――その夜。
 花琳(ファリン)は部屋に戻る桜綾(ヨウリン)を見送った後、こっそりと部屋を抜け出した。手には小さめの提灯を持ち、簡素な襦裙(じゅくん)に身を包んで足音を忍ばせて歩く。
(ごめんなさい、笙鈴(ショウリン)様……)
 一心に慕ってくれる小さな姫君の姿を思い出すと、心が少しばかり痛まないでもない。目的を果たせば、花琳(ファリン)はここを去るからだ。けれど、花琳(ファリン)が本来やるべきことは――この後宮に現れる亡霊を探し出し、祓うこと。
(まあ、実際祓うのは師匠だけど)
 ここから彼女を出してやることは、花琳(ファリン)にはできない。だからせめて、笙鈴(ショウリン)の心の安寧だけでも手に入れてやりたい。
 偉そうな態度とは裏腹に、笙鈴(ショウリン)は時折花琳(ファリン)にしがみつき、離れないことがあった。ただ甘えているだけかと思っていたのだけれど、今日ようやく理解した。
 あれは、彼女が不安を覚えた時の仕草だ。あの黒い靄は、おそらくその不安が具現化したものだろう。
 最も、なぜ自分にそれが見えるのか、花琳(ファリン)にもわからないのだけれど。
 笙鈴(ショウリン)の不安の原因のひとつは、おそらく亡霊だろう。もっとも、一番根深いのは家族と引き離されたことだと思うけれど……。
 小さくため息をつき、頭を一つ振る。こればかりは、花琳(ファリン)の力の及ばぬこと。であれば、自分の力の及ぶ範囲で彼女の助けになってやらなければ。
 花琳(ファリン)は注意深く足音を忍ばせながら、殿舎の外を人に見つからぬよう進んでいく。目指すは、笙鈴(ショウリン)の住む部屋の近くだ。
(まずは、あの付近から……一番可能性が高いはず……)
 よくよく目を凝らしながら、小さな灯りを頼りに歩いていく。だんだんと目が慣れてきたのか暗いばかりだった周囲がほんのりと見通せるようになった頃、殿舎の隅にうごめく人の姿を見たような気がした。
(うそ……こんな早く見つけられるなんて……?)
 こんな深夜に出歩く人もおるまい。自分を棚に上げ、花琳(ファリン)は急く心を押さえてじりじりと忍び寄る。
 ――その時。

「っ、ひゃ……っ?」

 目の前を、突如大きな人影がよぎった。驚いて大声を出しかけたが、なけなしの理性を総動員して自分の口を手で塞ぐ。しかしその拍子に、手にしていた提灯が落ちて、わずかに物音が立った。
 だけれど花琳(ファリン)は、そんなことに構っている余裕はない。だって、今の人影は――。
(男……?)
 しかも、あれは明らかに「生きている」人間だった。それくらいの区別は花琳(ファリン)にだってつく。だって、亡霊は足音を立てたりなどしない。
(まさか、後宮に男なんて……?)
 宦官(かんがん)という可能性もあるけれど、それにしては妙なほどに人目を避けて走っていった。どう見ても怪しい人物だ。今まさに自分も不審人物なのだけれど、それを棚に上げ、花琳(ファリン)は人影の去っていった方向をじっとみつめた。
 これは、後で哉藍(セイラン)に報告しておくべきかもしれない。今後を追ったところで、花琳(ファリン)の足で追いつけるとは思えなかった。
 うん、と一つ頷いて、花琳(ファリン)は目的の方向へと視線を向けた。今夜は細い三日月が空に浮かんでいるだけで、辺りは暗く静まり返っている。辺りを窺ってみても、今度は物音一つない。

「よし……」

 小さく呟いて、花琳(ファリン)は提灯を持ち直すとそっと一歩踏み出そうとした。だが、その瞬間前方からカタン、と小さな物音がした。油断していた花琳(ファリン)は、思わず飛び上がり、悲鳴をあげかける。だが、その悲鳴は後ろから伸びてきた手に阻まれ、くぐもった呻き声になって消えた。

「ひっ……」
「静かにしろ」

 背後から伸びた手の主にそう告げられ、身体を腕で拘束された花琳(ファリン)は、恐ろしさに身を竦ませた。
(い、いやっ……誰か……っ)
 思わず、心の中で助けを求める。
 だが、誰にも言わずに抜け出してきたのだから、ここに花琳(ファリン)がいることを誰も知っているはずもない。もちろん、助けなど期待できるはずもなかった。
 もしかしたら、先程の人影の主が見られたことに気付いて戻ってきたのだろうか。恐慌状態に陥った花琳(ファリン)は、身体をひねり、手足をばたつかせてその腕から逃れようともがく。
 すると、慌てた気配がして、背後の人物はゆっくりと少しだけ手の力を緩め、話しかけてきた。

