一章 妃芽

 私の欠点は、自分に自信のないところだ。
 だからいつも自信に満ち溢れ、きらきらとした笑顔を向けてくれる結衣に憧れた。結衣はその自信を裏付けるように、頭も良く、運動も何でも出来たし、歌や絵もうまかった。苦手なことなど何一つないような、完璧な存在の結衣が羨ましくて、私はずっと結衣のようになりたいと思っていた。
 そんな結衣が、死んだ。
 自殺だった。


「妃芽ちゃん、あんまり落ち込まないでね。結衣もきっと妃芽ちゃんの悲しんでる顔は見たくないだろうから」
 結衣の父親であるおじさんは、そう言って私を励ましてくれた。離婚して片親しかいない結衣は、いつも自慢のお父さんなの、と嬉しそうに話していた。おじさんは顔が整っていて、ときおり芸能人に間違われるくらいかっこよかったので、結衣の気持ちはすごくよく分かった。私が結衣の家に遊びに行くと、必ずおじさんが出迎えてくれて、妃芽ちゃんゆっくりしていってね、と優しく声をかけてくれた。私は人と話すのが苦手なので、ありがとうございますと小さな声で返事をするのが精一杯だったけれど、そんな私にも優しく接してくれた。そんなおじさんはといえば、結衣が自殺したと分かって一気に老け込んだ。黒く艶のある髪は、白髪が急に増えて、別人のようになっていた。
「おじさん……あの、葵は」
 私は何て言葉をかけていいか分からず、その場を逃げ出したくて、幼馴染の葵の居場所を訊ねる。するとおじさんは、一瞬だけ眉をひそめ、結衣の部屋だよと答えた。その表情に嫌悪の色が走ったことに気がついたけれど、私は何も見なかったふりをして、お邪魔してもいいですか、と聞いた。おじさんは一つ頷いて、俯いてしまった。

 結衣の部屋には、おじさんの言葉通り、幼馴染である葵が佇んでいた。何をするでもなく、窓から外を眺めている。
「葵……。おじさんから、ここだって聞いて」
「妃芽……。まだ信じられないよな」
 結衣が自殺しただなんて、と葵が呟く。
 死んでしまった結衣は、葵のことがずっと好きだった。そのことを、葵もよく知っていた。会うたびに大好き、と抱きつく結衣のことを、面倒くさそうにあしらう光景が、今でも目に焼き付いている。葵は外を眺めたまま、何も言わなくなった。私もこんなときにどう励ましていいのか分からずに、ただ黙っていた。しばらくすると結衣の部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「葵くん、……妃芽ちゃん」
 私たちの名前を呼んだのは、結衣の母であるおばさんだった。おばさんは、離婚してから結衣と会っていなかったらしいけれど、それでもその目は真っ赤に充血していた。さんざんほったらかしていたくせに、娘の死を悲しむ権利は一端に持っているらしい。
 私はこのおばさんのことが嫌いだった。なぜならおばさんは、結衣のことが受け入れられなくておじさんと離婚したのだから。
 自分で産んだ子どもを穢らわしいものでもみるような目で見て、拒否する。結衣は仕方ないよ、と諦めたように笑っていたが、私はおばさんのことが大嫌いだ。自分に自信がなくて、全ての基準が結衣になっている私の、唯一結衣と違うところはきっとこれだろう。
「生前は結衣ちゃんと仲良くしてくれてありがとうね」
 おばさんは葵の方を見ることなく、私にそう言った。仕方なく私は口を開く。
「私が結衣に仲良くしてもらっていたんです。感謝しかありません」
「そうなの…………そうなのね」
 あの子は誰とでも仲良くなれる子だったから、というおばさんの言葉に、外を眺めていた葵が振り向いた。
「そんな言い方、妃芽に失礼だろ」
「あらやだ、そんなつもりじゃ」
「気にしなくていいよ、妃芽。行こう」
 葵が私の手を引いて、結衣の部屋を後にする。振り返ってみたけれど、おばさんは結衣の部屋に足を踏み入れることのないまま、立ち尽くしていた。

