春川光璃とは別に仲が良いというわけではない。教室の隅っこが定位置の僕とは違い、彼女のクラスでの立ち位置を月並みに表現すると中心人物だ。休み時間も移動教室の際も昼食を食べる時も彼女の周りにはいつも誰かがいて、楽しそうな笑い声が上がっている輪の中にはいつも彼女がいる。男女隔てなく友好的に接する姿勢は対人能力の高さをうかがわせ、人好きのする性格は彼女の魅力の一つと言える。
一度、美術のペアワークの授業で僕だけ余ったことがあった。相方の似顔絵を描くという課題を鏡を見ながら単独でこなそうとしていた僕に、春川が声をかけてくれたのが最初の接点だった。彼女は僕が一人であることに気づき、急いで友人の似顔絵を完成させてから見ず知らずのクラスメイトの相方をかって出てくれた。その一件以来、彼女は折を見て話しかけてくるようになった。無論、それは彼女が僕個人に対して特別な感情を抱いているからではなくて、彼女自身の性質がそうさせていることを僕は重々理解していた。
だから間違ってもこちらから関りを持とうとしたことは一度もなかったし、ましてや二人で夏休みにカラオケに行く未来など想像の片鱗にもなかった。
「あはは、なるほどね。それで友達と遊ぶふりして家を出てきたんだ。なんか越我っちらしい」
なんとなくバツが悪くなって図書館を出たものの帰宅するには早すぎたので、近くに発見したカラオケ店で時間を潰そうと入店したら、当然のように春川もついてきた。そのあまりに自然な同行に突っ込みを入れる余地もなく、それどころか気づけば朝の夕海との出来事まで語らされている始末だ。
「優しいんだね」
「まあ、僕には出来すぎたくらい自慢の妹だから」
「妹さんもだけど、越我っちも」
「なんで僕?」
「だって妹さんに余計な心配かけたくなくてそうしたんでしょ、受験勉強に集中できるように」
「それは過大評価だって。純粋に見栄を張っただけ」
「見栄だけで外に出れるほど今日の気温は優しくないと思うけどなー」
「僕のは虚栄心じゃなくて巨栄心だから。暑さよりも厚いんだ」
「ふふっ、そういう無自覚なところも越我っちらしい」
僕らしい──そう何度も言えるほど春川は僕のことを知らないだろうに、それをわかっていてなお肯定されたような気持ちになれるのは言葉の妙である。
こうして話していると、クラスの連中がこの一女子生徒に惹きつけられる理由がよくわかる。彼女は会話の中心を相手に据えるのが非常にうまい。自分の話に興味を持たれて悪い気分になる人間はそういない。それは僕も例外ではないらしく、喋らなくていい情報までついうっかり漏らしてしまったわけだ。彼女がこのスタンスを意識的に実演しているのなら相当な対話スキルの持ち主だし、無意識的ならそれはもう人に好かれる天賦の才に恵まれていると言っても過言ではないだろう。
「っていうか越我っち、友達なら同じクラスにちゃんといるじゃん」
なんとなく予想はできたけれど、私でしょ、と自分を指差してカウントする人たらしを横目に、僕はアイスコーヒーのグラスに手を伸ばそうとした。
「それと、時山くんも」
そのひと言に、思わず手を止めた。僕のそんな反応に気づき「あれ、違った?」と彼女が尋ねる。
「……なんでそこで時山が出てくるの」
「二人、小学校の時同じサッカーチームに入ってたって前に聞いたから」
「誰から?」
「時山くん」
わざわざそんなことを言いふらしているのかあの男は、と胸の内で気色ばむ。
エピソード記憶というやつだろうか、その名に付随する思い出に良好なものはほとんど見当たらない。
「でも、そのわりには二人が喋ってるところ全然見ないけど」
「まあ僕は中学に入ってすぐにサッカー辞めたし、それからあいつとはほとんど関わってないよ」
「へえ、そうなんだ……ま、生きてれば色々あるよね」
