宴を終えた後、自身の部屋に戻ろうとした花琳(ファリン)を引き留めたのは劉帆(リュウホ)だった。話があるというなり「ついてこい」と踵を返した彼の背を、首を傾げつつも追う。護衛のために後ろからついてきた哉藍(セイラン)を加え、とある一室に二人を連れてきた劉帆(リュウホ)は振り返って頷くと、自ら先頭に立って室内に足を踏み入れた。
 あらかじめ人払いされたようで、室内にいるのは三人きりだ。廊下の灯火がもれ入って室内はぼんやりと明るい。そこへ劉帆(リュウホ)が手ずから部屋の灯火に火を入れると、ぽうっと辺りが照らされた。あまり使われていない部屋なのか、灯火からは少しばかり古くなった油の匂いがする。ただ、埃っぽさはあまりなく、少し狭いながらも居心地よさげに整えられてはいた。物珍し気に辺りを見回す花琳(ファリン)に、劉帆(リュウホ)が苦笑をもらす。
 慌てて真面目な顔を取り繕った花琳(ファリン)に向って、彼は小さく肩をすくめると「まぁ、楽にして」と近くの(トウ)を示した。
 
 そこで彼からされたのは、思いがけない提案だった。

「えっ……天穹殿(てんきゅうでん)にですか……?」
「ああ、その方がなにかと都合がいいだろう」

 劉帆(リュウホ)の言葉に、花琳(ファリン)は困惑の表情を浮かべた。天穹殿、というのは瑠璃宮の中でも皇太子の住む一角を示す。つまりは彼の私室のようなものだ。
 もちろん、皇太子の殿舎ともなればその広さは邸宅一つ分くらいになる。一室与えられたくらいでどうこうということもないのだが、そこに部屋を用意されるというのは、かなり破格の扱いになるだろう。
 戸惑う花琳(ファリン)に、劉帆(リュウホ)は紅い髪を揺らして笑う。金の瞳が悪戯に細められ、花琳(ファリン)を見やった。

「警備上の問題でね……。きみ、囮になるというけど、その辺について深く考えていた? もしきみが襲われて間に合わなかったら、全てがパーだからね」

 劉帆(リュウホ)が肩をすくめ、手のひらを上に向けるような仕草をする。その仕草を見ながら、パー、と花琳(ファリン)が繰り返すと、劉帆(リュウホ)はからからと笑った。意外と俗な言葉遣いを知っているものだと、なんだかおかしくなってくる。
 釣られて花琳(ファリン)も吹き出すと、二人分の笑い声が部屋の中に響いた。それを聞いているのは、苦虫を噛み潰したような顔をした哉藍(セイラン)だけだ。
 はあ、とため息をついた彼に向かって、花琳(ファリン)はにこりと微笑んだ。

「私のことは大丈夫です。師匠の術で、あの部屋は安全が保たれていますし……」
「しかし、桜綾(ヨウリン)殿の術がいつまで持つかは……」
「うーん、その辺は、これが」

 花琳(ファリン)が腕を突き出すと、劉帆(リュウホ)哉藍(セイラン)が揃って覗き込んでくる。見えやすいように袖を少しめくると、花琳(ファリン)の手首に細い紙のこよりのようなものが一周ぐるっと巻き付けてあるのが見えた。
 だが、それがなんなのか二人には理解できない。眉をひそめて顔を見合わせた双子を交互に見やって、花琳(ファリン)は「ああ」と小さくつぶやいた。

「これは、道士の間ではわりと有名なものなんですが……師匠に何かあると、これが切れて知らせてくれるんです」

 そう言って、花琳(ファリン)がこよりを手で引っ張る。ひえっ、と青くなって大声を上げたのは哉藍(セイラン)だった。

「そ、そんな大切なものを乱雑に扱うな……! 切れたらどうする」
「いや、切れませんから」

 これは、札を術でこの形にしてあるものなので、そう簡単に――そう、この程度引っ張ったところで切れはしない。それどころか、花琳(ファリン)桜綾(ヨウリン)の弟子になってからずっと腕につけているくらいなので、水に濡れても平気だし、引っ掛けたところで切れ目一つはいらない。
 いかなる術なのかは、半人前以下の花琳(ファリン)には到底わからないのだが、とにかく「すごい」の一言に尽きる。
 だが、哉藍(セイラン)は慌てた様子で花琳(ファリン)の手首ごとそのこよりを押さえた。

「……と、とにかく……心臓に悪いから控えてくれ」
「は、はあ……」

 確かに、桜綾(ヨウリン)に何かあった時に切れる仕組みではあるけれど、逆にこちらで切ったからと言って(まあ切れないのだけれど)桜綾(ヨウリン)に害をなすわけではないのだが。
 あまりに哉藍(セイラン)が青い顔をしているので、なんだか申し訳なくなってくる。
(まぁ、確かに気分の問題ではあるけれど……紙にしか見えないものね、これ)
 上からぎゅっと握られた手首を見つめて、花琳(ファリン)は小さく息をついた。だが、これでわかってもらえただろう。

「まあ、そういうわけですので、私に警備は」
「いや、天穹殿には移ってもらう。わかっているのか、きみは今『皇太子の寵姫』なんだぞ」
「え、ええ……?」

 目をパチクリさせると、呆れたような哉藍(セイラン)の顔がすぐ近くに迫ってくる。真っ黒な瞳が真っ直ぐに花琳(ファリン)の目を見つめ、囁くような声で言い聞かせた。

「今やきみの敵は、この瑠璃宮に集められた皇太子妃候補全員だ。余計な茶々まで構っているわけにはいかない。一番の目的のために、今は大人しくいうことを聞いてくれ」
「は、はあ……」

 随分と大ごとだった。気軽に提案してはいけないことだったのかもしれない。いや、実際よく考えればその通りである。
 燕徳妃(イェンとくひ)の神経を逆撫でするのには一番の策だと思ったのだが――と、花琳(ファリン)は少しだけ顔色を青ざめさせた。

「大丈夫、そんな顔をするな。ここにいる限り、俺が守ってやる」
「……そういうのは、俺の台詞じゃあないのか、哉藍(セイラン)

 花琳(ファリン)の腕を握ったまま、哉藍(セイラン)がそう真摯な表情で告げてくる。その背後から、劉帆(リュウホ)が肩をすくめてからかってきた。うるさい、と鼻の頭に皺を寄せた哉藍(セイラン)の顔を見つめながら、花琳(ファリン)はなんだかおかしくなって、くすりと笑う。
 それから覚悟を決めると、一呼吸おいて口を開く。発案者は自分だ。そして計画を立案したのは劉帆(リュウホ)。発案し、実行すると言った以上、立案者の思い描いた前提条件には従わなければならないだろう。
 それに、と花琳(ファリン)は黒髪の青年の姿をちらりと盗み見た。彼が必ず守ってくれるというのだから、何も心配はない。彼のやりやすいようにしてやるだけだ。

「では、よろしくお願いします」
「任せておけ」

 こうして、花琳(ファリン)は天穹殿の住人になることになったのだった。