異変が起きたのは、その翌朝のことだった。いつもなら朝のうちに一度は顔を見せるはずの桜綾(ヨウリン)が姿を見せなかったのだ。
 だが花琳(ファリン)は最初、きっと久しぶりにお酒を飲みすぎたのだろう――そんなふうに軽く考えていた。小さく肩をすくめた花琳(ファリン)はため息混じりに自分で茶を入れると、机の前に座り込んで考え事を始めた。
 本当なら、昨夜起きたことを全て桜綾(ヨウリン)に話してあれがなんだったのか相談したいところだ。けど、と花琳(ファリン)は書き物机の上に肘をついて格子窓の外を眺めながらため息をついた。
 哉藍(セイラン)の様子からして、あの衣の主に心当たりがあるのは間違いない。だが、それをあえて口にしなかったということは、なんらかの事情があるのだろう。
(本当は、哉藍(セイラン)様に話を聞いた方がいいんだよね……)
 亡霊かどうかはわからない、と言ったのは本当だ。実際、衣が空を舞っているというのは異常には違いない。しかし、昨夜口に出せなかった可能性のいくつかに思いを巡らせて、花琳(ファリン)はまた物憂げな視線を格子窓の外に投げかけた。
 ただの悪戯好きの妖の仕業、ということもありえる。もしくは――と、もう一度小さなため息をついて、花琳(ファリン)はその可能性に思いを巡らせた。
(道術の可能性もあるのよね……)
 何も難しい術ではない。衣を浮かせて舞わせるくらいなら、初心者道士の花琳(ファリン)にだってできる。目的だってこんな風に考えられるだろう。亡霊の噂を流して他の候補者を追い出そうという心算、だとか。
 でも、こんなこと――桜綾(ヨウリン)が全く考えていないとは思えない。もしかしたら自分は何か、重要なことを見落としているのではないだろうか。なんて。
(こうやって、あれが亡霊でない可能性ばかり考えてしまう……)
 きゅう、と胸がうずいたような気がして、花琳(ファリン)は胸元に手を当てた。
 わかっている。あれが亡霊であってほしくないと花琳(ファリン)は思っているのだ。だって――。
哉藍(セイラン)様が、あんな顔をなさるから……)
 はあ、とため息ばかりが唇からこぼれる。雑念ばかりで、考えがちっともまとまらない。
 湯呑みに触れれば、まだ一口も口をつけていない茶がすっかり冷めているのがわかる。仕方なくそれを飲み干すと、花琳(ファリン)は重い腰をあげて桜綾(ヨウリン)の部屋へ様子を見に行くことにした。だが――。

「あれ……?」

 桜綾(ヨウリン)に与えられた部屋は、花琳(ファリン)のものよりもだいぶ狭い。だが、その設えは哉藍(セイラン)が準備してくれたもので、居心地よさそうに整えられている。侍女としては破格の扱いだ。その室内を見回して、花琳(ファリン)は疑問の声を上げた。
 てっきり、いつものように(とはいえ、後宮に来てからはすっかりなりをひそめていたけれど)二日酔いでぐったりしているとばかり思った桜綾(ヨウリン)の姿がない。寝具も綺麗に畳まれたままだ。まるで、昨晩ここで眠らなかったかのように。
(……まさかぁ)
 自分の思考にぞっとして、花琳(ファリン)は小さく頭を振った。眠らなかった、なんてそんなことはない。きっと朝きちんと起きて、そうして片付けていったのだ。
(けど、じゃあなんで私のところに姿を見せなかったの……?)
 ぞわぞわと嫌な予感が背筋を這いあがってくる。足に力が入らなくなって、花琳(ファリン)はぺたん、とその場にへたり込んだ。握りしめた指先が冷たい。
 こんな時、どうしたらいいのかわからない。
 脳裏に、同じような光景が蘇って、花琳(ファリン)はぎゅっと目を閉じた。
(あの時と、同じだ……)
 畳まれたままの――使われなかった寝具。それ以外は、いつも通りの部屋。
 不安を抱えながら、幾日も帰りを待った日々。

「やだ……師匠、やだ……うそでしょう……」

 後宮は、許可なしには入ることも出ることも叶わない場所。人が忽然と姿を消すなんて、そんなことがあるわけがない。
 きっと、しばらく待っていれば何事もなかったかのように帰ってきて、花琳(ファリン)の情けない姿を見て笑ってくれる。
 床にうずくまったまま、花琳(ファリン)はじっと桜綾(ヨウリン)が帰ってくるのを待ち続けた。



「……なにをしておるのだ、こんなところで、明かりも着けず……」

 カタン、となった格子戸にはっとして顔をあげた花琳(ファリン)の耳に聞こえたのは、もう何度も耳にした低音。いつの間にかうたた寝をしていたものらしく、周囲はほんのりと暗くなってきていた。慌てて振り返ると、そこには夕暮れの空を背景にした哉藍(セイラン)の姿がある。

哉藍(セイラン)、様……」

 思わず潤みかけた目を乱暴に擦って、花琳(ファリン)は無理矢理に笑みを浮かべようとした。けれど。

「お、おい……どうした、何が……ああ、ほら……」

 珍しくおろおろした声を出した哉藍(セイラン)が、手にした手巾で目元を拭ってくれる。それが瞬く間に湿り気を帯び、少しだけ濃く色を変えた。それをみて初めて、花琳(ファリン)は自分が涙を流していることに気が付いた。あれ、と小さく呟いたものの、ぽろぽろと流れる涙は止まらない。ひっく、としゃくりあげてから、花琳(ファリン)は慌てて哉藍(セイラン)の手を押しのけた。

「あ、あれ、やだな……すみません、哉藍(セイラン)様」

 そう呟いて、もう一度ごしごしと目元を擦る。すると、彼は慌てたように「こら、それでは赤くなってしまう」ともう一度手巾を押し当ててきた。
 ほのかにいい香りがする。それが、先日抱きしめられた時と同じ匂いだと気づいて、急に花琳(ファリン)の心臓がどきりと音を立てた。急に涙まみれの――もしかしたら鼻水も出ているかもしれない――そんな顔をさらしているのが恥ずかしくなってくる。

「ちょ、ちょっと待って……」
「おい? お、おい、花琳(ファリン)……」

 頭がぐちゃぐちゃだ。不安と安堵と、気恥ずかしさとが入り混じって、なんだか頭が良く働かない。小さく息を吐いた瞬間、ぐらりと身体が傾いた。慌てて体勢を立て直そうとしたがうまくいかず、倒れそうなところを哉藍(セイラン)が抱き留めてくれる。

「あ、ごめ……」

 その言葉を最後に、花琳(ファリン)の目の前がうす暗くなってくる。胃の奥がじんわりと疼痛を訴えて、そう言えば今日は一日何も食べていなかったことを思い出した。
(お腹すいた、だけですから……)
 耳元では、花琳(ファリン)の名を懸命に呼ぶ哉藍(セイラン)の声がしている。それに答えようとしたが、声にならない。そのまま花琳(ファリン)の意識は、ゆっくりと闇の中に沈んでいった。