何かを察したのだろうか、春川はそれ以上僕と時山の関係について追及しようとはしなかった。引きどころも完璧に弁えたその振る舞いには敬意すら示したくなる。歌おっか、という春川の言葉でそういえばカラオケに来ていることを思い出し、曲を入れるタッチパネルを彼女に手渡した。誰かとカラオケに来るのは久しぶりだった。小学六年生の時にサッカーチームの卒団パーティーみたいなので皆でカラオケに行った際、僕が聴きうる限り仲間の中で一番歌唱力に欠けていた奴からヘタクソと罵倒されて以来、一人カラオケはたまに行くけれど人前では歌わないようにしている。そもそも、一緒に行く人もいないのだが。
「気が向いたらいつでもどうぞ」
そう言ってタッチパネルを二人の間に置くと、春川はマイクを持って立ち上がった。テレビの歌番組や書店なんかで頻繁に流れているような流行りの曲を続けて歌う横顔に、なんとなく彼女らしさを感じた。
しかしふと我に返ると、純粋な違和感が込み上げてきた。この光景を俯瞰した中に自分がいること。彼女はなぜ貴重な夏休みをただのクラスメイトに過ぎない僕と過ごしているのだろうか、遊び相手には困っていないはずだ。
「今さらだけど、春川さん、なんで僕なんかといるの?」
曲間になったタイミングで、僕はそう尋ねた。
面食らったようにきょとん固まった彼女だったが、たちどころに唇の端を吊り上げて自分と僕を交互に指し示しながら言った。
「友達」
「友達なら他にもいっぱいいるよね。貴重な夏休みだよ、いつも学校で一緒にいる子たちとお洒落なカフェに行って新作の飲み物頼んでSNS用に写真撮らなくていいの?」
「え、越我っちから見た私ってそんなイメージ!?」
「うん」
「ほほーん……それってこんな感じ?」
カシャッ、と春川はスマホのレンズをこちらに向けて素早くシャッターを切る。
「──ちょい、肖像権!」
「あはは、SNSとかには上げないから安心してよ。私、基本見る専だし」
彼女が撮った写真を見て、その言葉は本当かもしれないと思った。手慣れている人はこういう類の写真を撮る時には、相手の全体をがっつり写すのではなく、あえて一部分だけを写すことで閲覧者に想像の余地を与えるものだとどこかで小耳にはさんだことがある。少なくとも、クラスメイトの腑抜け面をアップロードして満たされる承認欲求が春川にあるとは到底思えない。
「他の友達ともちゃんと会ってるよ。でも今日はその日じゃない……っていうか、今会っちゃうと駄目なんだ」
「喧嘩でもしたの?」
訊いてから、デリケートな部分に触れてしまったかもしれないと内省したけれど、春川は緩やかに首を振った。彼女が予約していたバラード調の音楽が流れ始めたが、その手がマイクをとる気配はない。
「私って、わりと人から好かれやすいタイプみたいなんだよね」
脈絡のないその発言に僕は一瞬耳を疑った。
しかし、彼女は平然と続ける。
「聞き上手だから何でも話せちゃうとか、誰の悪口も言わなくて性格が良いとか、遊びに誘ったらどこでも一緒に行ってくれて優しいとか、周りの子たちは私のことそんなふうにすごくポジティブに評価してくれる……でもそれって結局さ、よく言えば誰に対しても無害な存在だけど、悪く言えば自己がないってことだと思うんだ。客観的に見たら長所かもしれないけど、正直自分のそういうところ、昔からあんまり好きじゃなくて」
春川が唐突に自画自賛ならぬ自我自賛を始めたのかと思ったけれど、どうやらそういうわけではないらしい。むしろその逆で、自賛できる自我がないことに悩んでいると彼女は冷静に主張する。
「なんていうか、時々どれが本当の私なのか見失っちゃいそうになるから」
耳朶をうったその言葉は、抵抗なく僕の胸にしみこんだ。たったそのひと言で、あの春川光璃に親近感に似た感情を抱いてしまうのはいささか自惚れが過ぎるだろうか。
