瑠璃宮は後宮の一部ではあるけれど、宮の中に限ってにいさま直属の部下は出入りを許されていた。それは、まだ皇太子であるにいさまの妃が一人もいないからだ。
 私はにいさまの「妹」だから、出入りを許されている。けれど、その日も私はにいさまの姿を見にいったものの、話しかける勇気も出せずに池のほとりに佇んでいた。
 徳妃様が亡くなってからのにいさまたちは、少し怖い。

「どうしました、このようなところで……?」
「あ……」

 そこにいたのは、歳の頃はにいさまたちとそう変わりない青年だった。名前を、黎俊豪(レイ チンハオ)というその青年は、瑠璃宮に出入りを許されるようになったばかりらしい。
 当然のことながら、私の顔など知りもしないので、瑠璃宮で働く女官かと思っていたようだった。けれど、その勘違いを正す必要を、その時の私は感じなかった。
 それから、何度か顔を合わせるようになる。私のことを知らない人と話をすることは、少しだけ重い気持ちを軽くした。
 俊豪(チンハオ)には私よりも幼い妹がいるとかで、話を聞くのが上手い。二度、三度と顔を合わせるうちに、私も次第に気をゆるすようになり、いつの間にか悩み事まで話すようになっていた。
 もちろんその頃には、自分が公主であることもすっかり打ち明けていた。

雹華(ヒョウカ)公主様、またいらしてたんですか」

 そう言って笑ってくれるその人を、頼りにするようになったのはいつ頃からか。気づけば、顔を見るだけでほっとするようになっていた。
 ――思えば、この頃にはもう、彼も目をつけられていたのかもしれない。けれど、そんなことは、この頃には思いもよらなかった。
 燕昭儀(イェンしょうぎ)が身重になったと言う話を聞いた頃には、とうとう耐えられなくなって、私は彼に全てを話してしまった。

雹華(ヒョウカ)公主様、どうぞこの俊豪(チンハオ)にお任せください」

 そう請け負ってくれた彼。彼の姿を――それ以降見ることはなくて――。

 そうして、再び彼に会えた時、澄んだ瞳をしていた青年の目は、赤く濁って、それが私の記憶の最後。そして――

◇◇◇

 赤い瞳と視線が合って、花琳(ファリン)は叫び声を上げた。

「う、あ、あっ……!」
花琳(ファリン)、おい、花琳(ファリン)!?」

 頭が割れるように痛い。自分が何者なのか、今どこにいるのか、声の主は誰なのか――。いえ、私はこの声を知っている。

劉帆(リュウホ)にいさま……』
「!? ……っ、おい、花琳(ファリン)花琳(ファリン)!」

 違う、この声は。

「あ、哉藍(セイラン)様……」

 うっすらと目を開くと、そこにいたのは紅髪金眼の青年だった。けれど、それがすぐに哉藍(セイラン)だとわかる。花琳(ファリン)がそう呟くと、彼はほっとしたように息をついた。
 それから、頬をそうっと撫でられる。ひんやりとした感触に、花琳(ファリン)は思わず肩を震わせた。

「大丈夫か、どこかおかしなところはないか」
「え? あ、ええ……」

 気づいた直後には割れるように痛かった頭も、不思議な自己喪失感もすっかり消えている。けれど、気を失っている間に観た内容は頭の中に残っていて、ぽろりと涙が目からこぼれた。

「大丈夫だ、もう」
哉藍(セイラン)様……」

 今更ながらに気づいたが、今いるのは屋外ではないようだった。はっとして周囲を確認すれば、哉藍(セイラン)花琳(ファリン)を抱え込んで(トウ)に腰掛けている。どうしてそんな体勢なのかと言えば、それは花琳(ファリン)がしっかりと彼の袍にしがみついて離れないからのようであった。
 ひえっ、と小さな叫び声を上げた花琳(ファリン)はぱっと手を離した。

「こっ、こっ……」
「ああ……ここは俺の部屋だな。さすがに変装したままのきみを抱えては戻れないし……俺もまあ、この姿では」

 慌てすぎて言葉にならない花琳(ファリン)の疑問に、哉藍(セイラン)は肩をすくめてあっさりと答えた。それから、もう一度花琳(ファリン)の顔を覗き込んでくる。冷たい指が頬を撫でて、溢れた涙を拭った。
 それから、困ったように眉を下げると「さて」と小さく呟いた。

「何かを、視たんだな?」

 問いかけに頷けば、大きなため息が降ってくる。花琳(ファリン)が身をすくませると、彼は「いや、きみは悪くない」とうっすら微笑んだ。

「なにから話をするべきか……それとも、きみにはもう全てわかっているのかな」

 花琳(ファリン)は小さく首を振った。わかるようでわからないことの方が多い。
 けれど、これだけは確認しておかなければならなかった。

哉藍(セイラン)様は……皇太子殿下の、弟殿下であられるのですね?」
「ああ、双子の弟になる」

 そうか、と花琳(ファリン)は小さく息を吐き出した。先ほどまで見ていた記憶の主は「雹華(ヒョウカ)公主」。あの亡霊が雹華(ヒョウカ)公主なのだろう。目を閉じて、心を落ち着かせる。
(間違いないわ)
 花琳(ファリン)の視たものが現実だという証拠はまだ何もない。自分自身、初めての経験だ。
 けれど、不思議と花琳(ファリン)には――あれが真実だということが理解できていた。
 それはつまり、異母兄・俊豪(チンハオ)の行方も。
 ぶるぶると首を振って、滲んだ涙をどうにか散らす。
 花琳(ファリン)だって、ひよっことはいえ道士の一員だ。最後に見た俊豪(チンハオ)の赤い目が何を意味するかは知っている。
 ぐっと拳を握り込み、奥歯を噛み締める。一呼吸置いて荒れた心を落ち着けると、花琳(ファリン)は視線を上げて哉藍(セイラン)の金の瞳をじっと見た。

「皇太子殿下に会わせてください」
「……わかった」

 とりあえず、身支度をしてからだな、と呟くと、哉藍(セイラン)は苦い笑みを浮かべた。