衝撃に声も出ない。尋常ではない膂力で吹き飛ばされて、背後の壁に激突する。おそらく、哉藍(セイラン)でなければこの一撃で内臓を損傷してもおかしくはなかった。
 今の哉藍(セイラン)は龍脈から力を得、常人ではあり得ない強靱な肉体になっている。だが、それをもってしても、屍鬼と化した俊豪(チンハオ)の一撃は重かった。

「ぐ、俊豪(チンハオ)……」

 こちらを見下ろす俊豪(チンハオ)の顔には、やはり何の表情も浮かんではいない。ただ無表情に、濁った赤い目で見ている。いや、本当に見えているのかどうか。
 相手は死人だ。魂はすでになく、魄を支配されて術士の命に従い動くだけの人形といってもいい。身体を斬って支配を断ち切ることこそが救いではあるだろう。
 だが、仮にも一時は志を共にした――苦しい時期の劉帆(リュウホ)を共に支えた仲間だと思うと、どうしても手を出すのがためらわれてしまう。
 ましてや、花琳(ファリン)にとってはずっと探していた異母兄なのだ。薬のせいでほとんど周囲の状況を把握していないとはいえ、今はその目の前だと思えば余計にその思いは強くなる。
 それを利用されているのだとわかっていても、だ。
 哉藍(セイラン)はぐっと拳を握りしめると、背中を打った痛みを堪えてどうにか立ち上がった。
 そこへ、ひゅん、と風を切る音がして今度は蹴りが飛んでくる。どうにか紙一重でそれをかわし、反射的にこちらからも打撃を繰り出す。
 だが、俊豪(チンハオ)はそれをあっさりと受け流すと、流れるように回し蹴りを見舞ってきた。慌ててそれを両腕を交差させて防ぐと、俊豪(チンハオ)はそれを予見していたように後ろに飛び退く。そんな攻防を二、三度も繰り返しただろうか。
 頭がぐらぐらする。目の奥もじりじりと焼け付くようだ。相手は屍鬼だけにまったく疲労した様子もないが、哉藍(セイラン)は息を切らし、したたる汗を拭った。
(もとは、武芸の心得もない文官だったのにな、俊豪(チンハオ)……!)
 皮肉にも、屍鬼となったことで身体の限界まで動かせるようになっている。常々哉藍(セイラン)の鍛錬を見てはうらやましげにしていた俊豪(チンハオ)を思い出し、哉藍(セイラン)は小さくため息をついた。
 何があっても、今倒れるわけにはいかない。

俊豪(チンハオ)、お前、わからないのか……?俺はともかく、あそこにいるのはお前の異母妹だろうが……!」

 だが、その言葉が届かないことを哉藍(セイラン)は知っていた。魂がないのだ、彼には、もう。
 ごくり、とつばを飲み込む。もう、やるしかないだろう。このまま自分が負ければ、俊豪(チンハオ)は自らのかわいがっていた異母妹を害する手伝いをすることになるのだ。
 そうなるくらいなら、いっそ。
 覚悟を決めた哉藍(セイラン)は、腰に佩いた太刀に手をかける。わずかに俊熙が驚く気配がして、口を開きかけるのが視界の端に見えた。だが、それよりも哉藍(セイラン)の動きのほうが早い。
 背後から物音がしたような気がするが、既にそれを気にする余裕などなかった。
 太刀を抜くと同時に、踏み出した一歩が俊豪(チンハオ)の間合いに踏み込む。