それから、春川はソファの上に置いていた自分のショルダーバッグから財布を取り出すと、なぜかそこから五千円札を一枚引き抜いてテーブルに載せた。
「なに、くれるの? ありがと」
「あげないよ。これは光璃がこの夏休みにやりたいことに使いなって、この前おばあちゃん家に行ったときに貰ったの」
「ただの自慢か」
「違うちがう、これがさっきの越我っちの質問への答え。何で自分と一緒にいるのかって」
皆目理解が及ばないというような顔をしているであろう僕に、春川は得意げに人差し指を立ててみせる。
「おばあちゃんは特に深い意味なくああ言ってくれたんだろうけど、せっかくの機会だし、このお金の使い道は私が私自身の意思で決めようと思ってさ。で、いつもの友達と会うとやっぱり全部任せっきりになっちゃう気がするから、主体性を養うためにも単独行動するぞって息巻いて今朝家を出てきたのね」
「はあ……」
「でも外出たらめっちゃ暑いし汗でべとべとになるし、やっぱり一人だとちょっと寂しいしやりたいこともなかなか見つからなくてねー。とりあえず一旦図書館に避難して体勢を立て直そうと思ったら、小学生と楽しげに戯れるクラスメイトを偶然発見したってわけ」
「決して楽しげではなかったとだけ訂正させてほしいところだけど、偶然発見したクラスメイトについてきた理由がまだ不明瞭なままじゃない」
「一人だとちょっと寂しいから」
「僕は寂しくないけど」
「私は寂しいの」
ずいっと身を乗り出して迫ってくる彼女。柔らかそうな白い手がソファに深く沈み、蟻地獄のように僕の体をそちら側へ引き寄せる。
大きな双眸が真っすぐに僕を見つめる。冷房はタイマー設定されていたようでいつの間にか電源が切れており、部屋の温度が僅かに上昇していた。BGMのように流れていた音楽はバラードからロックバンドの曲に変わり、まるで誰かの鼓動を強調するかのように激しいドラムの音がスピーカーから鳴り響いていた。
「ね。時間あるならちょっと付き合ってよ」
汗で額にはりついた髪を指先で左右に流し、春川はそう言ってはにかんだ。
僕はちらりと壁掛け時計を確認する。短針はまだ正午を過ぎたあたりだった。
一度、美術のペアワークの授業で僕だけ余ったことがあった。相方の似顔絵を描くという課題を鏡を見ながら単独でこなそうとしていた僕に、春川が声をかけてくれたのが最初の接点だった。彼女は僕が一人であることに気づき、急いで友人の似顔絵を完成させてから見ず知らずのクラスメイトの相方をかって出てくれた。その一件以来、彼女は折を見て話しかけてくるようになった。無論、それは彼女が僕個人に対して特別な感情を抱いているからではなくて、彼女自身の性質がそうさせていることを僕は重々理解していた。
だから間違ってもこちらから関りを持とうとしたことは一度もなかったし、ましてや二人で夏休みにカラオケに行く未来など想像の片鱗にもなかった。
「あはは、なるほどね。それで友達と遊ぶふりして家を出てきたんだ。なんか越我っちらしい」
なんとなくバツが悪くなって図書館を出たものの帰宅するには早すぎたので、近くに発見したカラオケ店で時間を潰そうと入店したら、当然のように春川もついてきた。そのあまりに自然な同行に突っ込みを入れる余地もなく、それどころか気づけば朝の夕海との出来事まで語らされている始末だ。
「優しいんだね」
「まあ、僕には出来すぎたくらい自慢の妹だから」
「妹さんもだけど、越我っちも」
「なんで僕?」
「だって妹さんに余計な心配かけたくなくてそうしたんでしょ、受験勉強に集中できるように」
「それは過大評価だって。純粋に見栄を張っただけ」
「見栄だけで外に出れるほど今日の気温は優しくないと思うけどなー」
「僕のは虚栄心じゃなくて巨栄心だから。暑さよりも厚いんだ」
「ふふっ、そういう無自覚なところも越我っちらしい」
