「今日もいい天気ねぇ」

 早朝の風はやや冷たいが、起き抜けの身には心地よい。胸いっぱいにその空気を吸い込んで、花琳(ファリン)は大きく伸びをした。
 空を見あげれば、青い空に幾筋か雲がたなびいている。雨の兆候はなさそうだ、と判断してぱたんと窓を閉めると、身支度を整えて部屋を後にした。
 廊下に出れば、すでに通いの使用人夫婦が朝餉の支度をしているとみえ、粥を煮る良い匂いがあたりに立ち込めている。十六歳の健康な胃袋は、その匂いにきゅうと小さな音を立てた。
 苦笑をもらした花琳(ファリン)は、急ぎ足で厨房の方へと歩いて行く。

「おはようございます!」
「おはよう、花琳(ファリン)ちゃん……今日も早いね」

 花琳(ファリン)の元気な挨拶に振り返ったのは、(シュウ)夫人だ。夫とともに、ここ(ユウ)家の別邸で家事全般を担っている。もう五十に手の届こうかという年齢だが、きびきびとよく立ち働く気立ての良い人物だ。

「んん……良い匂い。早く食べたいな……」
「じゃあ、桜綾(ヨウリン)様を早く起こしてくるんだね」

 (シュウ)夫人は、目尻にしわを浮かべてにっこりと微笑んだ。ほら、と指し示された先には、盆の上に水差しと湯呑が並べられている。
 毎朝のことだが、げっそりとした顔つきになった花琳(ファリン)を見て、(シュウ)夫人はますます目尻のしわを深くした。

花琳(ファリン)ちゃんはよくやってるよ……これまで桜綾(ヨウリン)様に弟子入りしたい、という人間は何人も来たけれど、すぐに根をあげて逃げ出しちまったのにさ」
「……師匠は、私にとっては恩人だから」
「そうだろうけど……」

 なおももの言いたげな(シュウ)夫人に微笑んで見せると、花琳(ファリン)は盆を抱えて厨房をあとにした。
 都のはずれにある別邸とはいえ、(ユウ)家の所有物であるそれはなかなかの広さと格式を備えている。中庭を囲むようにして建てられた邸の廊下を、花琳(ファリン)は水をこぼさぬよう注意しながら早足に桜綾(ヨウリン)の部屋のある奥へと向かった。
 格子戸の前で一つ息を吸い込むと、外から声をかける。

「師匠、桜綾(ヨウリン)師匠、朝ですよ……!」

 そのまま、ゆっくりと十を数えるほどの時間、花琳(ファリン)はそのまま中の様子を窺った。だが、中からは物音一つしない。
 いつものことだけど、と花琳(ファリン)は小さく嘆息すると「入りますよぉ」と一声かけて部屋の戸を開けた。
 とたんに鼻をついたのは強い酒精の香りだ。鼻の頭にしわを寄せ、取っ散らかった部屋の中をずんずんと進んで奥の牀榻(ショウトウ)へと向かう。
 薄絹を張り巡らせた牀榻(ショウトウ)の中では、一人の女性が布団にくるまって呻いている。

「う、うう……」
「もう……桜綾(ヨウリン)師匠、またですかぁ?」
「うぷ……もう飲めない……」
「飲まなくていいんですよ!」

 もう、と小さく呟いて、花琳(ファリン)は傍らの机に盆を置こうと振り返った。が、そこには昨夜使用したと思われる酒器や、桜綾(ヨウリン)があちこちから収集した本がところせましと積み上げられている。昨日片づけたばかりなのに、とため息をつきながら、花琳(ファリン)はそれらを手で寄せて場所を作った。
 盆をそこに置くと、花琳(ファリン)は布団を抱え込んで丸くなっている女性、(ユウ)桜綾(ヨウリン)からそれをはぎとり、叩き起こす。桜綾(ヨウリン)は抵抗を見せたが、その腕は弱弱しいものだ。あっさりと牀榻(ショウトウ)から追い出されると、床の上に座り込んで「うええ、水……」と呻く。その息の酒臭さに、花琳(ファリン)は顔をしかめた。

「もう、師匠……飲みすぎ!」
「んやぁ……しかし」
「しかしも案山子もないんです! どうしていつもこんなになるまで飲むんですか……」

 はああ、と大きなため息をついた花琳(ファリン)の足元で、桜綾(ヨウリン)は差し出された湯呑に入った水をちびちびと飲んでいる。
 その表情は、激しい二日酔いのために冴えないが、とても反省しているようには見えない。
 再び大きなため息をこぼして、花琳(ファリン)は湯呑に水を継ぎ足してやった。
 花琳(ファリン)桜綾(ヨウリン)の弟子になってから、既に一年の月日が流れている。その日から、これは毎朝繰り返されている光景だ。
 もともと、花琳(ファリン)は下級貴族である(レイ)家の娘であった。父は宮廷に出仕する文官で、母はその後妻でる。父と前妻との間には息子が一人いて、これが花琳(ファリン)にとって年齢の離れた異母兄で名を俊豪(チンハオ)という。
 前妻は産褥で亡くなったそうだ。そんなわけで母親というものと縁遠かった異母兄は、後妻に入った母のことを慕い、後に産まれた花琳(ファリン)のことも大変にかわいがってくれた。

