「ほれ、もう少し近くまで寄らんか」
「え、ええっ……もう充分ではありませんか?」

 濃紺の空にぽっかりと姿を見せる月が中天にかかり、星が煌く夜である。大きな池のほとりに作られた殿舎には煌煌と灯がともされ、着飾った人々があちらこちらでさざめき合っていた。並べられた酒肴に、どこからともなく楽の音が聴こえ、美しい夜に彩りを添えている。
 その中でも一段高い場所にいる二人――その片方である皇太子・劉帆(リュウホ)が笑みを浮かべてそう囁いた。そっと腰に手を添えられぐっと力を込められて、花琳(ファリン)はひえっ、と小さく声を上げ、身をすくませる。うろたえた小声で彼に耳打ちすれば、今度は背後から咳払いの声がした。
 慌てて振り返ると、哉藍(セイラン)がこちらをじろりと睨んでいる。不機嫌そうな表情に、なぜだかいたたまれないものを感じて、花琳(ファリン)は再び身をすくめた。周囲は笑いさざめいているというのに、何故か冷や汗が背筋を滑り落ちていく。
 後方に坐した哉藍(セイラン)は、なにやら術を用いているとかで今はその髪も瞳も漆黒の色。そもそも、紅髪金眼の姿が見えていたのは、星見の力によるものらしい。落ち着いた今では、その姿は元通り。馴染み深さはあるが、本来の色彩を見たあとではそこはかとなく違和感が漂う。不思議なものだ。
 ただ、どうしてあれほど皇太子に似ている顔をした人間が瑠璃宮の中を歩いていてばれないものかという疑問は、今の二人を見て氷解した。
 色彩が違うというだけで、こうも雰囲気が変わるものだろうか。こうして二人が側にいても、まったく「そっくり」という感じはしない。
 いや、本来の紅髪金眼をさらしている劉帆(リュウホ)の存在の鮮やかさばかりが印象に残って、哉藍(セイラン)を目立たせなくしているのか。
(ううん、不思議……)
 ぼうっと哉藍(セイラン)を見つめていると、隣に座った劉帆(リュウホ)がくつくつと笑いながら襦裙の袖をつい、と引いた。

花琳(ファリン)、よそ見をするな」
「あ、申し訳ございません……」

 そうだった、今の自分は皇太子殿下の恋人。これまで女性に興味を示さなかった皇太子が目を留めた花なのである。自分で言うとこそばゆいが、まあそういうことになっている。
 今宵は、その劉帆(リュウホ)花琳(ファリン)と共に池に浮かんだ月を見る――という名目の宴だ。参加は自由、何か芸のあるものは披露しても良いとの触れ込みで人が集められていた。
 腕に自信のあるもの、美貌に自信のあるもの――まあ、何をやっても花琳(ファリン)には負けない、という気概を持った貴族の姫君たちは、こぞってこの宴に参加している。
 これまでなんといってもこの宴、彼女たちにしてみれば妃候補を集めながらも姿をほとんど見せなかった皇太子に、直接自分を売り込むチャンスなのだ。
 中には昼のうちにわざわざ花琳(ファリン)の姿を見に来て、小馬鹿にしたような笑みを浮かべていくものもいたくらいなのである。
(競争社会、恐るべし)
 それでも、直接手出しをしてくる人間がいないだけマシなのかもしれない。いや、むしろ侮られているのだろうか。
 まあ、それも仕方ないだろう。錚々たる美姫、華々しいお家柄の面々を差し置いて、選ばれた(と見せかけるのが)自分のような平凡な女なのだから。
 全くもってとんでもない提案をしてしまったような気がする。花琳(ファリン)としてはあくまで燕徳妃(イェンとくひ)を釣るための囮のつもりだったのだが。
 まあ、そうはいってもこの役目を他の姫君たちに任せるわけにもいかなかった。
燕徳妃(イェンとくひ)は、権力者の寵妃になることで権勢を得るのが目的のはず。その父親の燕吏部尚書は、次の皇帝の外戚になるのが目的)
 昨夜、劉帆(リュウホ)哉藍(セイラン)が語った内容を思い出す。
(そのために燕徳妃(イェンとくひ)は、皇帝の寵厚い妃であったお二人の母上を亡き者に……。でも、皇帝に侍って男児を産んだものの、翌年にはその子どもが亡くなっている……)
 年齢からして、皇帝はまだまだ壮健であると考えていたのだろう。次世代を待つよりも、現皇帝のもとに侍った方が早いと判断したのか。拙速と言わざるを得ないが、燕吏部尚書(イェンりぶしょうしょ)の年齢を考えれば妥当な判断。
 男児を産んで健やかに育てれば、現在寵を得ている自分の言うことをきいて、自らの息子を皇太子に――と、まあ、これまでの歴史上全くの荒唐無稽な計画とも言えないか。
 劉帆(リュウホ)に促されるままにしなだれかかりながら、花琳(ファリン)はこの計画について考える。
(合わせて陛下が病を得られたことで自身の計画が危うくなり、今度は皇太子殿下に鞍替えを計っている。しかし、そんなことが本気で可能だと思っているのかしら)
 考えてみれば、おかしな点はそれだけではないのだが――。

「……い、おい、花琳(ファリン)?」
「あ……」

 劉帆(リュウホ)の声に、はっと我に返る。少し考え事に没頭しすぎていたようだ。思わず俯くと、ふっと耳元に笑う声と吐息がかかった。びくりと身体を震わせると、劉帆(リュウホ)は一瞬驚いたように身を離す。それから「ふうん」と呟くと、口の端に少し皮肉気な笑みを浮かべて、背後の弟を振り返る。
 すると、その当人が苦虫を噛み潰したような顔で兄と視線を交わした。

「……兄上」

 低く押し殺したような哉藍(セイラン)の声が、とげとげしさを含んで響いた。遊んでいる場合ではないということだろう。軽く劉帆(リュウホ)の袍をつまんで引っ張ると、耳元に唇を寄せる。

「失礼いたしました。この後、どういたしましょう……?」
「ふふっ……うん、じゃあちょっと酌でもしていてもらおうかな」

 はい、と素直に頷いて甕から杯に酒を注ぎ入れる。視界の端で、哉藍(セイラン)がため息を漏らすのが見えた。くすりと笑った劉帆(リュウホ)が、それを受けて杯を掲げると、そこに今夜の月が映りこむ。

「美しい月だ。そうは思わないか」

 そう言うと、劉帆(リュウホ)は背後を振り返った。どうやら、今の言葉は哉藍(セイラン)に向けて発したものらしい。
 虚を突かれたように一瞬黙った哉藍(セイラン)は、ぷいと顔を背けると小さく頷いた。
 くく、と笑う声がする。

「春だなぁ……」
「兄上……」

 楽しそうな劉帆(リュウホ)とは裏腹に、哉藍(セイラン)は苦い顔をしている。花琳(ファリン)は、そんな二人のやり取りに首を傾げた。

「もう夏ですが……?」

 そう口にすれば、二人が揃ってこちらを見る。はあ、とため息をついたのは哉藍(セイラン)で、劉帆(リュウホ)はまた愉快そうに笑っただけだった。
 これだけをみれば、皇太子が寵姫とともに護衛の衛士をからかっているだけの和やかな場に見えるだろう。
 けれど、ちりちりと身を焼くような――そんな悪意のこもった視線の存在に、花琳(ファリン)はしっかり気づいていた。