翌日も、霧のような雨が降りつづいていた。
 僕は春野から借りた折りたたみ傘を鞄に入れると、ビニール傘を差して家を出た。
 放課後、学校を出た僕はいつものように駅に向かう。そうしていつもとは違う、下り電車のホームで待った。
 沙和から直接聞いたわけではないけれど、沙和の通っている高校なら知っていた。私立高校の特進コースに推薦合格したという話を、当時のクラスメイト伝いで聞いていたから。

 電車に揺られながら、僕は沙和と最後に話したときのことを思い出していた。
『覚えてないの?』
 ひまりの事故の翌日。たいした怪我ではなかったこと、だけど頭を打ったせいで少しだけ記憶が欠けてしまったことを伝えた僕に、強張った表情で聞き返してきた沙和の声。
 頷いた僕に、沙和はためらいがちになにかを伝えようとして、それをさえぎるように春野が沙和を呼んだ。
 きっと、あのとき沙和が伝えようとしたのは、欠けてしまったひまりの事故時の状況についてだったのだろう。
 そして春野は、僕にそれを教えたくなかった。

 降りた駅は、たくさんの高校生でにぎわっていた。沙和の通っている高校の制服である、カーキ色のブレザーを着た生徒も数人いた。
 全員の顔を確認したけれど沙和はいなかったので、その中のひとりに高校までの道を教えてもらい、駅を出て歩きだした。
 五分ほどでたどり着いた、立派なレンガ造りの門の前で足を止める。邪魔にならないよう壁の側に移動すると、そこで僕は沙和を待った。

 二十分ほど経っただろうか。しだいに雨脚が強まってきて、立っているだけでも跳ね返る水滴でスニーカーがしっとりと濡れてきた頃、ひとりの女子生徒が門の向こうから歩いてきた。
 ビニール傘越しのにじんだ景色にそれを捉え、僕はあわてて傘を上げる。そうしてあらためて彼女の顔を確認した僕は、あ、と声を上げた。

「沙和!」
 名前を呼んだら、思いのほか大きな声が出た。
 彼女の差していたオレンジ色の傘が揺れ、驚いたように顔を上げてこちらを見る。途端、え、と彼女は目を丸くして、
「りっくん?」
 露骨に戸惑った声で、小学校の頃から変わらない僕のあだ名を呼んだ。

 目の前まで歩いてきた沙和は、中学時代はひとつに束ねていた髪を下ろしていたり、薄く化粧をしていたりしたけれど、最後に会ったときと大きな変化はなかった。
「え、どうしたの、こんなところで。てか、久しぶりだね」
 突然現れた僕に困惑した様子で、沙和はぎこちない笑みを浮かべる。それに僕もぎこちなく、「久しぶり」と返してから、
「沙和に、会いにきたんだ」
「え」
「ちょっと、訊きたいことがあって」
 それだけで、沙和はなんとなく察したような顔をした。なにも訊かずに短く頷いて、「じゃあ移動しよう。濡れるし」と道の向こうに見えるファストフード店のほうを指さした。

「急にごめん、忙しいのに時間とってもらって」
 お互いの飲み物を買ってから窓際の席に向かい合って座ったところで、僕はあらためて口を開いた。
「あ、ううん」と沙和は顔の前で手を振りながら、
「全然大丈夫。べつに今日はこのあとなにもないし」
「特進コースって、勉強大変なんでしょ」
「まあ、それなりに。私はほどほどにやってるけど」
 久しぶりの会話は、お互いなんとなく距離を測りかねている感じだった。ぎこちない調子で、軽くそんな世間話を続けたあと、

「……この前さ、久しぶりに春野に会って」
 少し緊張しながらその名前を出すと、え、と沙和はストローから口を離した。
「花耶ちゃん? 元気にしてた?」
「うん、まあ、元気そうだった」
「そうなんだ。……よかった」
 そう呟いた沙和の声には、妙に実感がこもっていた。
「よかった?」と思わず拾って訊き返してしまうと、
「だって花耶ちゃん、病気だって聞いてたから。それで卒業式も出られなかったらしいし」
 心臓が、一度硬い音を立てた。
 なんとなく、そうではないかと思っていたことではあった。春野が病弱だったことも、入退院を繰り返していたことも知っていた。
 だけどあらためて、沙和の口からはっきりと告げられたことで、急にその事実が重く身体に沈み込んでくるのを感じた。

「……ああ、でも」
 その重さを振り払うように、僕はできるだけ軽い口調で口を開くと、
「もう治ったって言ってたよ。今は元気だって」
 そうだ、たしかに彼女はそう言っていたし、実際会っているあいだもずっと元気そうだった。野球だってしていたし、子どもを助けるために地面にスライディングしたあとも、けろっとしていた。
「そうなんだね。よかったよ。けっこう重い病気だって聞いてたから」
「うん。もう今は、なんてことないって」
 ――重い病気。
 沙和がさらっと口にした言葉に、また動揺しかけたのを振り切るよう、僕はそう重ねた。沙和へというより、自分自身へ言い聞かせるように。

「よかった」と沙和が再度繰り返す。
 その声は本当に、心からほっとしているように聞こえた。少なくともそこに、春野に対する悪い感情のようなものは見えなくて、僕は沙和の顔を見た。
「……沙和ってさ」
「ん?」
「中学で、階段から落ちて怪我したことあったじゃん」
 出し抜けに口にした僕を、沙和はふっと真顔になり見つめた。少し間を置いて、うん、と語尾を上げた調子の相槌を打つ。
「あったけど」
「あのとき沙和、春野といっしょにいたんだよね」
「うん」
 今更、こんなことを訊いている自分が不思議だった。本当は、もっと早く、彼女に確かめるべきだったのに。
「あれって……もしかして、春野に、突き落とされたの?」

 沙和はしばし無言で僕の顔を見つめた。
「……違うよ」
 短い沈黙のあと、テーブルの上に視線を落とす。それからゆっくりと首を横に振って、
「突き落とされたわけじゃない。ただ、ちょっと……話してたら、口論になって」
「ひまりのことで?」
「ううん、ひまりちゃんのことっていうか……どっちかというと」
 そこで沙和は少し困ったように眉根を寄せ、また僕の顔を見ると、
「……りっくんの、ことで」
 ためらいの交じる声で、そう続けた。