俊豪(チンハオ)……すまない……!」

 紅と金の光を帯びた太刀が振り上げられ、一撃で首を落とすべく振り下ろされる。その瞬間、無表情だった俊豪(チンハオ)が微笑んだような、気がした。

◇◇◇

 気づいたときには、目の前で紅い髪の青年が屍鬼と対峙していた。無表情に攻撃を仕掛けてくるその姿は、花琳(ファリン)にとって探し求めていた人物。
俊豪(チンハオ)兄さま……!)
 息を殺して、花琳(ファリン)は心の中でそう呼びかける。
 鍛錬をしているところなど見たこともないのに、なぜか流れるような体捌きで回し蹴りを繰り出した兄の姿。ちらりと見えたその瞳は、赤く濁った色をしていた。
 過去視ですでに視ていたこととはいえ、現実にそれをつきつけられると心がじくじく痛む。だが、花琳(ファリン)は識っていた。
(もう、あれは兄さまじゃない……)
 魂と魄と、その両方が揃っていてこそ、人は人として成り立っている。魂を無くした俊豪(チンハオ)は、既に人ではなく――鬼、だ。
(せめて……安らかな眠りを……)
 花琳(ファリン)にできることは、もうそれしかない。ぎゅっと目を閉じて、たった一つだけ桜綾から教わった印を組む。
 その間にも、哉藍(セイラン)は懸命に屍鬼となった俊豪(チンハオ)に語りかけているようだった。必死な、どこか懇願に似た響きの宿るその声に、彼の優しさを感じて心が痛む。
(ごめんなさい……)
 巻き込んでしまって。
 その言葉だけは飲み込んで、そっと目を閉じる。
 瞬間、紅と金の光が周囲に満ちたのが分かった――と、同時に花琳(ファリン)の唇がまじないの言葉を紡ぐ。

「……急急如意令」

 締めくくりの言葉と、どさりと重たい者が落ちる音と。
 どちらが早かったのかは正直なところ分からない。だが、花琳(ファリン)が目を開けたとき、胴から首が落ち、淡く光るのが見えた。やがて形が保てなくなったのか、さらりとその身体が崩れ落ちてゆく。
(兄さま……ごめんなさい、どうか安らかに……)
 最後にもう一度、しっかりとその姿を目に焼き付ける。最後に視た俊豪(チンハオ)の顔は、どこか安らいで見えた。

「……っ、花琳(ファリン)
哉藍(セイラン)、さま……」

 俊豪(チンハオ)を見送ったあと、しばしの間沈黙が室内を支配していた。その沈黙を先に破ったのは哉藍(セイラン)だ。
 どこか遠慮がちな――弱々しい彼の声にはっとして花琳(ファリン)が顔を上げるのと、哉藍(セイラン)が膝をつくのは同時だった。

「せ、哉藍(セイラン)さま……っ!」

 慌てて駆け寄り、彼の手を取る。途端、哉藍(セイラン)花琳(ファリン)にしがみつくようにして倒れ込んだ。その身体の冷たさにひゅっと息を呑んだ花琳(ファリン)に、切れ切れに絞り出したような声で哉藍(セイラン)が言う。

「離れるな……俺が、守る……」
「そ、そんな場合じゃ……!」

 触れた肌はじっとりと汗ばんでいて、呼吸が浅い。それなのに、身体が冷え切っていて――花琳(ファリン)ははっと顔をこわばらせた。
 この症状、桜綾から聞いたことがある。体内の「気」が一気に消費され、生命維持活動が困難になっているのだ。

哉藍(セイラン)さま、しっかりして……!哉藍(セイラン)さま、哉藍(セイラン)さま……っ!」

 必死で呼びかけるが、応えはない。ただ、しっかりと花琳(ファリン)の身体を抱きしめた腕は離れず、体重を預けられた花琳(ファリン)はぺたりとその場に座り込んだ。
(や、やばい……このままじゃ、哉藍(セイラン)さまが死んでしまう……)

「くそ、最後まで邪魔を……!」

 小さく罵声を漏らした俊熙が、ばたばたと部屋から出て行く足音がする。本当ならば、追いかけて彼を捕まえなければいけない。だが。
 ――俊熙の気配が部屋から消えたことに気づいたわけではないだろうが、花琳(ファリン)にしがみついていた哉藍(セイラン)の腕からとうとう力が抜ける。息が細くなって、今にも止まりそうだ。
 哉藍(セイラン)の身体を床に横たえて、花琳(ファリン)はごくりとつばを飲み込んだ。

「解決法は、息吹を吹き込むしかない、のよね……」

 汗で張り付いた紅の髪をそっと払いのける。端正な顔は青白く、もはや死人に近い様相だ。迷っている時間はなかった。

「うまくいきますように……!」

 すうっと大きく息を吸い込むと、花琳(ファリン)哉藍(セイラン)の唇に自分のものをあわせた。