「あんな言い方したら、それこそおばさんに失礼だよ」
「いいんだよ、あの人無神経だからあれくらい言わなきゃ分からない。それより妃芽、本当に気にすんなよ」
「結衣が私みたいな暗い女と仲良くしてくれてたのは、事実だから……」
 気にするも何も、そもそもあのおばさんは事実を口にしたまでだ。
 結衣とは幼馴染だけど、私と結衣が仲良くなれたのは、小学校にあがってからのことだ。結衣に声をかけてもらうまで、クラスの端で一人本を読んでいるような子どもだった私。そんな私の世界を変えてくれたのは、クラスの中心でいつもにこにこ笑っている、太陽のような存在だった。
 結衣はいつも笑っていた。私をいじめっ子から助けて逆に陰口を叩かれてしまったときも。
 おばさんに拒否されて、おじさんと二人暮らしするようになったときも。
 葵に告白をして、好きな人がいるからとふられてしまったときも。
 結衣はいつも悲しいことなんてないように、きらきらとした笑顔を見せていた。そんな結衣に、私は憧れていたのだ。
「ねぇ、葵」
「ん?」
「結衣って本当に自殺なのかな」
 ぽつりと呟いた言葉は、何気なく口にしたものだった。しかし言葉にすることによって、急に現実味を帯びてくる。
「そうだよ、結衣が自殺なんてするわけないじゃん! そんな理由ないし、そんな性格でもないし、何かあったら私か葵に相談してくれたはずでしょ?」
「妃芽」
「本当は誰かに殺されたんじゃないの」
 私の言葉に、葵が息を飲む。何てこと言うんだよ、とかすれた声が呟いて、それから私の肩を揺すった。
「結衣が誰かに恨まれるようなやつじゃないって、妃芽が一番よく知ってるだろ!」
「でもっ、通り魔とか、無差別殺人とか、あるかもしれないじゃない! じゃなきゃ結衣が、私たちに何も言わずに死んじゃうなんてありえないよ!」
「通り魔は人の首を吊ったりしないだろ!」
 初めて声を荒げた葵の姿に、私は思わず口をつぐんだ。首吊り自殺だったことを、失念していたのだ。
「思い込みが激しいの、妃芽の悪いとこだぞ」
 次に口を開いたとき、葵は冷静だった。いつも通りのクールな声色を聞いたとき、なぜだか急に結衣の死が本当のことなのだと実感が湧いてきて、目の前が涙でにじんだ。
「なぁ、妃芽」
「っ、なに……?」
「結衣は、死んだんだよ」
 そう言って、ぐいと抱き寄せられる。この人は結衣の好きな人だ。頭の中で反射的にそう思って、抵抗しようとしたけれど、出来なかった。葵の身体がかすかに震えていたからだ。
「死んだんだよ…………」
 涙に濡れた幼馴染の声を聞いて、私の中で自分を支えていた何かが崩れていくのを感じた。
 それは、憧れていた結衣が死んだという事実かもしれないし、もっと他の何かかもしれない。
 確かなことは、結衣が死んでしまったということ。そして、私は結衣の大好きだった人に縋らないと、立っていることすら出来ない、ということだった。


 葬儀は簡素なものだった。本当は親族だけで執り行う予定だったところを、おじさんが引き止めてくれた。結衣は友達も多かったし、妃芽ちゃんとか、お別れの挨拶をしたいんじゃないかな。そう言ってくれたのだと後から聞いた。
 学生である私は、礼服の代わりに学校の制服を着ていった。告別式なんて一度も参加したことがなかったのに、初めてのお別れの式が結衣のものだなんて、悲しすぎる。葵は隣にいなかったので、私は一人で何とかお焼香を済ませなければならなかった。結衣と葵以外に友人がいないので、一人きりで告別式に訪れたのだ。葵は早々にお焼香を済ませていた。その整った顔に、うっすら涙の跡があるのがとても切なくて、結衣に見せてあげたくなった。
 結衣、結衣が死んだら葵は泣いちゃうんだよ。葵だって結衣のこと、大事に思ってたよ。
 そんなことを心の中で思ってみても、結衣は還ってこない。そんなことは分かっている。だけど、思わずにはいられなかった。
 大好きな葵が泣いてくれるなら戻ってきちゃおうかな、なんて、いたずらな笑みを浮かべて、今にも顔を出しそうだ。いつのまにか涙が溢れて止まらなくなっていた。お焼香を終えた後は、ホールの外の椅子に腰掛け、ぼんやりとしていた。どれくらい時間が経っただろうか。気がつけば隣に葵がいて、大丈夫か? とハンカチを差し出してくれる。結衣も私が泣いているといつもハンカチを貸してくれたな、と思い出して、また泣けてきてしまった。
 ぼろぼろぼろとこぼれる大粒の涙はいつまでも止まらなくて、葵はその間中ずっと隣にいてくれた。ようやく落ち着く頃にはすっかり日が暮れていて、帰るぞ、と差し出された手を掴むのに抵抗はあったけど、縋らずにはいられなかった。

 結衣が死んで、ひと月が経った。
 教室の中にぽつんと飾られた花は、いつのまにか風景と同化していて、みんなそれぞれ普通の生活に戻っていく。私だけを取り残して。それでもクラスの雰囲気がどこか暗く感じるのは、きっと気のせいではないだろう。
 親友だった結衣を失った私は、再び孤独な生活へと逆戻りしていた。
 幼馴染である葵も別のクラスであるし、そもそも男子の中でも人気者の葵と共に行動することは憚られた。何より、葵は結衣の好きな人、という印象が強く、私はどうしていいか分からなかったのだ。
 結衣が死んで、世界は変わってしまった。太陽のない世界へ、変わってしまったのだ。