「このまままっすぐ歩いた先にあるコメダの左に曲がって、ちょっといった先のコーポ」
「あー、あのボロっちいとこ」
「五年くらい前に修繕したらしいから、もうボロくはないよ」
「じゃあ、そこでやろうよ」

 僕は無言のまま、また息を吐いた。何をやるんだ、とは訊けない。彼女はいつの間にか、僕のコートの左袖を強くつかんでいた。それは親愛の情の表現というよりは、捕獲した獲物を逃すまいとしているようだ。このまま、ここでさよならというつもりは加藤にはまったく無いらしい。それにたぶん、この場で一万円札を差し出しても、彼女は決してそれを受け取りはしないだろう。もしかしたら、紙飛行機にして冬空に飛ばしてしまうかもしれない。

 加藤杏は、誰にも媚びないし、馴れ合わないのだ。

 中学の頃、その気性のせいで彼女は僕以外すべてのクラスメイトに敬遠されていた。転入直後は女の子向けファッション誌の読者モデルと言っても誰も疑いはしないであろう彼女の洗練された雰囲気と、整った容姿に良くも悪くもクラスの連中は興味を抱いていた。でも、彼女は彼らとほとんど会話らしい会話を交わそうとしなかった。それどころか、長い前髪の向こうからのぞくつり目気味の大きな瞳で「近づくな」という言外の声を発して、皆を威嚇し、遠ざけていた。彼女の周りには、常にぴりぴりと張り詰めた空気が漂っていた。

 どんなに可愛くてもちっとも懐かない猫には、人は幻滅する。

 加藤杏は、転入一日目にして僕達のクラスの中で、孤立した。

 十年前のことを思い出しながら、見慣れた夜道を歩いて行くと、ついにコーポにたどり着いてしまった。まだ彼女は僕の腕を放そうとはしない。僕は入り口の前で立ち止まる。

「どうしたの? 早く入ろうよ。寒いし」

 加藤はくいくいとスーツの袖を何度か引いて、僕を急かした。でも、まだ僕は彼女を買うことに、いや彼女と性的な行為に及ぶ決心がつかない。元クラスメイトの女の子に金を払ってそんなことをするなんて、どうなんだ。

 ましてや相手が加藤杏なんて。

「ここまで来て、何で緒方はビビっちゃうかなぁ」
「ここまでって、ここはそもそも僕の部屋なんだけど」
「もしかして、もうお金無いの? 緒方もビンボー?」

 加藤が僕を見上げる。

「あ、うん、実はもう五千円しかない」僕はとっさに嘘をつく。