1   

 すぐには気づかなかった。左手が透明になっていることに。
 朝目を覚ましてから、左の手の甲で目をこすった。
 時間を確認しようと思い、枕元に置いてあるスマートフォンを手探りで掴んだ。
 それから、スマートフォンを顔の前に持ってくる。まだ、完全には開き切っていない目で、ぼんやりと現在時刻を確認した。
 瞬間。悲鳴とも奇声とも呼べない声が出た。化け物に予期せず出会ったら、こんな声が出るのではないだろうか。そう思うほどの声。
 掴んでいるはずの左手が消えていて、スマートフォンが虚空に浮いているのだ。
 僕は、しばらくの間、呆然としていた。
 それから、もしやと思い、長袖をめくり上げた。やはり、左腕まで綺麗に消えている。
 言葉が出ない。声の出し方を忘れたように。
 夢ではない。感情の振れ幅が大き過ぎるからだ。僕は夢の世界では無感覚だから。
 でも、極端に存在感が薄い僕なら、こんな不可思議なことも起きるのかもしれない。
 僕は家族にでさえ、存在感が薄い人間だと思われている。いつかの家族旅行のとき。サービスエリアで休憩をして、再び出発するときに、僕はサービスエリアに置き去りにされてしまった。
 高校のクラスメイトも同じだ。名前はともかく、名字すらも覚えられていない。
 透明にはなったものの、感覚は残っているようだ。
もう一度、さきほど驚いて落としてしまったスマートフォンを掴んでみた。スマートフォンは、見えない力によって、宙に浮かんで見える。マジシャンのマジックのように。
 僕はなんだか気味が悪くなり、スマートフォンを宙から落とした。
 僕は息をひとつ吐いてから、今後について思案した。意外と冷静なようだ。
 こんな状態でも学校は休めない。
 それから、しばらく、左腕と左手が存在していた部分を、ぼんやり眺めていた。
 僕は母と父には、品行方正な少年で通っている。僕は小学校から現在まで、遅刻はおろか、病欠さえもしたことがない。その記録には、僕以上に両親がこだわっている。
 それが、休めない理由でもある。
 僕の思考を遮断するように、スマートフォンのアラームが突然鳴り始めた。このアラームが鳴ったら、学校へ行く準備をしなければ遅刻してしまう。最後の通達だ。
 でも、その前に、まずは左腕と手を隠すための策を講じなければ。
 僕はベッドを離れてから、クローゼットを開けた。中には中学生のときに母からプレゼントされた手袋が収納してある。それに、長袖のスクールシャツも。
 季節は初夏。手袋をはめて長袖なんて着て登校すれば、どんな視線が注がれることか。
 でも、僕にはいらぬ心配だ。それは、教室内でのヒエラルキーが高い人種のみ。
 僕が季節外れの手袋なんかを左手にはめて、長袖のシャツを着て登校したところで、よくて一瞥。それから、鼻で笑われる程度だろう。
 ハンガーにかけてある長袖シャツを手に取る。
 部屋着から長袖のスクールシャツに着替える。
 手袋は衣装ボックスの一番下の段の奥に小さく丸めてから入れてある。
 衣装ボックスから左の手袋だけを取りだした。バランス的に両方はめるか迷ったけれど、暑苦しそうだったので止めた。
 透明な左手に、そっと指を通すと、当然のように五本の指に綺麗に分かれた。
 僕はグーとパーを交互に繰り返してから感触を確かめた。問題は無さそうだ。
 それから急いで残りの準備をした。
 家を出るときに、母にこの格好を見られないように、声だけかけて、逃げるように家を出た。
 問題はその後だった。
 僕なんかを注視する人はいないだろうけど、季節外れの長袖に左手だけ手袋。不審者と勘繰る人がいるかもしれない。
 僕は手袋をしている左手をズボンのポケットに突っ込み、視線はなるべく一点から動かさないようにして登校した。

      2

 教室の前に着くと、僕は扉を開けることを躊躇した。扉を開けたとき、意志のない視線がこちらに向くことが嫌いだから。
 僕がいつも早めに登校するのはそれを避けるためでもある。
 今日は仕方がない。なにせ、左腕と左手が消えてしまったのだから。