僕らしい──そう何度も言えるほど春川は僕のことを知らないだろうに、それをわかっていてなお肯定されたような気持ちになれるのは言葉の妙である。
こうして話していると、クラスの連中がこの一女子生徒に惹きつけられる理由がよくわかる。彼女は会話の中心を相手に据えるのが非常にうまい。自分の話に興味を持たれて悪い気分になる人間はそういない。それは僕も例外ではないらしく、喋らなくていい情報までついうっかり漏らしてしまったわけだ。彼女がこのスタンスを意識的に実演しているのなら相当な対話スキルの持ち主だし、無意識的ならそれはもう人に好かれる天賦の才に恵まれていると言っても過言ではないだろう。
「っていうか越我っち、友達なら同じクラスにちゃんといるじゃん」
なんとなく予想はできたけれど、私でしょ、と自分を指差してカウントする人たらしを横目に、僕はアイスコーヒーのグラスに手を伸ばそうとした。
「それと、時山くんも」
そのひと言に、思わず手を止めた。僕のそんな反応に気づき「あれ、違った?」と彼女が尋ねる。
「……なんでそこで時山が出てくるの」
「二人、小学校の時同じサッカーチームに入ってたって前に聞いたから」
「誰から?」
「時山くん」
わざわざそんなことを言いふらしているのかあの男は、と胸の内で気色ばむ。
エピソード記憶というやつだろうか、その名に付随する思い出に良好なものはほとんど見当たらない。
「でも、そのわりには二人が喋ってるところ全然見ないけど」
「まあ僕は中学に入ってすぐにサッカー辞めたし、それからあいつとはほとんど関わってないよ」
「へえ、そうなんだ……ま、生きてれば色々あるよね」
何かを察したのだろうか、春川はそれ以上僕と時山の関係について追及しようとはしなかった。引きどころも完璧に弁えたその振る舞いには敬意すら示したくなる。歌おっか、という春川の言葉でそういえばカラオケに来ていることを思い出し、曲を入れるタッチパネルを彼女に手渡した。誰かとカラオケに来るのは久しぶりだった。小学六年生の時にサッカーチームの卒団パーティーみたいなので皆でカラオケに行った際、僕が聴きうる限り仲間の中で一番歌唱力に欠けていた奴からヘタクソと罵倒されて以来、一人カラオケはたまに行くけれど人前では歌わないようにしている。そもそも、一緒に行く人もいないのだが。
「気が向いたらいつでもどうぞ」
そう言ってタッチパネルを二人の間に置くと、春川はマイクを持って立ち上がった。テレビの歌番組や書店なんかで頻繁に流れているような流行りの曲を続けて歌う横顔に、なんとなく彼女らしさを感じた。
しかしふと我に返ると、純粋な違和感が込み上げてきた。この光景を俯瞰した中に自分がいること。彼女はなぜ貴重な夏休みをただのクラスメイトに過ぎない僕と過ごしているのだろうか、遊び相手には困っていないはずだ。
「今さらだけど、春川さん、なんで僕なんかといるの?」
曲間になったタイミングで、僕はそう尋ねた。
面食らったようにきょとん固まった彼女だったが、たちどころに唇の端を吊り上げて自分と僕を交互に指し示しながら言った。
「友達」
「友達なら他にもいっぱいいるよね。貴重な夏休みだよ、いつも学校で一緒にいる子たちとお洒落なカフェに行って新作の飲み物頼んでSNS用に写真撮らなくていいの?」
「え、越我っちから見た私ってそんなイメージ!?」
「うん」
「ほほーん……それってこんな感じ?」
カシャッ、と春川はスマホのレンズをこちらに向けて素早くシャッターを切る。
「──ちょい、肖像権!」
「あはは、SNSとかには上げないから安心してよ。私、基本見る専だし」
彼女が撮った写真を見て、その言葉は本当かもしれないと思った。手慣れている人はこういう類の写真を撮る時には、相手の全体をがっつり写すのではなく、あえて一部分だけを写すことで閲覧者に想像の余地を与えるものだとどこかで小耳にはさんだことがある。少なくとも、クラスメイトの腑抜け面をアップロードして満たされる承認欲求が春川にあるとは到底思えない。
