自分の目で見たものだというのに、信じられない。花琳(ファリン)は小さく首を振ると、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
 けれど、目に映る姿は変わりなく、それどころかかえって不思議な――あるべきものをあるべき姿で見た、という確信ばかりが大きくなる。震える手で、ぎゅっと彼の袍を掴むと、哉藍(セイラン)の身体がぎくりと強張った。

「どういう……こと……?」

 声が震える。
 どういうこともこういうこともない。自分でもわかっていたけれど、問わずにはいられなかった。だって、この後宮で、皇太子の宮たる瑠璃宮にいる皇族男子といえば、心当たりは一人だけだ。
哉藍(セイラン)様が皇太子殿下なの? なぜ、何も教えてくれずにこんなことを?)
 いろいろと聞きたいことがあるはずなのに、喉が凍ったようにそれ以上の言葉が出てこない。哉藍(セイラン)もただ黙ったまま、迷うような光を金色の瞳に浮かべている。
 もとより、哉藍(セイラン)花琳(ファリン)に全てを話す必要などどこにもありはしない。けれど、それでも――。
 そこまで考えた時、ぴりっと指先に痺れが走った。んっ、と小さく声を漏らした瞬間、視界が再び広がる。竹林の中に、青白い襦裙(じゅくん)、白い被帛(ひはく)をたなびかせる黒髪の女性の姿が、ふうわりふわり、まるで踊っているかのように漂っている。

哉藍(セイラン)様……!」

 そう、花琳(ファリン)が声を上げた瞬間。
 亡霊と目が合った。

「っ、あ、ああああっ……!?」
「ふぁ、花琳(ファリン)……っ、どうした、おい!」

 流れ込むものに耐えきれず、花琳(ファリン)は大声で叫ぶと哉藍(セイラン)の胸元に縋りついた。熱い、暑い。
 汗がどっと溢れ、目の前がチカチカする。どうにかしてこれを彼に伝えたいのに、凍りついたように言葉が出てこない。

「っ、あっ……」

 だめだ、引き摺り込まれる。真っ白な被帛が翻るのと同時に、花琳(ファリン)の意識は跳んだ。

◇◇◇

『物心ついた時には、彼らが側にいた』

 声が聞こえる。真っ白な光の中に飛び込んだような気がしたのに、今はなんだか薄暗い。ここはいったいどこだろう、と思ったが、見回してみても見覚えがない。
 綺麗に整備された庭は――そう、李徳妃がいつも気を配って整えさせていたのだった。なんで忘れていたんだろう。いいや、そんなことは私は知らない。

 ――記憶が混じる。

 まるで泡沫のように、弾けた記憶が流れ込んでくる。目の前に誰かがいるのが見えて、はっとした。あれは。

『――あれは、私の話をいつもきいてくれるにいさま』

 くっきりと姿を表した紅髪金眼の少年が、優しく微笑む。面影を宿した彼が誰なのか、わかるようでわからない。ううん、これは――。

劉帆(リュウホ)にいさま」
「ああ、雹華(ヒョウカ)

 そうだ、この人は異母兄の劉帆(リュウホ)にいさま。私は、彼のことが大好き。いつも優しく話を聞いてくれるから。母様は嫌い。全然話を聞いてくれないし、にいさまに近寄るなって言うから。
 けれど、徳妃様はお優しいから、私が遊びに行くといつもにいさまたちと遊ばせてくれる。温かくって優しくて幸せの気配がするここが、私は好き。
 近寄ろうとすると、ざざ、と視界が揺れて、こちらに手を差し出している彼の姿がブレる。くらりと揺れた視界に再び姿が映った時には、彼はもう少し成長していた。おそらくは、十四、五歳。
 ――にいさまは、もうじき立太子されるのですって。そうしたら、早々とお妃を迎えることになるのだから、お邪魔をしてはダメよと母様が言うの。でも。