 教室に入るとき、ポケットから手を出した。ポケットに手を突っ込んだままだと、生きがっているように思われるかもしれない。
 引き戸に手をかけて、扉を開けたとき、いつもより扉が重たい気がした。
 教室の中からは、いくつかの視線が、僕の方に向けられた。
 僕は赤外線レーザーを掻い潜るようにして、自分の席まで向かった。
 僕の今日の格好に対しての質問は、当然のように誰からもなかった。
 ただ、三人でワンセットの女子達が、僕の方を何度か見てから、僕のことを嘲笑しているように感じただけだ。
 僕が席に着いてから五分もしないうちに、担任教師が教室に入ってきた。
それから、教室の中ではいつも通りの時間が流れて、何事もなく放課後を迎えた。
 ホームルームが終わると、僕は一目散に教室を飛び出した。
 早歩きで校門に向かっていると、背後から、同じような足音がした。
 僕は知らん振りを貫く。
 その足音の主に声をかけられたのは、校門を出てからすぐのことだった。
「あきら君!」
 その呼び声で、すぐに誰だか分かる。
 奈々美だ。
 彼女とは幼稚園からの付き合い。まさか、高校も同じだとは想像もしていなかった。
 ただ、付き合いと言っても、もちろん、男女の付き合いなんかではない。
 単なる、幼なじみの関係だ。
 僕はひとまず足を止めた。
 それから、上半身だけを捻って、彼女の呼びかけに応えた。
「なに・・・・・・?」
 彼女に視線は合わせないで、空に浮かんでいる亀のような形をした雲を見ながら、僕はそう言った。
「その手、どうしたの? 怪我でもした?」
「・・・・・・。たいしたことじゃないよ」
 彼女と言葉を交わしたのはいつ振りだろうか。昔はお互いの自宅を頻繁に行き来する関係だったのに。
「僕にかまってる暇があれば、あいつとデートでもしたほうがいいんじゃないの?」
「なにそれ。どうしてそんなこと言うの?」
「ほっといてよ」
 僕はそう吐き捨てて、自宅へ向け、さきほどよりも速いスピードで歩き始めた。
 
      3

 自宅に着くと、自室へ直行した。
 それから、目を閉じて左手の手袋を外して、長袖のシャツを脱いだ。ゆっくりと目を開ける。そこには、朝と変わらない透明になった左腕と左手があるだけだ。
 僕は、息をひとつ、ついた。
 奈々美には、ひどいことを言った。彼女は何も悪くない。僕のことを気にかけてくれていたのに。
 でも、昔のように接することができない。
 僕は変わってしまったから。奈々美の優しさを素直に受け取れなくなってしまった。
 僕は消えた部分を、まじまじと見つめた。
 これから、この姿のままで、死ぬまで生きていくのだろうか、と漠然(ばくぜん)と思った。
 得体の知れない不安が、突如として、僕の心を支配する。
 非現実的な一日で、ひどく疲れた。とりあえず、部屋着に着替えようと思った。
 ズボンを脱いでいる途中で、思わず叫び声を上げて、絶句してしまった。そのままバランスを崩してよろける。
 左の太股から足首の上までが消えている。すぐに、靴下も脱いで確認する。同じように足首から下も消えていた。
 もしかすると、腹部と胸部も。そう思って、肌着をそっとめくってみた。
 予想通り。
 左半身はほとんど透明化している。
 感覚は残っているのに目には見えない。
 泣きたい衝動が急に沸いてきた。なんで、僕だけが、こんな目にあうのだろうか。
 けれど、下唇を噛み、その衝動を押し殺す。
 まずは、現状をしっかりと把握しなければ。
 僕は自室から出て、脱衣所へ向かう。
 今日は家に誰もいない。母親はどうせ、ご近所さんと中身のない話でもしてるはずだ。
 いくら家には僕だけしかいなくても、左半身が透明のまま自室を出るのはためらう。結局、部屋着で行くことにした。
 脱衣所には、僕の身長よりも大きなスタンドミラーが置いてある。
 スタンドミラーで今の姿を確認する前に、僕は洗面台で顔を洗った。
 不幸中の幸いなのか。今のところ、頭部には何も変化が起きていない。
 洗面台の鏡には、レベル2ぐらいの冴えない顔が映っている。僕の独断と偏見で、顔面レベルは、マックスで10まである。
 顔を洗うと、少し気持ちが楽になった。
