気がつくとそこは、月が浮かぶ静かな夜の砂浜だった。
 かつて陸斗が夕日に涙した砂浜。
 そして陸斗が残酷な言葉を突きつけた砂浜。

 まだまだ陸斗と交わしたい言葉がある。
 まだまだ陸斗と交わしたい視線がある。

 皮膚がじりじりと痛んだ。
 それは、私が恋をしている証に他ならない。
 月明かりの中で腕に目をやると、そこにはかつての自分の肌ではない、異形の肌――うろこでびっしりと覆われていた。
 ここに来るまでの間に、人魚化がずいぶん進んでいたらしい。

 そしてそれは、「私たち」が恋に落ちている証でもある。

「陸斗――」

 その名を呼ぶと、いっそう自分の肌が海水を求めているような飢餓感を覚えた。
 私はもう人間には戻れない。
 最後にもう一度だけ――

「ちかげ!」

 一瞬、空耳かと疑う。
 もうここにはいないはずの人の声。そして、足音。

 振り向くと、

「ちかげ!」

 再び私を呼ぶ声。
 月の光しかなくたってわかる。太陽のような人だから。

「陸斗……」

 その人の名を呼んで、慌てて叫ぶ。

「こないで!」

 十数メートルのところにまで彼が駆け寄ってきた時、私は静止した。
 今のこの醜くなりつつある姿を、見られたくない。

「どうして?」
「どうしても!」
「やっぱり、どうしても俺はちかげに会いたかったのに?」
「それでもダメ! そこにいて! 近づかないで。でも離れないで」

 それは精一杯の私に言えること。
 声は自然と震えていた。

「わかった。でもわかってほしいんだ。俺は――」

 陸斗は大きく息を吸った。

「俺は、ちかげのことが好きだ。どこにいたって。どんな姿であったって」

 ずきん、と体が痛む。それが心臓なのか、肌なのか、どこなのかはもうわからない。

「それがちかげの迷惑になることは分かってる。諦めなきゃいけないことも。だけど俺は、この気持ちをやめることなんてできない」
「どうして、私のことなんか……」
「君が、そっと俺の孤独に寄り添ってくれた月のような人だから」

 私は自然とうつむき加減になっていた顔をはっと上げる。

 陸斗は語り始めた。この海の町に来た経緯を。
 街で恋人に裏切られた過去を。静かな町で孤独な自分を見つめ直したかったことを。
 訪れた町で出会った、静かな月のような、でもどこか深い海の底を見つめているかのような少女――魚住ちかげに恋に落ちたことを。

「君はいつも、俺には見えないものを見ようとしているようだった。隣にいる時も、一緒にアイスを食べている時も、ビーチバレーをして笑っている時も。そんな君が何を見ているのか知りたいって思ううちに思ったんだ。
 俺には君がどうしても必要なんだって」

 ずっと知りたかった。
 どうして私は人魚化しつつあったのか。
 つまり、なぜ陸斗が年下で特になんの美点もない私なんかを好いてくれているのか。

 深い海の底を見つめているような、私。
 クスッと思わず笑いをこぼしてしまう。
 まったく、その通りだ。
 いつだって私は深い海の底を想像しては恐れていた。
 あの世界にだけは行きたくないと。

 だけど、今は怖くなんてない。

「陸斗」

 私は最初で最後の恋人の名を呼ぶ。

「愛しています」

 陸斗が息を呑む。

「最後に、こんな姿だけど、抱きしめてくれる?」

 ゆっくりうなずき、陸斗は湿っぽい波打ち際の砂を一歩一歩踏みしめて私に近づく。人魚化しつつある私がはっきり見える位置まで来ても、彼は嫌な顔一つしなかった。

 本当に、私のことが好きなんだ。

 その確信を上書きするように、彼の腕は私の背中を包み込んだ。

 温かい体。

 今まで感じたことのない、安心。

「ちかげ……」

 陸斗が涙をすすり上げる声が、妙に遠く聞こえる。

 この夏、私の人生は大きく変わってしまった。

 ずっと人と違うことで孤独を感じてきた。
 みんなが普通にする「恋」ができないことに腹を立てていた。
 だから「恋」なんてくだらないものだと見下げてきた。
 人魚になるくらいなら、恋せずに生きていくと。
 生きることの喜びから目を背けて。

 だけど今は何も恐れるものはない。
 私には陸斗に愛されている実感がある。
 たとえ異形の人魚になっても、誰も知らない海の世界へ行ったとしても、私は孤独じゃない。
 誰かに思いっきり愛され、誰かを思いっきり愛した。
 そんな確かな温もりを記憶に抱えたまま生きていくことができるのだから。

 これこそが、生きる喜びだったんだ。

「陸斗」

 肌が痛い。
 それは自分の肌が完全なうろこになろうとしているからなのか、彼の抱きしめる力が強すぎるからなのか分からない。
 陸斗は腕をほどいた。
 私は一歩退き、彼の瞳を見つめる。その涙で覆われた瞳の中には、もうかつての私じゃない私が映し出されていた。

 潮時だ。

 最後の瞬間に、私は告げた。

「愛してくれてありがとう。さよなら」

 それだけ言い残すと、ほとんど尾ひれになった足で、私は冷たい海の世界へ飛び込んでいくのだった。

 まだ彼に抱きしめられていた胸は、温かいままだ。


(完)