――十年前、紬の兄の絆は願い屋七つ星を訪れた。

 街の片隅にひっそりと佇む古びた植物園。既に閉園し、中にある草木は枯れていて、今はもう誰も近付こうとしない。

 その場所に、白の魔女の温室へ続く扉はある。

 小さな扉だ。

 背の高い絆は、半ば都市伝説めいた噂だけを頼りに、這いつくばるようにして、不思議なその扉をくぐった。

 直後、絆の体は不思議な空間に投げ出され、そして――。

 ――ずでん。

『ってぇ……』

 思い切り背中を打ち付けた絆は、背中をさすりながら立ち上がる。
 そこには、不思議な雰囲気の温室が広がっていた。つぎはぎの空には、一面に紫色の空が広がっている。

『プラネタリウム……?』

 絆は朝焼けの空に圧倒されつつ、辺りを見回す。
 いたるところに見たこともない植物が生い茂って、部屋中芳しい香りで満たされていた。

 室内なのにどこからかそよそよと風が吹き、葉を揺らした。

 蝶が舞う。鳥が鳴く。
 不思議な空間に、絆は一瞬、時を忘れて呆けた。

『――誰?』

 突如聞こえた、甘くしっとりとした蜂蜜のような声に振り向くと、そこには美しい少女が一人、立っていた。

 陶器のような肌、長い睫毛に縁取られた瞳は深い宇宙を宿したような藍色で、動かなければまるで人形のよう。

『あ……あんたが、魔女なのか?』

 白色と茶色の清楚なワンピースを着た少女は、この不思議な空間によく映える。

 すると、細く白い足がすっと動き、絆の前で止まる。

『なにか願いごとがあるのね』
『……助けてほしいんだ』

 少女は大きな藍色の瞳を瞬く。彼女の瞳の中で、星が流れたような気がして、絆はハッとした。

『あなたの願いは、なに?』
 憂うように、少女は訊ねる。

『……弟を助けたい。弟は、街のヤツらに狙われてるんだ』
『どうして?』

 少女は澄んだ声で訊ねた。

『弟の両親が犯罪者なんだ。被害者遺族が弟に復讐しようとしてる。俺は……助けたいんだ、守りたいんだ。この世でたった一人の弟を』
『弟の両親?』

『弟は昨年、俺の弟になった』
『……どういうこと? あなたはどうしたいの?』
『この街を消してほしい。弟を犯罪者呼ばわりするこの街を』

 絆はまっすぐに少女を見据えた。その瞳に、一切の迷いはない。絆の瞳は昏く、深い闇の色をしていた。
 しかし、少女は目を伏せ、首を横に振った。

『ごめんなさい。あなたの願いごとは大き過ぎて、私じゃとても……』

 彼に『対価』をもらったとしても、今の自分の力では、とても補えない。

 自分には他にもやらなくてはいけないことかあるのだ。そちらの方が、自分にはとても大切なのだ。

『そんな……どうか、頼む。なんでもする! だから……紬を助けてくれ』

 その瞬間、少女がピタリと固まる。

『紬?』
 少女はつかつかと近づき、絆に問う。
『あなたの弟、紬って言うの?』
『あぁ……血は繋がってないけどな』
『写真は?』

 突然態度を翻した少女に戸惑いながらも、絆は紬の写真を見せた。少女は、ハッとしたようにその写真を見つめた。

『あなたの願いごとって……』

 そして、その口が願いごとを紡いでいく。

『昨年起きた唐草区黒羽財閥本社タワーの爆破テロ。あれで犠牲になった被害者遺族が集まった、被害者遺族の会のある記念碑タワーを潰してほしい。でも、それだけじゃダメだ。この唐草区の人間を皆、消してくれ。街の奴らはほぼ全員、あのタワーに勤めていた家族がいる。つまりこの街自体が被害者遺族の会なんだ。紬の……俺たち綿帽子家の敵なんだ』

 絆はいくつかの写真を取り出し、見せた。そこには、立派なコンクリートとガラスでできたタワーがある。

 タワーの中央には、『私たちは忘れない。あの悲劇を。私たちは許さない。あの悪魔を――』の文字。
 それはまるで、タワー自体が高尚な記念碑のよう。

『この高層タワーだ。このタワーさえなくなれば、この街は安全になるんだ』

 絆はギュッと拳を握る。その手は怒りに震えていた。

『あなたは……彼のお兄さんだったの?』
『紬を知っているのか?』
『彼は……私の運命』

 吐息のようなか細い声で、少女は言う。しかし、少女の言う運命とは、どういう意味なのだろう。

 絆は彼女に問おうとしたが、それよりも先に少女が口を開いた。

『……分かった、助ける。彼を助けることは、私の願いごとでもあるから。また明日来て。詳細はそのときに』
『分かった。君の名前は?』
『――雫よ。英雫』