翌日の昼過ぎ、花琳(ファリン)は相変わらず酒を飲んでいる桜綾(ヨウリン)にむかって「ちょっと散歩してきます」と声をかけ、外へ出た。ここへ来てから、必要以外では部屋の外へでていなかったせいか、思ったよりも日差しを強く感じる。見上げた太陽の光に目を細め、それからゆっくりと辺りを見回すと、花琳(ファリン)はしばし考えこんだ。
(えっと……あちらが皇太子殿下の居室のある方、そしたら、こっちの方が笙鈴(ショウリン)様たちの……)
 さすがに見取り図こそもらえなかったが、口頭でだいたいの場所は説明を受けている。記憶を頼りに、花琳(ファリン)は一人でふらふらと目的の方角へ向かって歩き出した。
 初夏を迎えた紅国の昼は暑い。宮女たちも妃候補の姫君たちも、暑さを避けて室内にいる。従って、廊下にも庭にも人の姿は少なく、花琳(ファリン)はほっと小さな吐息をもらした。
 わざわざこうして人のいない時間を選んで出てきたのには理由がある。この瑠璃宮の内部を見て回り、地理を頭に叩き込むためだ。
 あちこち歩く予定なので、見とがめられたくはない。とりあえず、昼間であれば「気晴らしの散歩」という言い訳はできるだろう。まあ、こんな時間帯に散歩をしている妃候補なんて奇異の目で見られるかもしれないが、どうせ一時のことだ。
 桜綾(ヨウリン)にやる気がないのならば、花琳(ファリン)がやるしかない。まずは亡霊の姿を見ないことには始まらないのだから、現れそうな場所を探すのだ。目星をつけた場所に、夜桜綾(ヨウリン)を引っ張っていけばよい。
 それに、花琳(ファリン)にはもう一つ目的があった。
 できれば、今のうちに古株の宮女たちがいる場所を探して、二年前のことを聞いてみたいのだ。
(しっかし……広いわね……)
 瑠璃宮だけでもこの広さかと思うと、目が回りそうだ。ぐるりと塀に囲まれているはずだが、だいぶ歩いたというのにその塀すら見えてこない。周囲には竹林が造られていたり、小川や池、驚くことに桃園まで存在している。
 さすが皇太子の宮、瑠璃宮。そこら辺の貴族の邸とはわけが違う。

「うわあ、すっごい……」

 思わず目的を忘れ、花琳(ファリン)はその様子に感嘆してふらふらと桃の木の間へ歩を進めた。しばらく歩くうちに、青い葉の茂った中に、少し色づいたぷっくりとした実がゆらゆらと揺れているのが見える。辺りに漂っている、ほんのりと甘い香りが芳しく、胸いっぱいにその匂いを吸い込んだ。。
 食べごろになるまではもう少しだろう。甘い桃の味が舌に蘇って、花琳(ファリン)は思わずごくりとつばを飲み込む。
 誘われるように、果実の一つに手が伸びた。もちろん食べごろでないことは判っているが、香りを楽しむくらいはできるだろう。もう少しで手が届く、といったところで背後から突然声をかけられた。

「それは、まだまだ食べられないぞ」
「ひっ!?」

 思わず身体を跳ねさせて、花琳(ファリン)はばっと音がしそうな勢いで後ろを振り返った。するとそこには、年の頃は十ほどと見えるかわいらしい少女がこちらの顔を見あげて立っている。幼いながらに上等なものとわかる襦裙を身にまとい、綺麗に結われた髪には煌めく(かんざし)が挿してあって、身分ある貴族の子女だと一目でわかった。
(こんなところに、子ども……?)
 一瞬、花琳(ファリン)は首を傾げた。ここは後宮の中でも皇太子殿下のおわす瑠璃宮だ。まだ妻帯していない皇太子殿下に子がいるわけもないし、と思ったところで哉藍(セイラン)の話が脳裏によみがえる。
(あ、この子……!)
 そういえば、と目の前の幼女が何者か思い出したところで、その当人が口を開いた。

「私は笙鈴(ショウリン)(チャン)家の娘だ。……おぬし、見ない顔だが……」
「これは、失礼をいたしました。わたくしは……えっと、黎花琳(レイ ファリン)と申します。(リー)家のご推薦をいただき、このたび妃候補の一人としてこちらに参りました」
「ほお……李家の。そうか……」

