――時は少し遡る。
 游桜綾(ユウ ヨウリン)は後宮で与えられた自室で、水を張った(たらい)を見つめてため息をついた。
(まったく尻尾を掴めないな……)
 手を横凪ぎに払うと、それまで水盥の表面に浮かんでいた景色が霧散して、小さな波がたつ。その盥をそのままにして牀榻(ショウトウ)に飛び込むと、桜綾(ヨウリン)は疲れた目を休めるために目を閉じた。
 後宮に来てから、気づかれないようずっと気を張っている。進展が何もないことに焦れているのは、何も花琳(ファリン)一人ではなかったのだ。
 はあ、と小さく息を吐いて、桜綾(ヨウリン)はむくりと体を起こした。酒だ、酒を飲まなければ。
 部屋の隅に置いてある(かめ)の蓋を外して、桜綾(ヨウリン)は立ち上る香りに目を細めた。
 後宮に来て良かったことの一つは、この酒だ。甕から器に移した透明な液体を一息に煽って、桜綾(ヨウリン)はふう、と息を吐く。
(あー、しみるわぁ……)
 さすがに市井で求めるよりも上等な酒が揃っている。これは哉藍(セイラン)に持ってこさせたものだが、厨房に頼むだけでも段違いに良い酒を届けてくれる。にんまりと、桜綾(ヨウリン)の口の端があがった。
 一口で頭の芯が冴え渡るようだ。精神が研ぎ澄まされていくのがわかる。視界が倍に広がったような感覚がして、桜綾(ヨウリン)は再び牀榻に身を投げ出した。仰向けになってぎゅっときつく目を閉じる。
 暗く閉ざされたはずの視界に、何かが見える。酒のおかげで感覚が鋭敏になった桜綾(ヨウリン)は、その「何か」をもっとよく見ようと精神を集中した。
 ふわりと、その「何か」がはためいた、その奥に。

「――っ!」

 カッと目を見開いた桜綾(ヨウリン)は、飛び起きるとそのまま部屋を飛び出し、廊下の手すりを飛び越えて外に出た。胸元に手を差し入れると、札を取り出して息を吹きかける。
 何枚あったのかは定かではないが、その全てが小さな鳥の姿に変じると桜綾(ヨウリン)の手から飛び立った。

「くそ、どこだ……!」

 美しい顔に似合わぬ乱雑な言葉が唇からこぼれる。ぎり、と歯を食いしばると、桜綾(ヨウリン)は暗い後宮の庭園の中を灯りも持たずに走り始めた。
 息が切れる。チリチリと指先が焼けるような感覚がするのは、おそらく放った式が焼き切れた証拠だ。奥歯を噛んで、喪失の痛みに耐える。思っていたよりも、相手は力があるようだ、と桜綾(ヨウリン)は考えて、その己の考えの傲慢さに少しだけ笑いが漏れた。
 ――どれくらい走っただろうか。何かに引き寄せられるように、桜綾(ヨウリン)は瑠璃宮を囲む塀の西の門あたりへと辿り着く。見事な竹の林が夜の風に吹かれ、さやさやと音を立てていた。空を見上げれば、三日月よりも少しばかりふっくらとした姿の月が、静かな光を地上に注いでいる。
 たったそれだけの、よくある夜の光景。だというのに、桜綾(ヨウリン)の背筋になにかぞわぞわと悪寒のようなものが走った。
(なんだ、これは……)
 本能的に何か良くないものを感じて、我知らず桜綾(ヨウリン)は二の腕をさすった。だが、背筋を這う悪寒はますます強くなり、桜綾(ヨウリン)に「この場から離れろ」と警告してくる。
 甘い匂いが鼻について、胃の腑からなにかがせりあがってきそうだ。
 だが――。

「なっ……」

 後宮と瑠璃宮を隔てる塀の上に、気づけば一人の男が立っていた。それが視界に写り、桜綾(ヨウリン)の身が硬直する。
 弱々しい月の光の下だと言うのに、なぜかその男の顔ははっきりと見えた。
(……黎俊豪(レイ チンハオ)……!)
 思わず大声を出しかけて、しかし桜綾(ヨウリン)はすんでのところで口を押さえた。月明かりに照らされた俊豪(チンハオ)――と思しき男――の目。それは、妙に赤黒く濁って見える。
(そんな、まさか……)
 ふるり、と体が震えた。しかし、先だってから感じる悪寒も危機感も甘い匂いも、桜綾(ヨウリン)の推測を後押しする。
 この時桜綾(ヨウリン)の頭の中をちらりとよぎったのは、心細げに笑う花琳(ファリン)の顔だった。絶対に兄は帰ってくる――そう信じていると儚げに笑った弟子の顔。
 だが、桜綾(ヨウリン)には――いや、道士であればおそらく誰もが理解できるだろう。あの目は。
 一瞬体を硬直させた桜綾(ヨウリン)の視線の先で、俊豪(チンハオ)はひらりと身を翻すと、塀の上を走り始める。はっとした桜綾(ヨウリン)は、すぐにその後を追うようにして走り出した。だが、相手の速度が尋常ではない。このままではすぐに引き離されてしまうだろう。
 胸元から取り出した札に息を吹きかけ、足に貼る。これならば、あの早さについていけるはずだ。
 ひらひらと、まるで踊るような足取りで駆けていく男を追いながら、桜綾(ヨウリン)は滲む汗を拭った。
 やがて、男は音もなく塀の反対側へと飛び降りた。追っていた桜綾(ヨウリン)も、ひらりと飛び上がると、後を追って飛び降りる。すでに瑠璃宮の区画から離れ、後宮の中でもかなり端まで来てしまっていた。