 スタンドミラーの前に立つ。
 上下どちらから脱ごうか迷ったけれど、どちらから脱いでも、事実は変わらない。
 まずは、スウェットの下から脱いだ。
 ただ、目は閉じたままで。
 ゆっくりと目を開けてから、スタンドミラーを見た。
 やはり、左足は完全に透明になっている。
 僕は首を何度か左右に振る。それから、深い息をひとつ吐いた。次は、スウェットの上を脱がなければ。
よし、と心の中で声をかけてから、一気に脱いだ。
 左足と同じく、透明。
 人体の標本のように、臓器の位置が見えるのではない。完全に透けている。
 僕はその姿を直視できなかった。
 盗み見をするように、チラチラ、と何度か見ただけ。僕は口角を上げた。無理やり笑顔を作ろうとした。でも、普段ほとんど笑わない僕の口角は、ぴくぴく、と震えただけだった。
 またスウェットを着て自室へ戻った。
 ベッドの上に腰を落とす。俯いたまま、床の小さな傷の数を数えた。
 それから、天井を仰いでベッドに倒れ込んだ。
 
      4

 次に目を覚ましたのは、朝の五時頃だった。
 昨日はそのまま寝てしまったようだ。お風呂にも入っていないし、歯磨きもしていない。
 カーテンは開けたままにしていたので、朝日が容赦なく部屋の中に降り注いでいる。
 とりあえず、シャワーを浴びよう。
 ベッドから出てクローゼットの中の下着を取り出そうとした。
 そのときに、あることに気づいた。本来はあるべきはずのものが、またしても消えてしまっていた。
 左半身の次は、やはり右側だった。
 スウェットの袖からは、何も出ていない。
 ついに右半身もか。
 心がざわつく。触れなくても、鼓動が急激に速くなっているのが分かる。
 僕は怖くなってきた。息苦しいほどに。
 このまま、全身が消えてしまったら、僕はどうなるのだろうか。
 存在感が薄いどころか存在そのものが消失してしまうのではないだろうか。
 呆然としていたら、スマートフォンのアラームが鳴り始めた。
 その音は、いつも以上に大きくて不気味に鳴り響いているように感じる。
 僕はすぐにアラームを止めた。
 それから、スマートフォンを枕の下に押し込んで、シャワーを浴びるために風呂場へ向かった。
 シャワーを浴びているときは、なるべく目をつぶっていた。
 消えている部分には、水滴だけが浮かんでいる。
 自室にはスタンドミラーを置いていない。どのように見えるのか分からないけれど、気にしている暇はない。
 そろそろ家を出ないと、学校に遅刻する。
 右手にまで手袋をはめなければいけない。いくら注目度の低い僕でも、さすがに変人扱いされるだろう。
 今日は休むべきか。いや、ダメだ。母が口うるさく嫌味を言ってくるかもしれない。
 自室へ戻り、左袖に透明な左手を通す。急いで。次は、右袖に手首から先が消えている右手を通す。そして、スラックスに着替えてから、最後に、透明な両手に手袋を装着する。これで完成だ
家を飛び出して駅に着くまでに、他人の視線が気になった。でも、僕を見ているのではない。ただ、季節外れのおかしな格好をしている、僕の服装を見ているだけだ。そう思うことにした。視線が痛く感じたから。
 電車に乗ると、女子高生の二人組が、僕を見て笑っているような気がした。
 横目でその二人を見やると、ひとりと視線が重なった。その女子は眉をひそめて、すぐに僕から視線を逸らした。
 電車から降りて時刻をスマートフォンで確認する。
 徒歩だと確実に間に合わない時刻だ。
 僕は仕方なく走って学校へ向かうことに決めた。
走ることは凄く苦手だけど。
 テレビドラマで、役者が疾走するシーンがあった。顔の割に、走り方が不細工だった。その役者の走り方に似ていると、いつかの体育の授業中に、クラスメイトに言われたことがある。
 鞄は両手で持つことにした。
 片手で持つとバランスが崩れそうだから。
 途中で何度か休憩を取ったけれど、なんとか朝のホームルームには間に合った。
 教室の扉を開けたときの反応は、昨日とだいたい同じだった。
 ただ、自分の席に着くまでに、僕に向かって言ったであろう、嘲笑の言葉が聞こえた。  