「ほら、おいで」

 優しく笑ってくれるから、大丈夫でしょう?
 私はにいさまが大好きだし、にいさまだって私のことが好きだとおっしゃってくれる。だから、大丈夫。
 お妃なんていらないわ。だって私がいるんだもの。ねえ、にいさま。
 じじじ、とその姿がぶれて、一瞬目を閉じる。もう一度開いた時には、すでに予想していた通りに成長したにいさまが目の前にいる。おそらく、年齢は十七か八。ちょうど、立太子されて、少しお忙しくなった頃。ふわり、と白の被帛を被せてくれて、にこりと微笑むにいさまの精悍な横顔に、心臓がどきどきする。

「大したものではないけれど、誕生日の祝いに贈るよ」
「ありがとう、にいさま」

 頬が熱い。にいさまもきっと、私と同じ気持ちでいてくださるのよね。だってほら、こうしてお側にいれば優しく笑ってくださって、気にかけてくださるもの。
 瑠璃宮にお邪魔しても、やっぱり優しく迎えてくださる。
 もう一人のにいさまとは、大違い。
 なのに、なのに……!

「大家は、雹華(ヒョウカ)様のお輿入れ先をお考えになってくださっているようですよ」
「輿入れ……?」

 女官から聞かされた言葉に愕然とする。
 うそよ、うそうそ。私は、だって、にいさまと……。にいさまだって、きっと……。
 そう、信じていたのに。
 走って走って、にいさまの住む瑠璃宮まで走って――。

「そうだね、雹華(ヒョウカ)もそろそろ考える時期だものね」

 うそだ。
 劉帆(リュウホ)にいさまが、そんなこと言うわけないわ。だって、にいさまだって私のことが好きでしょう? 私、結婚するならにいさまじゃなきゃ嫌……! にいさまだってそうでしょう……?
 そう問えば、劉帆(リュウホ)にいさまは寂しげに笑ってこう言った。

雹華(ヒョウカ)……僕らは、母は違えど父を同じくする兄妹だよ。結婚はできない」
「そんな……だって……」

 目の前が真っ暗になったような心地がする。だから近づくなと――母様はこれを予見していたのだろうか。
 それでも、今更にいさま以外の人に嫁ぐなんて考えられない。

『だから私は――あの人の甘言に乗ってしまった』

 だって、あの人の言う通りになったから。
 あの人の言う通りにしたら、輿入れ先を決められそうになったちょうどその頃、徳妃様――劉帆(リュウホ)にいさまのお母様――が亡くなって。皇帝陛下の一番の寵妃でいらしたから、その嘆きようは大変なもので。
 当然、私の輿入れの話などどこかに吹き飛んだ。願い通りに。
 ――私はただ、あの人からのお届けものの花をお渡ししただけよ。違う、知らない。私のせいじゃないの。

『そう、私は何も知らずに――』

(――本当にそうなの?)
 本当よ!
 耳を塞いで、首を振って。私はにいさまの元へ行く。けれど、やつれた顔をしたにいさまたちは、私のことなど見もしない。
 恐ろしい心地がするけれど、それを話せるはずもない。

「にいさま……」

 それからしばらくして、父上様――皇帝陛下のおそばには、常にあの人が侍るようになった。
 燕昭儀(イェンしょうぎ)
 言う通りにすれば、私の願い通りになると――そうする術を知っていると囁いた女。

(――気づいたんでしょう?)
 気づいていたわよ!
 私はとんでもないことをしでかしたのだ。気づいて、足が震え、目が回る。そんな偶然が起きるわけがない。
 今になってみれば、どうしてあんな女の言うことを素直に聞いてしまったのかわからなかった。どう考えても、信頼するに足りる人ではないのに。
 あのお花を受け取った時、燕昭儀(イェンしょうぎ)と一緒にいた青年。年若い宦官と思っていたが、あれから姿を見たことがない。にやにやと笑う顔に嫌なものを感じたのに、あの時は自分のことしか考えられなかった。なにか、甘い匂いに頭がくらくらして。
 おそらく、徳妃様に差し上げた贈り物には、なにかよからぬ仕掛けがあったのだ。
 私が、あのお方の死に、手を貸したのは間違いない。
 恐ろしくて震えが止まらない。けれど、あの人の思い通りにばかりさせておけない。
 ――彼に出会ったのは、そんな時だった。