの報酬を支払ってもらいます」
「あの……私お金は、あんまり持ってないんですけど」

 恥ずかしそうに頬を赤らめて言う女に、私は大きな声で笑い飛ばした。

「お金なんて、何の役にも立ちやしませんよ」

 私がそう言うと、女は目を真ん丸にして食いついてきた。

「報酬ってお金じゃないんですか?」
「あなたの大切な思い出の一日。その記憶を私に下さい。それが、報酬です」

 女はもっと目を大きく見開いたまま固まった。

「ここは、女のためだけの相談所。さ、ご遠慮なさらず。私になんでもご相談くださいな」