 年齢の割に、大人びた物言いをする子だ。目を瞬かせた花琳(ファリン)がじっとその顔を見ていると、幼女――笙鈴(ショウリン)が眉をひそめた。

「なんだ、無礼なやつだな」
「これは失礼を……」

 花琳(ファリン)は慌てて頭を下げた。
 どうやら間違いなく、この幼女が話に聞いていた張笙鈴(チャン ショウリン)であるようだ。だが、話を聞いてイメージしていたのとはだいぶ感じが違う。もっとこう、不安そうで気の弱い、おとなしい感じだと思っていたのだけれど、と下げた頭の下からそっと様子を窺ってみる。
 目の前の幼女は、どちらかといえば尊大な感じだ。まあ、大貴族の姫君なのだから当然か。だが、そんな幼女が腰に手を当てふんぞり返っている様子は、なんだか妙にほほえましく、むしろかわいらしくさえ見える。
 くす、と小さく笑うと、それを聞きつけたのか笙鈴(ショウリン)は唇を尖らせ、頬を膨らませた。
(あれ、でも……一人なの?)
 一人でふらふら出歩いている花琳(ファリン)が言うことではないが、高位貴族の姫君ならば、お付きを連れているのが普通だ。けれど、周囲にそれとなく視線を投げかけてみても、それらしい人影は見当たらない。
(殿舎からは随分離れてしまっているけど……大丈夫なのかしら)
 花琳(ファリン)でさえ、だいぶ歩いてきたような気がしている。油断をすれば、同じような樹木が立ち並ぶ桃園の中だと、方角を誤ってさらに殿舎からは遠くなってしまうだろう。
(まさか、一人抜け出して迷子になっているわけじゃ……ないわよねえ……?)
 少なくとも、笙鈴(ショウリン)花琳(ファリン)よりもひと月以上前からここ瑠璃宮にいるのだ。きっと道くらい覚えているはず。
 そんなことを考えていた花琳(ファリン)の視線の先で、笙鈴(ショウリン)はきょろきょろと辺りを見回した。それから、何か考えるように首を傾げている。
 その様子に、花琳(ファリン)の頭の中には嫌な予感が広がった。

「あの……笙鈴(ショウリン)様? 差し出がましいようですが……お付きの方は?」
「……いない」

 唇を尖らせて、笙鈴(ショウリン)は小さな声で答えた。その様子に、花琳(ファリン)の中で疑惑がますます現実のものとなっていく。じっと彼女を見つめていると、なんだか不思議なことに、黒い靄のようなものが笙鈴(ショウリン)を取り囲んでいるように見えてきた。
(なにこれ……?)
 こんな経験は、今までにない。もっとよく見よう、と目を凝らしたところで、その行動に気づいた笙鈴(ショウリン)がきっと花琳(ファリン)を睨みつける。とたん、その靄のようなものは霧散して、何も見えなくなってしまった。
(なんだったんだろう、今の……)
 目の錯覚だろうか。だけど、それにしてはやけにはっきりと見えたような気がする。
 ごしごしと目をこすってから、花琳(ファリン)はもう一度笙鈴(ショウリン)の様子を窺った。けれど、彼女は「ふん」と鼻を鳴らして花琳(ファリン)を睨みつけているだけで、さきほどの靄はやはりない。
 妙なこともあるものだ。慣れない場所で疲れでもしていたのだろうか。
 まあいいか、と口の中で呟いて、花琳(ファリン)は目の前の小さな姫君のご機嫌を取ることにした。
(ここで放っておいて、騒ぎになったら大変だもの……それに、いくらなんでもこんな小さい子、一人で放っておけない……)
 さて、何と言えばこのプライドの高そうな幼女を誘導できるだろうか。そんなことを考えていると、思わぬ救いの手がほかならぬ笙鈴(ショウリン)から差し伸べられた。

「おまえ、黎花琳(レイ ファリン)だったか」
「は、はい」

 なんという威圧感だろうか。これが大貴族の姫君と言うやつか。
 同じ妃候補の身でありながら、堂々たる格下扱いだ。花琳(ファリン)は別に異を唱えるつもりはないけれど、この態度では他の姫君たちとうまくいかないのではないだろうか。
 そんな考えが脳裏を過ったが、指摘をすればへそを曲げてしまうだろう。おとなしく返事をすると、笙鈴(ショウリン)は偉そうにこう続けた。

「供を許す。笙鈴(ショウリン)を部屋まで連れて帰れ」

 助かった――のかどうなのか。とりあえず花琳(ファリン)はその命令をありがたく拝命し、小さな姫君を伴って桃園の中を元来た通りに歩き出した。