「馬鹿……そんなに暴れたら、見つかるだろうが……」
「え……」

 背後から抑え込まれた花琳(ファリン)には、その人物の顔は見えない。けれど、その低く抑えられたささやくような声には、聞き覚えがあった。

「せっ……」
「シッ、誰か来る」

 彼の名前を呼ぼうとした瞬間、前方から小さな足音が近づいてくるのが聞こえる。男が鋭く声を発したかと思うと、花琳(ファリン)はくるりと身体を返され、顔を胸に押し付けるようにして抱き込まれた。

「え、えっ」
「しばらくこのまま……黙っていろ」

 肩口に鼻先を埋めた彼にそうささやかれ、花琳(ファリン)はつばを飲み込むとこくりと頷いた。背後の足音がだんだん近くなり、やがて少し離れた場所でぴたりと止まる。

「誰かいるの……?」

 どこか怯えを含んだような誰何の声は、意外なことに宮女と思しき女性のものだった。いや、後宮なのだから当然なのかもしれない。ああ、何かを考えていないと、叫びだしてしまいそうな気分だ。
 だが、花琳(ファリン)を抱きしめた男は、不思議なほど落ち着いた様子だった。ぎゅうぎゅうと花琳(ファリン)を抱きしめたまま、身動き一つしない。
 ふと花琳(ファリン)は、混乱した頭に浮かんだ一つの事実に身を震わせた。
(これ、まずくない……? 仮にも後宮、ここでは……)
 そう、いまだ仮初とはいえ、ここは後宮。つまり、ここにいる女は全て皇太子のもの。
 こんな現場を見られれば、花琳(ファリン)も彼も、ただでは済まない。不義密通、という言葉が頭に浮かんで、背筋がぞっとする。露見すれば、よくて追放、悪くすれば死罪もあり得る重罪だ。
 だが、小さな提灯を掲げた宮女は、二人の様子に気付くと「なんだ」と気の抜けたような声をあげた。

「なんだ、ご同類か。馬鹿だねぇ、こんなところじゃすぐ見つかっちまうよ」
「気をつけよう」

 宮女の声に答えたのは、いつも聞いているより少し高く作った声。だが、その会話の意味が分からずに、花琳(ファリン)の混乱は深まるばかりだ。

「うまくやりなよ……まったく」

 その言葉を最後に、宮女は元来た方角へ去っていったようだった。小さな足音が遠くなり、やがて完全に聞こえなくなる。花琳(ファリン)の身体から力が抜けたのは、それからしばらくの時間が経ってからだった。

「……落ち着いたか」
「……なんとか」

 問いかけに答えると、ようやく腕の力が緩む。やっと解放されて視線をあげると、そこにあったのは思った通り、哉藍(セイラン)の顔であった。

哉藍(セイラン)様、どうしてここに……?」
花琳(ファリン)こそ、なぜこんな時間にここにいる?」

 質問に質問を返されて、花琳(ファリン)はぐっと言葉に詰まった。やましいことをしていたわけではないが、内緒で抜け出したことには後ろめたさを感じる。
 思わず視線を逸らすと、哉藍(セイラン)が小さくため息を落とすのが聞こえた。

花琳(ファリン)
「い、いや、そのですね……」

 顔を見なくても、なんだかもう声だけで充分わかる。明らかに怒ってらっしゃる。
 じっとりと背中に嫌な汗が噴き出してきた。あは、と乾いた笑いをもらして、明後日の方角に目を向ける。
 そうして初めて、花琳(ファリン)は違和感に気付いた。
(なんか、明るくない……?)
 今日の月は、三日月。月明かりには期待できない。殿舎は寝静まっていて、灯りのひとつも漏れていない。灯篭からは遠いし、唯一の光源は手に持っている提灯だけ。
 慌てて哉藍(セイラン)を振り仰いで、花琳(ファリン)は絶句した。
 こちらをじっと見つめる彼の姿が、視界にはっきりと映し出されている。秀麗な美貌も、しなやかな体つきも、濃藍の袍も――。
 けれど、花琳(ファリン)の視線を釘付けにしたのは、彼の瞳だった。
 哉藍(セイラン)の瞳は、薄闇のなかでくっきりと金の色に輝いている。
(金、眼……)
 どうして。
 花琳(ファリン)だって、知っている。紅髪金眼は紅国では皇族しか持ち得ない特別な色だ。たとえ片方だけでも――。
 おもわず一歩後退った花琳(ファリン)に、哉藍(セイラン)が怪訝な顔をした。

「……どうした?」
「その、眼……」

 花琳(ファリン)の漏らした一言にハッとした表情を浮かべた哉藍(セイラン)が、一瞬自分の目元を手で覆った。
 くら、と視界が揺れる。その途端、明るかった周囲がすっと暗闇に戻り、その落差にたたらを踏む。

「お、おい……!」

 よろけた花琳(ファリン)を、哉藍(セイラン)の腕が支えた。そうして覗き込んでくる彼の瞳は、元の通りの黒。
(なに、なんなの……?)
 再び眩暈に襲われて、今度は視界が闇に閉ざされる。慌てたような哉藍(セイラン)の声を聞きながら、花琳(ファリン)は意識を手放した。