「かわいい花琳(ファリン)、にいさまと一緒に本を読もうか」

 八つも年上の異母兄は、そうやっていつも花琳(ファリン)を膝の上に乗せて、絵巻などを読んで聞かせてくれたものだった。
 このように、たいそう幸せな生活を送っていた花琳(ファリン)である。だが、残念なことにそれは長く続くものではなかった。
 まず最初、花琳(ファリン)が九歳、俊豪(チンハオ)が十七歳の時のこと。両親が揃って流行り病にかかり、あっさりと亡くなってしまった。
 突然の当主の死去に、下級とはいえ貴族の一員である(レイ)家は、跡目を巡ってかなり揉めたらしい。らしい、としか言えないのは、九歳の花琳(ファリン)は両親を亡くした悲しみのあまりほとんど臥せってばかりいて、何も知らずに過ごしていたからだ。
 だが、半年もしないうちに俊豪(チンハオ)は基盤を整え、(レイ)家の跡継ぎとしての立場を確固たるものとしたようだった。
 さらにその一年半後、十九歳を迎えた俊豪(チンハオ)は、立太子されたばかりの皇太子、紅劉帆(ホン リュウホ)のもとで働く機会に恵まれた。

「皇太子殿下は素晴らしいお方だよ、花琳(ファリン)

 早く帰れた日に夕餉を共にすると、俊豪(チンハオ)はよく酒に酔ってそんなことを花琳(ファリン)に言って聞かせたものだ。
 それからしばらくは、平穏な日々が続く。一応貴族の子女である花琳(ファリン)は、毎日を習い事やそのお稽古に時間を費やしたりして過ごした。
 異母兄も生き生きと働いていて、(レイ)家は順風満帆であるかのように見えた。
 だが、それからしばらくすると、再び不穏な空気が漂い始める。俊豪(チンハオ)が家に戻る時間がだんだん遅くなったかと思うと、今度は幾晩も帰ってこないような日々が続くようになったのだ。
 花琳(ファリン)は異母兄の身体を心配し、少しは休むようにと言い続けてきた。けれど、少しやつれた顔をした俊豪(チンハオ)は、いつも力のない笑みを浮かべてこう言うのだ。

「今が山場なんだ……これを超えたら、少しお休みを頂けるからね」
「でも、にいさま……お顔の色が悪いわ」

 思えば、この時花琳(ファリン)はもっと強く俊豪(チンハオ)に休みを取るよう言うべきだったのだろう。しかし、それは言っても栓なきこと。
 けれど、花琳(ファリン)は未だにこの時のことを夢に見てうなされることがある。
 なぜならその後――俊豪(チンハオ)は、朝出仕すると言って家を出たまま消息を絶ってしまったのだ。この時、花琳《ファリン》は十三歳、俊豪(チンハオ)は二十一歳になっていた。
 さらに悪いこととは重なるもので、俊豪(チンハオ)が行方知れずになったことが露見したころ、皇帝陛下が病に倒れたとの報が国中を駆け巡ったのである。
 国を揺るがす凶報に、世情は乱れ都の中の治安も悪化する一方。皇太子殿下は何をしているのか、と責める声まで上がり始め、まさに収拾のつかない事態にまで発展していた。
 そんな混迷した世情もあり、主を失った(レイ)家はいつの間にか家督を奪われ、花琳(ファリン)は貴族のお嬢様から一転、下働きの身にまで落とされた。
 これには、父が一族の意向を無視して花琳(ファリン)の母を後妻に迎えたことも影響していたようである。そんなことを、花琳(ファリン)に代わって「(レイ)家のお嬢様」になった嶺依(リョウイ)から聞かされた。

「おまえのその目、気持ち悪いったらないわ……」

 そう言われたことも何度もあった。
 花琳(ファリン)の母は、遠い祖先に異民族の血が入っているらしい。そのせいか、花琳(ファリン)はこの国では珍しくない黒髪ではあるものの、瞳はほんのりと青みがかっている。
 明るいところで見なければわからないほどの些細なことだが、それが彼らにとって気に入らないことのようだった。
 そして、もうひとつ。花琳(ファリン)はどんな扱いを受けようとも「いつか異母兄が帰ってきてくれる」と信じて決して折れることがなかった。これだけひどい扱いを受ければ、泣いて許しを乞うてもおかしくない。元は貴族のお嬢様として、甘やかされて育った娘だ。そうしてみっともない姿を見せれば、彼らの溜飲も下がっただろう。けれど、花琳(ファリン)は泣き言も言わず、黙々と彼らの仕打ちに耐え続けた。
 ただ異母兄の無事な姿を一目見たい――きっと帰ってくるならば、それは「ここ」に違いない。だから花琳(ファリン)は決して追い出されるわけにはいかなかったのだ。
 けれど、その態度が、さらに彼らの神経を逆なでしたとみえる。与えられる仕打ちは次第に苛烈なものになっていた。
 食事は一日一度。それも、嶺依の機嫌次第で与えられないこともざらにある。
 やせ細って骨と皮だけのガリガリの姿で働かされていた花琳(ファリン)を救ってくれたのが、現在の師匠である(ユウ)桜綾(ヨウリン)だった。