席に着いても、肩で呼吸をしていた。
 何度か深呼吸をしてから、なんとか落ち着かせた。
 それから、生物が危険から身を守るため擬態するように、僕も自分の存在を教室の一部として溶け込ませた。
 放課後になると、また、一番に教室を飛び出した。
 すると、また、僕を追跡するような足音が聞こえてくる。
 僕は校門を出てからも振り返らなかった。
 次第にその足音はより速く、踏み込む足音もさらに強くなる。
 ついには、僕を追い越して、僕の目の前に立ちはだかり、僕の歩みを止めてしまった。
「あきら君! 何で逃げるのよ」
 怒ったような顔をしてから、奈々美はそう言った。そんな顔をしていても、彼女が怒っている訳でないことはよく知っている。
「別に逃げてるわけじゃないよ・・・・・・」
「じゃあ、なんで話し合わないの? 私は心配してるんだよ。高校生になってから、あきら君はすごく変わった。誰とも話そうともしないし。私とさえも話さないでしょ?」
 まくし立てて、奈々美はそう言った。
「それは・・・・・・」
 そう言ってから、僕は視線を宙に浮かせた。
 逃げているわけではない。ただ、久し振りに、奈々美と言葉を交わすことに戸惑っているだけだ。他のクラスメイトとも話さないのは、ただ単に怖いからだ。みんな心の中では、僕のことを笑い者にしているはずだ。
「ねえ、どうして、そんな格好してるの? やっぱり怪我をしたんでしょ? 火傷でもしたの? 大丈夫なの?」
「どうせ言っても信じてもらえないよ・・・・・・」
 鼻を鳴らしてから、僕はそう言った。
「どうして言ってもないのにそう決めつけるのよ」
 そう言った奈々美の顔は、険しくなるばかりだ。でも、寂しそうな顔にも見えた。
 僕はいたたまれない気持ちになって、視線をあちこちに移動させた。
 すると、さきほど、僕たちの側を通り過ぎていった子どもと視線が合った。何度もこちらを振り返っていたから。その子どもにしかめ面をくらわせてから、僕は奈々美に言った。
「じゃあ、ひとつだけ聞いてもいいかな?」
「ええ、いいわよ。何でも聞いてちょうだい」
「もし・・・・・・、僕の姿が突然、消えて見えなくなってしまったら、奈々美はどうする?」
 僕はそう言い終えた後に、恥ずかしい思いに駆られた。突拍子もない上に、彼女の名前を昔の呼び名で呼んでしまったからだ。
「そうね。あきら君の気配を探すわ。消えて見えなくなるだけでしょ? まあ、見えないと不便なこともあるかもしれないけど……」
 僕の話を少しも疑っていないような顔をしてから、彼女はそう言った。
「そう……。わかったよ」
「あきら君。ちゃんと聞いて。私はいつもあなたを見てるから。あきら君は、ひとりなんかじゃないんだよ。それは忘れないで」
「うん……。じゃあ、そろそろ帰るよ」
「わかったわ。気をつけて帰るのよ」
 まるで弟に諭すように、彼女はそう言った。
 曲がり角を曲がるまで、僕はゼンマイ仕掛けの人形のように進んで行った。彼女の視線を感じていたから。

      5

 翌日の早朝。
 やはり、最終的には、思っていた通りの姿になってしまった。正確には姿ではないかもしれない。脱衣所のスタンドミラーには、何も映っていないのだから。
 ついに、全身が消えて見えなくなってしまった。
 奈々美に言ったことが、ついに現実になってしまったのだ。
 ありていに言えば、透明人間になったのだ。
 確か、小学生の頃に、透明人間になった男の悲劇を描いた映画を観たような気がする。
 誰からも認識されなくなると言うのは、想像を絶する寂しさに襲われるだろう。そんなことは容易に想像できる。
 僕にしても、いくら他人から注目を浴びなくてもいい、と考えてはいても、それは、人間としての僕の存在が、他人から目視できていたからだ。
 どこかで、誰かには見られている、見られていたい、と言う願望が、僕にもあったのだ。
 奈々美にはもちろんのこと。僕が恐れていた、他のクラスメイト達にも。
 人間は誰からも存在を認識されないことが、最も寂しくて悲しいことではないだろうか。
 やるせない。僕は左拳を思い切り握りしめてから、スタンドミラーを殴りつけた。