「他の友達ともちゃんと会ってるよ。でも今日はその日じゃない……っていうか、今会っちゃうと駄目なんだ」
「喧嘩でもしたの?」
訊いてから、デリケートな部分に触れてしまったかもしれないと内省したけれど、春川は緩やかに首を振った。彼女が予約していたバラード調の音楽が流れ始めたが、その手がマイクをとる気配はない。
「私って、わりと人から好かれやすいタイプみたいなんだよね」
脈絡のないその発言に僕は一瞬耳を疑った。
しかし、彼女は平然と続ける。
「聞き上手だから何でも話せちゃうとか、誰の悪口も言わなくて性格が良いとか、遊びに誘ったらどこでも一緒に行ってくれて優しいとか、周りの子たちは私のことそんなふうにすごくポジティブに評価してくれる……でもそれって結局さ、よく言えば誰に対しても無害な存在だけど、悪く言えば自己がないってことだと思うんだ。客観的に見たら長所かもしれないけど、正直自分のそういうところ、昔からあんまり好きじゃなくて」
春川が唐突に自画自賛ならぬ自我自賛を始めたのかと思ったけれど、どうやらそういうわけではないらしい。むしろその逆で、自賛できる自我がないことに悩んでいると彼女は冷静に主張する。
「なんていうか、時々どれが本当の私なのか見失っちゃいそうになるから」
耳朶をうったその言葉は、抵抗なく僕の胸にしみこんだ。たったそのひと言で、あの春川光璃に親近感に似た感情を抱いてしまうのはいささか自惚れが過ぎるだろうか。
それから、春川はソファの上に置いていた自分のショルダーバッグから財布を取り出すと、なぜかそこから五千円札を一枚引き抜いてテーブルに載せた。
「なに、くれるの? ありがと」
「あげないよ。これは光璃がこの夏休みにやりたいことに使いなって、この前おばあちゃん家に行ったときに貰ったの」
「ただの自慢か」
「違うちがう、これがさっきの越我っちの質問への答え。何で自分と一緒にいるのかって」
皆目理解が及ばないというような顔をしているであろう僕に、春川は得意げに人差し指を立ててみせる。
「おばあちゃんは特に深い意味なくああ言ってくれたんだろうけど、せっかくの機会だし、このお金の使い道は私が私自身の意思で決めようと思ってさ。で、いつもの友達と会うとやっぱり全部任せっきりになっちゃう気がするから、主体性を養うためにも単独行動するぞって息巻いて今朝家を出てきたのね」
「はあ……」
「でも外出たらめっちゃ暑いし汗でべとべとになるし、やっぱり一人だとちょっと寂しいしやりたいこともなかなか見つからなくてねー。とりあえず一旦図書館に避難して体勢を立て直そうと思ったら、小学生と楽しげに戯れるクラスメイトを偶然発見したってわけ」
「決して楽しげではなかったとだけ訂正させてほしいところだけど、偶然発見したクラスメイトについてきた理由がまだ不明瞭なままじゃない」
「一人だとちょっと寂しいから」
「僕は寂しくないけど」
「私は寂しいの」
ずいっと身を乗り出して迫ってくる彼女。柔らかそうな白い手がソファに深く沈み、蟻地獄のように僕の体をそちら側へ引き寄せる。
大きな双眸が真っすぐに僕を見つめる。冷房はタイマー設定されていたようでいつの間にか電源が切れており、部屋の温度が僅かに上昇していた。BGMのように流れていた音楽はバラードからロックバンドの曲に変わり、まるで誰かの鼓動を強調するかのように激しいドラムの音がスピーカーから鳴り響いていた。
「ね。時間あるならちょっと付き合ってよ」
汗で額にはりついた髪を指先で左右に流し、春川はそう言ってはにかんだ。
僕はちらりと壁掛け時計を確認する。短針はまだ正午を過ぎたあたりだった。