游桜綾(ユウ ヨウリン)、といえば、名門貴族(ユウ)家の末娘。道士としても名高い(ユウ)家当主の才を受け継ぎ、希代の天才と謳われた人物である。
 だが、それを花琳(ファリン)が知るのはもう少し後の話。
 その時聞かされた話によれば、桜綾(ヨウリン)花琳(ファリン)の母と親交があったらしい。その縁もあって、噂を聞きつけた桜綾(ヨウリン)花琳(ファリン)を迎えに来てくれたのだそうだ。
 花琳(ファリン)は最初こそ、異母兄を待つためにはここにいなければ、と断った。だが、桜綾(ヨウリン)は辛抱強く花琳(ファリン)を説得した。

「馬鹿を言うんじゃないよ。生きてなきゃ、待つことだってできやしない。ここにいては、早晩おまえさんは死んでしまうよ」

 そう桜綾(ヨウリン)に諭されなければ、花琳(ファリン)は今生きていなかったかもしれない。そうして、(ユウ)家の別邸に連れてこられた花琳(ファリン)は、改めて桜綾(ヨウリン)に頭を下げられた。

「すまなかったね……私がもっと早く気付いていれば……」
「いえ……そんなことは……」

 骨と皮ばかりのような花琳(ファリン)の手を握って、桜綾(ヨウリン)は涙を浮かべていた。その日のことを思い出すと、花琳(ファリン)の心に暖かな火が灯る。
 いくら異母兄の帰りを信じていても、やはり十五歳の少女である花琳(ファリン)にとって、(レイ)家での仕打ちは心身を弱らせていた。そこへ、こうも優しくされれば、張っていた気も緩む。
 気づけば花琳(ファリン)の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれていた。そんな花琳(ファリン)を、桜綾(ヨウリン)がぎゅっと抱きしめてくれる。その身体の柔らかさ、温かさに、花琳(ファリン)は母のことを思い出し、縋り付いて号泣した。
 そうして、安心したせいか――その日はそのまま気を失ってしまったのである。気付けばかわいらしい装飾のされた牀榻(ショウトウ)に寝かされていて、花琳(ファリン)が仰天したのも今では笑い話だ。
 最初の半年ほどは花琳(ファリン)の身の健康を取り戻すため療養生活を送ることになった。桜綾(ヨウリン)もさすがにその間は、酒もほどほどにしてあれこれと気を使ってくれたものである。
 その甲斐あってか、半年も過ぎるころには花琳(ファリン)はすっかり健康を取り戻していた。
 そのころになると、自然と桜綾(ヨウリン)が道士であること、そして名門の娘でありながら都のはずれにある別邸で暮らしている理由を知ることになる。
 道士といえば食事は精進潔斎し、獣肉を食べることや酒を嗜むことは禁じられているのが普通だ。けれど、桜綾(ヨウリン)は獣肉を好み、酒を好んだ。
 当主である父に何度いさめられても生活態度が改まらず、かといって破門をするにはその才が惜しい。仕方なく、半ば追い出したような体裁を繕ってこの別邸に住まわせているのだという。
 まあ、道士としてだけでなく貴族の子女としても相当な「変わり者」だ。
 けれど、花琳(ファリン)にとっては桜綾が変わり者かどうかなど、どうでもいいことだった。それよりも重要なのは、彼女が道士である、という一点であった。
(道士様なら、にいさまの行方を術で調べることができるかも……)
 異母兄の失踪から、この時すでに二年近くの時が過ぎようとしていた。桜綾(ヨウリン)のもとで過ごしながらも、花琳(ファリン)が彼のことを忘れたことはない。
 さすがにこのころになると、異母兄が自分から帰ってくることは難しい状況に立たされているのだろう、という予想はつく。
 できれば異母兄の行方を捜しに行きたい。けれど、それが無理なこともまた事実。
 桜綾(ヨウリン)の道術で探せるものならば、探して欲しいのが本音だ。
 しかし、花琳(ファリン)は一文無しで、桜綾(ヨウリン)に養われている身である。道士である彼女に捜索を依頼するための金銭など、出せるはずもない。
 もちろん、桜綾(ヨウリン)花琳(ファリン)に対価を求めるとは思わない。けれど、恩人とあがめる桜綾(ヨウリン)に、これ以上何かを頼むのは、さすがに憚られる。
 それに――できれば花琳(ファリン)は、自分の手で異母兄を探し出したかった。俊豪(チンハオ)は、今となっては唯一の肉親である。その彼に何があったか、今どうしているか。それを自分の手で確かめないことには、きっと納得できない。
 そんな折である。(シュウ)夫人のもらした何気ない一言が、天啓のように花琳(ファリン)の耳には聞こえたのだ。