 スタンドミラーは揺れただけで、割れることもなく、割れた鏡で手が切れることもなかった。
 僕はそれから学校へ向かった。
 何も身に着けないままで。
 裸で外に出ることに抵抗はあった。でも、誰にも、僕は見えないのだ。
 自宅を出た瞬間は、挙動不審なぐらいに、辺りを見回していたけれど、次第に慣れていった。透明人間の自分に。
 僕はもう誰にも認識されない。
 ふと、母と父のことが頭を過(よ)ぎったけれど、すぐに、奈々美のことが気になり始めた。
 奈々美は本当に、今の僕に気づいてくれるだろうか。
 確かめたい。今すぐにでも。
 奈々美に会いに行こう。
 僕はそれから急いで学校へ向かった。
 ただ、透明人間になったからと言って、物質をすり抜けることはできない。行き交う人にはぶつからないように気をつけたり、電車の改札を通るときは、膝と手をついて改札口の下を潜り抜けた。
 最後の難関は、教室の扉を通過することだった。
 誰かが開けて入るのと同時に入らなければ、ひとりでに扉が開いて、怪奇現象のように捉えられてしまう。
 僕は扉の側で、クラスメイトが来るのを、ひっそりと待っていた。
 何人か続けざまに来たけれど、どいつもいけ好かない奴らだった。同時に入りたくない。
 ふと、視線が廊下の奥の方に止まって、ひとりの女子生徒の姿が目に映った。その距離でもすぐに誰だかは分かる。奈々美だ。
 奈々美は廊下を、一本の綱を渡るように、真っ直ぐ教室に向かっていた。
 教室の前まで来ても、奈々美は、すぐに扉を開けなかった。
 辺りを見回してから、怪訝な顔をした。
 それから、首を傾げて、教室の扉を開けた。
 僕は奈々美と一緒に教室の中へするりと入り込んだ。
 中に入ると、僕は教室の後ろの窓側の空いているスペースに潜むことにした。
 ここからは、奈々美の席もよく見える。
 奈々美は相変わらず、何か異変を察知したような顔をしながら、授業の準備をしていた。
 授業が始まると、表情は一変したけど。
 僕はただ、息を殺して、彼女の姿を眺めていた。こんなに奈々美をじっと見つめるのは、いったい、いつ振りだろうか。
 面と向かっては絶対に言えないことがある。彼女は本当に美しい女性になった。
 体は透明になってしまった。でも、心は生きている。彼女を見ていると、優しい気持ちになれた。
 授業が終わるまでは苦痛だった。はじめはただ突っ立っていた。そんな格好で何時間もいられるわけがない。途中から、あぐらをかいたり、体操座りをしたり、しまいには、頭を手で支えて、横にもなってしまった。
 なんとか放課後を迎えた頃には、僕はすっかり疲労困憊になっていた。
 奈々美が教室から出るのと同時に、僕も動き始めた。
 奈々美の後ろを、ただついて行く。
 下駄箱に差し掛かったときに、あの三人組の女子が奈々美に声をかけた。
 僕がいる場所からでは、会話は聞き取れなかったけれど、奈々美は険しい顔をしていた。
 それから、奈々美と三人組は、下駄箱を出て行った。三人組はトライアングルを形成して、奈々美を囲んで連行するように歩き始めた。
 僕はなんだか嫌な予感がした。ある程度の距離を保ちつつ、彼女たちについて行く。
 明らかに不穏な空気に包まれている。
 奈々美が連れて行かれた場所は、校舎から離れた場所にある、今は使われていない建物の裏だった。校舎からは死角になっている。
 三人組の一番チビが、奈々美に言った。
「あんた、山倉君に、色目を使ってるでしょ!」
 奈々美は眉を、ピクリとも動かさずに毅然とした態度で、その女子を見ていた。
「なんとか言いなさいよね!」
「少し、黙ってもらえる」
 チビを制止したのは、三人組の中のリーダー格の女子だ。一言で違いを感じさせた。
 綺麗な顔立ちだけど、僕は嫌いな顔だ。神経質な感じが前面に出ている。
「ねえ、丸岡奈々美さん。あなた、山倉君とお付き合いをしているの? そういう噂が入ってきてるのよ」
 その女子は、冷静さを装ってはいたけれど、口元はひくついていた。
「あなたたちって、おめでたいのね。噂なんかに動かされて。なんで、自分で山倉君に確かめないの? 私ならそうするけど」