「こんなところに……?」

 首をかしげた桜綾(ヨウリン)の視界に、どこか寂れた雰囲気の建物が映る。ふと既視感を覚えた桜綾(ヨウリン)がその記憶をたどるより先に、追っていた俊豪(チンハオ)がその建物の中に入っていった。
 ならば、ここにいるのだろう――俊豪(チンハオ)を操っている人間は。
 屍鬼術(しきじゅつ)
 あの目の赤さ、そして甘ったるい香の匂い。あれは、邪法である屍鬼術だ。
 道士たちの中で、語り継がれはするものの実際の手法は失われたと――いや、抹消されたと言われる術。その名の通り「屍を鬼として操る術」だ。
 それを操る外道者が、ここにいるのだ。なぜなら、伝承が正しければ屍鬼を操る者はその側からそれほど離れられないはずだから。
 その術を俊豪(チンハオ)がかけられているということは、桜綾(ヨウリン)にとって、また花琳(ファリン)にとって最悪の事態が起きていることを意味していた。
 疼く胸を押さえ、そっと格子窓から中を覗く。あたりに充満する甘い香りは堪え難いほどになっていて、こめかみから鈍い痛みがし始めていた。だが、見なければ。
 あの子達を守るためには、ここが踏ん張りどころだ。
 薄暗く、月の光さえ届かない室内には、先ほど追ってきた俊豪(チンハオ)の他にもう一人――男がいるようだった。この角度からでは、視力を強化している桜綾(ヨウリン)でもその顔を確認できない。
 ざあ、と一際強い風が吹いて流したままの桜綾(ヨウリン)の髪が乱される。それに一瞬きを取られた桜綾(ヨウリン)は、再び窓の中に視線を戻して息を呑んだ。

羅俊熙(ラ ジュンシー)……?」

 中で何が行われているのか、座り込んだ俊豪(チンハオ)の顔を覗き込んでいる男の顔がこちらからはっきりと見えた。思わず息を呑む。それは見覚えのある顔だった。なぜなら彼は、一時は桜綾(ヨウリン)の兄弟子として、父の教えを受けていた人物だからだ。
 なんなら、父は桜綾(ヨウリン)の婿として彼を考えていた節もある。それが叶わなかったのは、当人がそれを拒んだこともあるが――。
(本当に、ものにしたのか……)
 一番の理由は、この屍鬼術に傾倒してしまったからだ。そのため、父の怒りを買い破門されたのである。
(まずい……)
 あの男は、花琳(ファリン)のことを知っているはずだ。その母親のことも、その血のことも。
 踵を返そうとした桜綾(ヨウリン)の足が震え、ぎしりと床板が音を立てる。は、と小さく桜綾(ヨウリン)が息を吐くのと、背中から声がかけられるのは同時だった。

「おや、どんなかわいらしい鼠かと思えば……游家のお嬢様じゃないですか」
俊熙(ジュンシー)…!」

 振り返って、桜綾(ヨウリン)は改めてゾッとした。父に破門されて以来顔を合わせていないのに、なぜ一目で彼が羅俊熙(ラ ジュンシー)だとわかったのか。その理由をまざまざと突きつけられて。
 俊熙(ジュンシー)は、あの頃からほとんど成長していない。桜綾(ヨウリン)より十は歳が上だったはずだが、今では桜綾(ヨウリン)の方が年上に見えるほどだ。
(人の理を外れたか……)
 屍鬼術――邪法に身を落としたからこそ、彼は人としての生を外れてしまったのだ。
 腕が伸びてくる。冷たい手のひらに腕を掴まれ、桜綾(ヨウリン)の体がびくりと跳ねた。

「ここまで見られてしまったからには、帰せませんね」
「何を……」

 口元に笑みを浮かべた俊熙(ジュンシー)の表情から、桜綾(ヨウリン)は自分が罠に嵌められたことを悟った。

◇◇◇