マスターは茜さんにミストを与えることを決めたけれど、ひとつ条件を出した。

それは茜さんの彼氏をここに呼ぶこと。
相手側の事情を知らなければ、ミストが効果的に働くのかどうかがわからない。本人の形を調べる必要がある。

「なるほど、これは確かに相性が良さそうですね」

カウンターを挟んでマスターの前に座るのが茜さんの彼氏である橘優太さん、いまは学校の帰りなので制服を着ている。
茜さんよりもひとつ年上の北黎の二年生で、部活などはやっていないらしい。

「手相なんて意味があるの?」

優太さんが手を引っ込めて不思議そうに聞く。
茜さんからは知り合いのマスターが手相占いが得意だから一度行ってみて、と言われたらしい。

茜さんからわたしとマスターに言われていたこと、それは自分が炎の性質であることを伝えないでほしい、ということだった。

マスターはあくまでも普通のカフェのマスターで、特別な能力はないという前提で事を進めてほしいと。

茜さんにとっては、相性が悪いということが伝わるのが怖いらしい。

「ありますよ。手相は長年蓄積された情報を元に体系化された知識ですから、相性を判断する上でもひとつの参考になることは間違いがありません」

マスターにはおそらく、手相の知識なんてない。
茜さんのために手相に詳しいカフェのお兄さんを演じている。
平然と嘘をついているところはなんかちょっと怖いけれど。

「でも、結局は魔法の相性なんじゃ」

「魔法の繋がりは条件のひとつに過ぎません。人としての理解こそが何よりも重要ですから」

「でも、あいつとの相性が悪かったら、付き合うことすらできないんだけど」

すでに茜さんは優太さんに魔法の才能が目覚めたかもしれないと伝えていた。
それで今度学校で検査を受けることになっている。

「もし、認められないような組み合わせたったら、あなたはどうするつもりですか」

「それは」

「橘さん、あなたの家はとくに相性は気にされるのでは?」

橘優太さんの実家は血族と呼ばれる、純粋な魔法士の家系だった。

長年魔法士のみでの結婚を続けてきた家をそう呼び、いまでは数少ない貴重な存在となっている。

魔力も必然的に強くて、だから相手の素性にはとても敏感。
もちろん、相性が悪ければ結婚は認めないはず。

「そんなのわからないよ。結婚とか考えるような年齢でもないし」

「では、実家からは交際については何も言われていないのですね」
「……」

優太さんの沈黙。
その反応を見ると、親からはやっぱり、細かい注意が与えられているのかもしれない。

「ところで、お二人の出会いはなんだったんですか?」

そう言えば出会いのきっかけを茜さんからは聞いていなかったなと思い、わたしが優太さんに確認をした。

同級生ならともかく、優太さんは先輩。
入学してそんなに経っていないなかで知り合うのは、何か特別なきっかけがあったんじゃないかなと思った。

「茜が落ちてきたんだよ」

「え?」

それは入学直後のこと。

優太さんが学食から教室に戻ろうと校舎の階段を上っていると、上の方から女子生徒が歩いてくるところだった。

ちょっと脇にどけようかとしたところ、その女子がふらりと体勢を崩し、そのまま落下。

優太さんは慌ててその体を受け止めた。

で、その女子というのが茜さんだったというわけ。

「そのまま保健室に運んで事情を聞いたんだ。そうしたらバイトでの疲れがたまっていて、それで気を失いそうになったらしいと聞かされた」

その出来事がきっかけで二人は非公式ではあるものの、付き合うことになったらしい。

「運命的ですね。そういう出会いってなんか羨ましい」

「片岡さんはなぜ、階段を下りてきたのですか?」

「え?」

「わたしもあそこの出身なのですが、北黎の校舎は下から下級生の順に並んでいますよね。特別教室などは別棟で、一年生が二階以上に行く用などはないと思うのですが」

「さあ、そこは何も聞いてないけど、知り合いに会いに来たとかかな」

「片岡さんはこの街の出身ではありません。入学直後に先輩の知り合いがいるとも思えないのですが」

「なら、屋上でお昼ご飯を食べていたんじゃないですか?」

わたしがそう指摘すると、マスターは軽く首を振った。

「バイトで疲れていた人がわざわざ屋上に行く必要はありませんよね」

「あ、そっか。じゃあ、一階のトイレが混んでいて、それで二階にまで行ったとか?」

「なるほど、その点には気づきませんでした」

と言いながらも、マスターの顔にはどこかしっくりきていないようだった。

「そんなに気になることですか?」

「なにぶん神経質なもので」

そうかな?
わたしの知るマスターはおおらかで、あまり細かいことは気にしないタイプのはず。

わたしが備品を誤って壊しても怒ったりしないし、掃除が行き届いてない場合は自分でささっとやってしまうから。