 奈々美はそう言った後に、溜め息をついた。
「情報筋からの確かなネタなのよ。言い逃れはできないわよ」
 急に声を荒げてから、リーダー格の女はそう言った。鼻をひくひくながら。
 奈々美は話しが通じる相手ではない、と判断したのだろう。首を左右に何度か振った。
「あれを持ってきて」
 リーダー格の女がそう言うと、チビではなく、中肉中背で、特徴のかけらもない女子が茂みの方に、のそのそと歩き始めた。
 そして、茂みの中から、バケツを運び出してきた。何が入っているのかは分からないけれど、両手で持っていたので、ずいぶんと重いのだろう。バケツを元の場所まで運んでくると、チビにも持つのを手伝わせた。
「ぶちまけなさい!」
 性根が腐った女王様のように、リーダー格の女は指図した。
 チビと無特徴は、こっくりと頷いてから、二人でそのバケツを持ち上げた。それから、奈々美に向けて、いつでもぶちまけられるように、体勢を整えた。
 僕は何とかしなければ、と思った。透明人間なのだから、バケツを奪い取ればいいだけのことだ。
 でも、山倉と奈々美の噂のことは、僕の耳にさえも届いていた。
 僕は戸惑っていた。奈々美を助けたい。でも、改めて、あの噂を第三者から聞くと、僕の心は萎れそうなってしまった。
 その間にも、状況は悪化している。
 奈々美は、微動だにせず、三人組に向けて厳しい視線を送り続けていた。
 そして、ついに、チビと無特徴が、バケツの中身をぶちまけるために、バケツを揺らし始めた。ブランコが揺れるように。
 一瞬だった。ほんの。
 奈々美が僕の方に視線を送った気がした。
 僕はそれと同時に駆け出していた。
 奈々美の肩を両手で掴むと、できる限り優しく押しやった。
 その瞬間に、僕にバケツの中身がぶちまけられた。一体、何の液体なんだ。ひどく、臭くて、ねばねばしている。
 三人組を見ると、同じような顔をしていた。未知なる存在に遭遇したときの顔。
 それもそのはず。僕の透明な体に液体がかかれば、人の形が浮かび上がるはずだ。
 体が溶けだしているゴーレムのように見えるかも。
僕は幽霊が人を驚かすようなポーズを取った。三人は瞬く間に、その場から、バラバラになって散って行った。
 ほっとして、一息つく。
 それから、奈々美の方を振り返った。
 奈々美は申し訳なさそうだけれど、どこか嬉しそうな顔をしていた。
「ありがとう。あきら君」
「・・・・・・。わかってたんだ」
「もちろん、わかってたよ。近くにいたのは。言ったでしょう。消えてしまったら、あきら君の気配を探すって」
「でも、ほんとに消えるなんて思わないよ。ねえ、なんでさっきよけなかったの?」
「決まってるでしょ。あきら君が助けてくれるってわかってたら。でも、ごめんね。あきら君にかかってしまって……」
「別に気にしなくていいよ」
「ねえ、あきら君。私はずっと見てたよ。あきら君のこと。約束したからね」
「約束……?」
「うん。小さかったころ。一緒に映画を観てたときよ。覚えてないの? 主人公が透明人間になってしまう映画。そのときに、あきら君が言ったの。もしも、僕がこの主人公みたいに消えてしまったら、奈々美ちゃんは、僕のこと探してくれる? 忘れてしまう? って」
 あの映画は奈々美と観た映画だったんだ。
「それで、奈々美は何て言ったの?」
「私は、あきら君を、いつも一番近くで見てるよ。他の誰よりも。ずっとずっと見てるからって言ったんだよ」
 思い出した。僕は昔から引っ込み思案な性格だったけれど、奈々美だけは、いつも僕の味方でいてくれた。
「ありがとう・・・・・・」
「うん、私こそ、さっきは守ってくれてありがとね。なかなか、かっこよかったよ。それと、あの噂は嘘だからね」
 空に向かって真っすぐ手を伸ばしているように咲くひまわりのような笑顔で、奈々美はそう言った。
 その笑顔は、僕が大好きだった、昔のままだった。
 これからどうやって生きて行けばいいのだろう。想像もできないし、今は考えたくない。
 ただ、頭の中では、奈々美の言葉だけが、何回も繰り返し再生されていた。