「いい部屋だな」
「はあ……」

 さすがに夜の宴にこそ出なかった笙鈴(ショウリン)だが、二、三日のちには何の前触れもなく、花琳(ファリン)の住まいとなった天穹殿の一室に姿を現した。天穹殿(てんきゅうでん)付きの大監(たいかん)が困惑しきりといった調子で少女の姿を見つめている様子から察するに、またまたあの尊大な態度で押し切ってきたのだろう。いかに皇太子妃候補として集められたとはいえ、許可もなく簡単に足を踏み入れられる場所ではない。
 なんとなくその光景が想像できて、花琳(ファリン)は小さく笑みを浮かべた。
 しかし、当の笙鈴(ショウリン)はそんなことはつゆほども考えていないのだろう。純粋に興味があるのか、部屋の中をあちこち見て回っては「おお、これは……」と感嘆の声をあげている。
 その様子を見て、花琳(ファリン)は「さすが大貴族の姫君とあって、やはり目が肥えているのだな」と思った。
 さすがというべきなのかどうなのか、天穹殿の中の設えは一級品ばかりだ。哉藍(セイラン)の用意してくれた品々でさえ恐る恐る触れていた花琳(ファリン)にとっては、すこしばかり肩の凝る調度品ばかり。
 睡眠をとるためにある牀榻でさえ、毎朝枕によだれが垂れていないかを気にする羽目になっていて、気が休まるはずもない。だが、笙鈴(ショウリン)ならばたとえよだれを垂らしても気にすることなく過ごすことができるだろうな、と花琳(ファリン)は肩をすくめた。
 そんなため息の出そうな部屋で、あとどれくらい過ごすことになるのか。
 哉藍(セイラン)には「そんなにすぐに結果が出てたまるか」と言われたけれど、花琳(ファリン)はだんだん不安が大きくなるのを感じていた。
(自信満々に、師匠は大丈夫と言ったのは私だけど……)
 そりゃあ、師匠の実力はいやと言うほど知っている。けれど、その師匠が捕まった相手だと思うと、やはり心配には違いない。計画を受け入れてもらおうと、大見得を切ったのは、確かに花琳(ファリン)である。だがそれも、先日の話通りに燕徳妃《イェンとくひ》が背後にいるのならば、すぐさま行動に移ると思ったからこそだ。
 日がたつにつれ、心細さが襲ってくる。はあ、とため息をつくと、笙鈴(ショウリン)が目ざとくそれに気が付いた。
 はあ、とため息をつくと、笙鈴(ショウリン)が目ざとくそれに気が付いた。

「なんだ、花琳(ファリン)。元気がないな」
「え? ああ、いえ……」

 気を使わせてしまった。小さい子に。ただ、じっとその姿を見てもあの靄がないことに、花琳(ファリン)は少しだけ安堵の息を吐く。
 ここのところ、なかなか会うこともできていなかったが、元気になってきているようだ。やはり、最近あの亡霊――もどきが出ないことで、心が安定してきているのだろう。
(というか、そうであって欲しい)
 願望に過ぎないが、花琳(ファリン)は心の中でそう呟くと、笑顔を浮かべて窓の外を窺った。菓子の準備を頼んだ侍女、美雨(メイユイ)がまだ戻ってこないのだ。元は笙鈴(ショウリン)のところにいた侍女なので、色々話もしたいだろうと思ったのだけれど。

「遅いですね、美雨(メイユイ)
「ん? そうだな……あやつは少し、おしゃべり好きだからな……」

 む、と眉間にしわをよせた笙鈴(ショウリン)が腕組みしてフンと鼻息を鳴らす。相変わらず年齢に不釣り合いなその態度に、花琳(ファリン)はくすりと笑みを浮かべた。
 その時である。部屋の扉の外から、いくらか遠慮がちな男の声がした。聞き覚えのある声に、心臓がとくりと小さく音を立てる。
 はあい、と返事をするのと同時に、予想通りの人物が顔を出す。哉藍(セイラン)だ。

「失礼、花琳(ファリン)……どの、こちらを」

 言葉の途中で扉を開いて、笙鈴(ショウリン)の存在に気付いたらしい。んんっ、と咳払い交じりに誤魔化した彼の手には、盆が乗っていた。その上には、美雨(メイユイ)に頼んだはずの菓子が載っている。
 あら、と小さく口を押えた花琳(ファリン)に、哉藍(セイラン)が苦笑を浮かべた。

「侍女どのに先程行き会って……急に呼ばれてしまったので、これを花琳(ファリン)どのに届けて欲しいと頼まれてな」
美雨(メイユイ)が……? いや、すまんな、手間をかけた」