「橘さん、ひとつお聞きしたいことがあるのですが、あなたの父親である橘海斗さんは、特務部隊に所属していますよね」

特務部隊は警察と軍の間に位置するような組織で、主に魔法士の犯罪に対応する。

警察などとは違って全員が魔法士で構成されているのが特徴。

魔法士が相手だけにテロへの対応など、過激な任務が多いとされている。

「そうだけど、それがなにか?」

「特務部隊はかなり危険な仕事だと聞きます。子供として心配になったりはしないですか?」

「とくにはないかな。父親は家をあけることが多いからなんか親子って感じもしなくて」

特務部隊は長期的な作戦が多くて、全国に派遣されることも珍しくはない。
優太さんはお父さんとは思い出らしい思い出がなくても、当然かもしれない。

「では、橘さんは後を継ぐつもりはないのですか」

血族の能力の高さはよく知られているので、必然的に特務部隊からのスカウトはくる。

テロの頻発によって慢性的な人員不足とも言われているので、熱心な誘いがあるのかもしれない。

「おれはあまり、戦いとか興味ないから。将来は研究者とかになりたいと思ってるし」

「研究者?」

「物理学とかに興味があるんだ。魔法を使うよりも、それを細かく分析して、現象を解明するほうが好きで、だから大学は有名な先生のいる海外を目指そうかと思ってる」

「なるほど。ですが、両親からは反対されるのではないですか」

血族には国に貢献すべきという意識があるし、周りもそれを期待する。もし優太さんが海外で就職、なんてことになったらマスコミも騒ぐかもしれない。

「そうかもしれないけど、最後は自分の決断だから」

「兄弟はいるんですか?」

「いや、ひとりっ子だけど」

「なら、相当な覚悟が必要ですね。生半可な気持ちでは途中で断念することになるかもしれませんよ」

「もう決めてるんだ。就職もそのまま向こうでしようと考えてるし」

優太さんは本気なようだった。
表情に覚悟が現れていた。単に家柄に嫌気が差したとかいうわけじゃなさそう。

「そのことを片岡さんは?」

「いや、知らないよ。まだ……」

そこまで言って、優太さんはハッとしたような顔になった。

「どうしてだろう。まだ誰にも打ち明けないつもりだったのに、マスターの前だとつい本音が出てしまった」

マスターは微笑みながら入れたばかりのコーヒーを出した。

「その夢、片岡さんにだけは早めに伝えた方がいいかもしれませんね。留学直前に言われても、困惑するだけですから」

「茜には何も言わないつもりなんだ」

「おや、どうしてですか」

「そのほうがお互いのためかなって」

お互いのため?

その理屈がわたしにはよくわからなかった。

留学の件を伝えないということは、何も言わずに別れるということ。
それはあまりにも無責任だし、茜さんだって傷つくだけ。

「優太さん、そういうことはちゃんと言わなきゃダメですよ。仮に向こうで就職をするとしても、それで関係が終わるとは限らないわけですから」

わたしがちょっとキツイ感じで言ったからか、優太さんが気圧されたような顔をした。

「正直に言うと、迷っている部分がある。どっちが茜のためになるのか、よくわからないから」

「……海外での永住となると、周囲からの反対も強いでしょうからね。慎重になる気持ちもわかりますが、結婚するならお二人の場合、制度面においても向こうの方が楽かもしれませんね」

「それはそうだけど、相性だけで海外を目指すわけでもないし、本人の気持ちを無視するわけにもいかない」

「茜さんのことが好きな気持ちは確かなわけですね」

「まあ、そうだけど」

「ならやはり、本人の意思を確認すべきだと思います。橘さんが悩んでいるということは、片岡さんについてきてもらいたいというのがあなたの本音なのでしょう」

「それは、まあ」

海外で研究者として就職、それと茜さんとの交際、これを両立させるのは確かに難しいかもしれない。

高校生のいま、海外まで付いてきてほしいなんて言葉を簡単には口にはできない気持ちもよくわかる。

「わたしのほうから探りでも入れておきますか。片岡さんが海外生活に興味があるのかどうかを」

マスターの問いに、優太さんはしばらく答えなかった。

「……いや、いいよ。卒業まで二年近くあるし、そもそも付き合えるかどうかもわからないから」

「そうですか。ではひとつ、約束をしてもらえますか」

「約束?」

「もしあなたたちが無事に付き合えたのなら、旅立つ前に必ず片岡さんに自分の夢を伝えること、これを約束をしてもらいたいのですが、構いませんか?」

「まあ、別にいいけど」

そこで優太さんははじめてコーヒーに口をつけた。
もうすっかり冷めているはずなのに、その表情にはどこかホッとしたような色が浮かんでいた。