「最近、とうとう桜綾(ヨウリン)様に弟子入り志願する人もいなくなっちまったねえ……」
「えっ……桜綾(ヨウリン)様、お弟子がいたことがあるの……?」

 厨房で芋の皮むきを手伝っていた花琳(ファリン)は、その言葉に目を瞬かせた。
 なにせ、桜綾(ヨウリン)は道士としてはありえない生活態度の人間だ。このころには花琳(ファリン)もそれを知っていた。とてもじゃないが、そんな桜綾(ヨウリン)にわざわざ弟子入りしたいと思う人間がいるとは思えない。
 しかし、(シュウ)夫人はからからと笑うと、理由を教えてくれた。

「あれでも桜綾(ヨウリン)様は、腕は間違いないし……それに、(ユウ)家の娘でいらっしゃる。弟子入りしたいやつらの狙いは、道士になることじゃあなくて、桜綾(ヨウリン)様さ」
「ああ、なるほど……婿入り志願というわけね」

 (シュウ)夫人は大きく頷くと、今度は大げさに嘆いて見せた。

桜綾(ヨウリン)様は美人だし、家柄もいいというのに……。とんといい話も聞かないし、最近じゃあとうとう婿になりたいというお人も現れなくなっちまって……。このままじゃ、いかず後家になっちまうよ……」

 首を振って、(シュウ)夫人は最後には「あの生活態度さえまともならねえ」と呟いて大きなため息をもらした。けれど、花琳(ファリン)の脳内ではそんなことよりも「弟子」という言葉がちかちかと点滅している。
(これだわ……!)
 弟子。そういう道があるのか……!
 桜綾桜綾(ヨウリン)に頼むのが気が引けるのならば、自分が道術を身に着けて異母兄を探せばいいのである。名案だと喜び勇んだ花琳(ファリン)は、その足で桜綾(ヨウリン)の元へと向かった。

桜綾(ヨウリン)様、私を弟子にしてください!」
「な、なんだい藪から棒に……」
「お願いです……!」

 花琳(ファリン)は、そう言うと桜綾(ヨウリン)の前で平伏した。突然のことに目を白黒させる桜綾に、なおも弟子にしてくれと頼みこむ。
 しばらくして、はあ、と小さなため息が頭上に落ちた。
(だめ……なのかな……)
 いくらなんでも突然すぎただろうか。けれど、花琳(ファリン)にはもう「これしかない」と思ったのだ。
 ぎゅっと目をつぶり、頭を床に着くほどに下げて、花琳(ファリン)はじっと桜綾(ヨウリン)の答えを待った。
 それから、どれほどの時間が経ったのか。それが長かったのか短かったのかもわからない。ただ、手がじっとりと汗ばんで、自分の息が少しだけ上がっているのを感じる。
 はあ、と再度ため息がこぼれる音がして、それから桜綾(ヨウリン)が立ち上がったのか、衣擦れの音がした。
 爪の先が手のひらに食い込む。それくらいぎゅっとこぶしを握ってしまっていることに気付いて、小さく息を吐く。

「本当は……おまえは早いところいい人を見つけて、結婚した方がいいと思うんだけどねえ……」

 それは、ここに来てから幾度となく言われた言葉だ。小さく息を飲みこんで、花琳(ファリン)は黙って言葉の続きを待つ。

「……弟子となったら、私の身の回りの世話一切をやらせることになるよ」
「……! は、はい!」

 花琳(ファリン)は、がば、と顔をあげて桜綾(ヨウリン)を仰ぎ見た。その視線の先で、仁王立ちした彼女は仕方なさそうに微笑んでいる。
 その表情を見て、花琳(ファリン)は「やったぁ!」と叫ぶと飛び跳ねて喜んだ。

「これも、血ってやつかねぇ……」

 小躍りして喜んだかと思えば、机の端に足をぶつけて涙目になっている少女を見つめながら、小さな声で桜綾(ヨウリン)が呟く。
 だが、それは花琳(ファリン)の耳に届く前に、空に溶けて消えた。

 こうして、花琳(ファリン)は齢十五にして道士の弟子となったのである。