 おや、と首を傾げた花琳(ファリン)に代わり、笙鈴(ショウリン)がその盆に手を伸ばす。その瞳がきらきら輝いていることに気付いた哉藍(セイラン)は、くすりと笑ってその手に盆を渡してやった。満面の笑みを浮かべた笙鈴(ショウリン)は、いそいそとそれを机に運んでいく。その姿を目で追いながら、哉藍(セイラン)はふと気づいたように呟いた。

「そういえば、あの侍女どのは、笙鈴(ショウリン)様のところから来ていただいているのでしたな」
「ああ」

 盆に乗っていた菓子を一つつまんだ笙鈴(ショウリン)は、早速かじりつきながら彼の言葉に頷いた。口元についたカスを、行儀悪く手で拭うので、手巾を手渡してやる。それで口を拭きながら、小さくため息交じりに言葉をつづけた。

「どうにもおしゃべり好きで、すぐにあちこちに寄り道してしまう困ったところはあるが、あれでなかなか気が利いて……」
「ああ、いえ。しばらく様子を見ておりましたので、充分に働いてくれているのはわかっているのですが……」
哉藍(セイラン)さま、何が気になるんでしょう?」

 侍女をかばう笙鈴(ショウリン)の発言に頷きながらも、哉藍(セイラン)は何が気になるのか首を傾げている。その様子を見て、花琳(ファリン)もまた首を傾げた。
 別に、侍女がそのへんで声をかけられて連れていかれるなんて、後宮の中ではよくあることだ。どこかで手が足りないとなれば呼ばれるのも日常茶飯事なのである。
(まあ、師匠はそういうの面倒くさがって全然行かなかったけどね……)
 そんなことを思い出して苦笑した花琳(ファリン)だったが、哉藍(セイラン)は「いや」と再び首を振った。

「それならば、呼びに来るのは宮女だろう。だが、彼女はなにやら紙片を渡されて呼び出されたようで……。てっきり、本来の主がお呼びになったのかと思っていたのだが……」
「いや? 笙鈴(ショウリン)はここにおったが……?」

 そうだな、と再び首を傾げた哉藍(セイラン)だったが、それもほんのわずかの時間。訝しげに眉をしかめた笙鈴(ショウリン)に軽く微笑むと、安心させるように頷いて見せる。

「おしゃべり好きと聞きましたから……懇意になった宮女に呼ばれていったのかもしれません。すぐに戻るでしょう。さ、どうぞごゆっくり」
「う、うむ……そうか」
「ほら、笙鈴(ショウリン)様、これお好きだと仰っていたでしょう?」

 花琳(ファリン)がもう一つ菓子を勧めると、笙鈴(ショウリン)はぱっと顔を輝かせた。その様子に安堵しながら、ちらりと哉藍(セイラン)の様子を見る。すると、彼は何やら難しい顔をしながら考え込み、心ここにあらずといった様子だ。
(なにかしら……美雨(メイユイ)のこと、そんなに気になる……?)
 なんだか胸がもやっとする。だが、それがどうしてなのかを考えるよりも先に、笙鈴(ショウリン)が無邪気に花琳(ファリン)を呼んだ。

「これ、うまいぞ! 花琳(ファリン)も食べてみろ」
「え、ああ……ん、ほんとですね、笙鈴(ショウリン)様」

 一口かじると、口の中にほんのりと甘みが広がる。んん、と目を細めた花琳(ファリン)を、笙鈴(ショウリン)が満足そうに見やった。



◇◇◇



 同時刻。天穹殿を出た先、人気のない場所に二人の男女の姿がある。何事か男がささやきかけると、女は頷いた。

「……はい」

 とろりとした目つきの女を前に、男は歪な笑みを浮かべた。その懐に紙片をしまい込むのを見届けて、小さく頷く。
 行け、と号令をかけると、女は素直に返事をしてこちらに背を向けた。
 元々、あの女はこちらに随分と興味を示していたから、近づくのは簡単だった。
(一筋縄でいかないのは、あやつくらいだ……)
 脳裏に浮かんだ姿に、ちっ、と舌打ちをして踵を返す。足は自然と思い浮かべた人物を捕らえた、寂れた殿舎へと向かう。
游桜綾(ユウ ヨウリン)……)
 自らの願望のため、星見の娘を手に入れたい。そのために、邪魔な彼女をなんとか引きはがすことに成功したのだ。だというのに……。

「なにが寵姫だ……おのれ……」

 燕徳妃(イェンとくひ)と相対した時には隠しきれたが、一人になると抑えが利かなくなる。ぎりりと歯をきしらせ、地面を足でけりつけて塀の上に飛び乗ろうとしたところで――俊熙は今がまだ昼間だということを思い出した。さすがに、目立つ行動は避けなくては。
(面倒なことだ)
 はあ、とため息をつきながら懐から一枚札を抜き出すと、そっと息を吹きかける。途端に、彼の周囲がゆらゆらとゆらめき、だんだんと姿が認識できなくなってゆく。
 そのまま、俊熙(ジュンシー)の姿はその場から掻き消えた。